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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

不断桜

作者: Michio Tanimura

本小説は十数年前に執筆され、偶然発見されたものです。

第一章


太陽は眼下に降り注ぎ、時の経過さえ覚束ない、そのとき眩暈が龍彦を掠めた。

まるで、ビートルズのレットイットビーが逆回転しているような、意味さえつかめぬ音楽が聞こえている。龍彦は人間の静と動が混淆し、砂浜に沈殿していくような感覚を覚えた。サーフボードの隙間から稲村ヶ崎に眼を転ずると、突然女が「痛い!」と言った。

ヒゲをなでながらボードを持って立ち上がると、痛いといった女が真っ白な顔で微笑した。女の名は麗華といった・・・唯、美しいだけの女、存在だけで価値のある女・・・麗華はそんな女ではないかと龍彦は思った。

龍彦は八月の大きな波に向かって、力強くパドルした。その筋肉の快活さは、同じサーファー仲間でさえ羨むほどに鋭敏だった。沖に出た。波は来ない。振り向くと麗華が見える。白いワンピースに、白いしゃれたサンダルを履いて、黒の日傘を差している。ラッシュガードを突き刺す太陽は肩をかすかに刺激する。波が来た。龍彦はパドリングから波頭でテイクオフすると、浜に向かって大きな波のうえに踊るように孤を描いた。


仲原麗華は、二子玉川に住む二十九歳のモデルであった。その職業は彼女の年齢をいつまでも二十九に貼り付けておかなければならないような、職業的な束縛を有していた。色は透き通るほどに白く、身の丈は百七十センチを超えた。

麗華のモデル仲間の長井三咲は、龍彦の大学のサークルの七つうえの先輩に当たった。三咲は都心での撮影が早く退けた折に、よく母校の部室に立ち寄った。ちょうど龍彦が大学一年の秋の始めのことである。


龍彦が「犯罪心理学研究会」の部室のドアをあけると、大層美しい年上の女がいたのを覚えている。それは三咲がヤングミセス向けの雑誌のモデルとして取り上げられ始めた頃と時を同じくする。

あれから三年が経っていた。三咲は深夜番組のレポーターとして割と名のあるモデルになっていた。一方、龍彦は商社への就職も決まり、八月の残暑の中で「犯罪心理学研究室」に出入りし、刑法ゼミの卒業論文の草稿を練っていた。そんなやけに暑い日のことであった。龍彦がアイスコーヒーを買って学食から出ると、スマホがなった。ナンバーディスプレイは「ナガイミサキ」と表示している。この瞬間の彼の少しばかり平衡を失った心境については若干の説明を要する。

 一般に、女がそう思わないほど男は女を強く意識する。例えば、龍彦はたまに三咲がテレビに出ると、三咲と寝る可能性について考えるが、三咲はそのことをおそらくは一辺も考えたことはないだろう。またそのとき龍彦は、三咲の肉体へと強烈に傾斜していく自分を意識するが、三咲と言えば、龍彦と二人になったとしても彼の肉体に対して明確な意識を持つことはないだろう。

 龍彦は、少し曖昧な期待を持ちながら、留守電に切り替わる寸前にキーを強く押した。

「こんにちは、長井です。」三咲は透き通るような落ち着いた声で、そういった。

「はい、深山です。ご無沙汰です。」龍彦はいつになく謹直な調子で言葉を返した。

「突然でゴメンネ。ちょっとお願いがあるの。麗華が海見たいっていうのよ。この前部室に連れてった彼女よ。龍彦君、連れてってくれないかな、おうち鎌倉だよね。」

「はい、あの綺麗な方ですか・・・」

六月の下旬のことであった。夕暮れに龍彦は、部室で後輩に刑法に関する熱弁をふるっていた。突然、ドアがにぎやかに開かれ、部員とともに三咲達がなだれ込んできた。そのとき一緒だったのが、仲原麗華という、色の白く背の高いモデルだった。その日は真田堀で撮影があったらしく、数人の部員が見学と称して撮影現場に行っていた。麗華は三咲と一緒に部室に連れられてきたわけだが、その後の飲み会では、一滴の酒も飲まずに上戸の三咲とは対照的に清楚で、静かな印象を与えた・・・


三咲は続けていった。

 「今週は週末までオフなんだってさ。一日ぐらい付き合ってあげなよ。なんかいいことあるかもしれないよ、龍彦君。そうそう、この前飲みに行ったじゃない。あのとき麗華ね、“深山君ってカワイイ”って、言ってたわよ。ラインしてあげなよ。」

「そうっすね、たまには綺麗なお姉さまとサーフィンでもしますか。ぼくもお盆までは特に予定はないんですよ。あさっての木曜なんかどうですかね。」龍彦は照れ隠しに、少し虚勢を張った。

「ありがとう。麗華ちゃんとても喜ぶよ。じゃ伝えとくから、よろしくね。」

「はい。こちらこそよろしくおねがいします。」

「それじゃまたね。」

三咲の声が切れると、龍彦は少しうずくまりそうになった。それは、この事態が果たして僥倖と呼べるものであるかという疑念と、何よりも相手が三咲ではなく麗華だという点にあった。龍彦は、三咲のことをもう長い間、十分に好きになっている自分をどこか遠いとこから冷静にみていた。


眼前には、脚の長い、真っ白く容姿端麗な女がいる。そして、ここは浜辺だ・・・

龍彦は砂浜に寝転ぶと麗華に向かって、手を突き出した。麗華はその手を左手でぎゅっとつかんだ。龍彦には、麗華のどこまでも白い手と長い脚がこの世のものとは思えないほどに美しく思えた。

「ねえ、麗華さん。何で海なんか見たくなったんですか。」

「海って綺麗よね。私、多摩川や湘南海岸が好きなんだ。」

「多摩川は近いんじゃないですか。」

「そうね。」

「なにか運動とか音楽とかやってるんですか。」

「私、たまにバイオリン弾くの。区の楽団に入っているから。」

「そうなんですか。なんか麗華さんのバイオリンが聞きたいな。」

「今度招待するよ。九月に定期演奏会があるんだ・・・」

龍彦にとって、麗華がどのような気持ちで海に来たのかは判然としなかったが、彼女の気持ちを忖度する気もなく、さりとて特段に彼女を気遣う用意もなかった。しかし、こうして麗華と手をつないでいると、この人には一体気持ちなぞというものが本当にあるものかと少し訝しく思えた。

海は美しかった。そして、単調に繰り返される潮騒の鼓動が、永続というものを約束しているようであった。



第二章


九月になった。龍彦は三軒茶屋から三宿に向かって国道二百四十六号線を歩いていた。目黒方面に、昭和女子大学の正門があった。キャンパスに入ると、レオ・トルストイの銅像が大きく聳え立っていた。龍彦はその前で立ち止まり、しばらく見入った。

高校時代、「クロイツェルソナタ」を読んだことがあった。ベートーベンの美しいバイオリンの調べと人間の感情を対置させながら、不倫というものを猛烈に批判したトルストイの文学に感銘を受けた。そして深く考えさせられ、「クロイツェルソナタ」がどんな音楽なのかが聴きたくて、CDを買った。そのとき買ったものは今でも彼のCDラックにあった。

「龍彦君・・・」突然声がした。

眼を向けると、麗華が講堂の受付の脇に立って手を振っていた。白いブラウスに黒いスカートをはき、髪はひっつめにしていた。

龍彦は階段を上り、麗華に「こんにちは」と挨拶した。

「今日は緊張しちゃうな。龍彦君に間違えるとこ見られちゃうかな。はいチケット。」麗華は笑顔でチケットを龍彦に渡した。

「どうもありがとうございます。ぼくお金お支払いします。」龍彦が財布を開くや否や、

「この前海でご馳走になったから今日はいいの。ゆっくり聞いて頂戴ね。」そういうと、麗華は踵を転じて楽屋へと歩いていった。その後姿は、ひ弱さの中に屹然と聳え立つ強固な意志の反映とも彼には映った。


この日のプログラムは、

ベートーベン 序曲「コリオラン」

ムソルグスキー・ラヴェル編 組曲「展覧会の絵」

ブラームス 「交響曲第4番」  

の三曲だった。


龍彦はど真ん中の席に座った。麗華は第二バイオリンで、姿が見えたり見えなかったりする。龍彦はクラシックを聞く趣味はまるでなかったので、演奏が始まってしばらく経つと、少し退屈をした。そのうち意識が遠くなりいつしか彼は眠っていた。休憩時間に眼が覚めると彼はトイレで顔を洗った。もし麗華に見られたらどうしよう。後半はしっかりと聴こう。彼はそう自身に念じた。

ブラームスが始まった。龍彦は思った。このうら寂しい、晩秋を思わせる、咽ぶような音楽とは何のことだ。一体どうして俺の心はこれほどまでに揺れているんだ、と。


麗華はスコアをみながら必死にバイオリンを弾いていた。ボウイングは一糸乱れず、その中の麗華の姿に龍彦は、段々と彼女へと傾斜していく自分を感じていた。けれども不思議なことに、それは肉体に対してではなかった。強いて言うならば、音楽の只中に見出される、もうこれ以上行く場所のないような真摯さに対してであるように龍彦には思われた。

彼は次第にブラームスに引き込まれた。これまでに真剣に聴いたクラシック音楽といえば「クロイツェルソナタ」くらいのものであるが、これほどまでに心を捉えられた音楽はかつてない。明らかに何か得体の知れない想念が、ブラームスの音楽の中に揺曳していた。それは、死のようにも感じられ、また美のようなものにも彼には聴こえた。

演奏が終わると龍彦は大きな拍手をし、麗華を見た。しかし彼女の視線が龍彦のそれと合うことはなかった。龍彦はロビーで麗華を待った。多くの演奏者らが聴衆に囲まれて、花束を抱えていた。遠くを見渡すと、その中にひときわ背の高い黒髪の豊かな女が眼に入った。麗華だった。龍彦は躊躇した。このまま帰ろうか・・・

麗華は花束に包まれて、海で見たときよりさらに美しかった。そのことが果たして彼をとどまらせているのか、それとも美しさなぞというものを超越した、今さっき聞いたばかりのブラームスがもたらした名伏しがたい情動の揺らぎがそうさせているのか、彼には判然としたものはなかった。

龍彦は出口に向かって、たどたどしい歩調で進んだ。そのとき後ろから女の声がした。

「龍彦君、いっしょに麗華ちゃんまってようよ。」振り向くと、いかにも寝不足といった顔つきの、三咲が立っていた。

「お久しぶりです。三咲さんもお聴きになっていたんですか。」

「私はロケ帰りで寝坊しちゃった。麗華ちゃんには黙っててね。」

龍彦は出口で三咲とともに、麗華を待った。

「なんか麗華さんって、お知り合いの方たくさんいるんですね。」龍彦はぼそっとつぶやいた。

「みんなクライアントとか、仕事の関係よ。あの子、結構まじめなんだよ。」

「はあ、それはまじめと思いますが・・・」

龍彦は、三咲のいう“まじめ”という意味は察することができたが、その“まじめの程度”について、見掛けの割に奥手なのか、それとも年相応という意味なのか、その意を測りかねた。もっとも彼はそもそも二十九の女の“まじめさ”について見識がなかった。

麗華がクライアントを送るのを待って二人は背後から声をかけた。

「麗華ちゃん。」三咲の声がほとんど人のいなくなったロビーに響いた。

「三咲ちゃん、ロケから帰ってこれたの。」

「何とか飛行機に乗れたのよ。それで今日は龍彦君といっしょに聴いちゃったわ。」

「えー、そうなんだ。二人は実は密会してるのね。」麗華は白い笑顔でいった。

「いえ、それよりブラームス感動しました。クラシック音楽聴いて初めて感動しました。」龍彦は上気して、そういった。

「ありがとう。私間違えちゃったけどばれなかったかしら。」麗華は少しはにかんだ。

「ボウイングがちゃんとそろっていて、音楽もいい音楽で・・・」

「やーね、龍彦君、評論家みたいだわ。」三咲が笑いながらそういうと、麗華もつられて声を出して笑った。三人がそれぞれに、幸福な何かを共有しながら、安堵の上に笑っているように龍彦には思えた。


*     *     *

 

それからレストランへ行った。

 店内は意外に客が多かったが、中央の四人がけの丸テーブルがあいていた。大学のサークルの飲み会といえば大概が居酒屋である。今、龍彦は美しい年上の女達とともに世田谷の小洒落たメキシコ料理屋にいる。けれども、その空間が密度の濃い空間であればあるほど、龍彦はなぜか冷静になっていく自分を感じた。

 やがてウェイターがオーダーをとりに来た。

「龍彦君、飲むわよね。私はアイスマルガリータ。」三咲が快活にいった。

「はい、じゃ、ぼくはギネスを。」

「私はウーロン茶で。」消えそうな声で麗華は言った。

「麗華さんは、あまり飲まないんですか。」

「下戸なのよ。」三咲がタバコに火をつけながら、龍彦を制するようにいった。

龍彦は、サークルの飲み会で麗華がまったく酒を飲まなかったことを思い出した。迂闊なことをいったものだと思ったが、よく考えれば、酒を飲まない女なんて世にあまたいる人種であった。

 その夜は、軽い食事をとりながら、モデルの仕事の裏話や龍彦の就職の経緯について、遅くまで語り合った。



第三章


十月に入るのと、大学の後期の授業が始まった。彼は刑法ゼミに所属し、犯罪や訴訟手続きに関することを学んだが、大手商社に就職するような民間志向の学生は、本来的に刑法を選ぶ者は少なかった。多くは商法や会社法のゼミに属し、少しでも卒業後に役立てたい、というのが当世の一般的な法学部生の考えでもあった。

龍彦は、「犯罪心理学研究会」では天才の精神分析に興味を持って研究をした。特にパトグラフィー(病跡学)と呼ばれる、天才の業績と罹患した疾病との関連を調べる学問を彼は好んだ。主にパトグラフィーの対象として考えたのは三島由紀夫であった。龍彦はサークルに入ってから、三年の学園祭で発表するまで、三島作品と剣道やボディービルの関係、ホモセクシュアリティについて、文献や作品を読み、三島由紀夫とは何者だったかについて彼なりの考証をした。四年に進学する際に、刑法ゼミを選択したことはこのことと無縁ではなかった。

ある小春日和の美しい日のことだった。いつものように週二回のゼミが終わると、キャンパスの中央にあるピロティでコーヒーを飲んだ。キャンパスは、常緑の喬木群と少し黄に色を深くした広葉樹が美しく太陽の光に映えていた。そのとき龍彦にある想念が浮かんだ。

『大原の紅葉を見に行こう。麗華さんを誘って。』

その想念が、彷彿とした瞬間、彼は既に麗華にラインを打っていた。


それから三日が経過した。龍彦には言い知れぬ焦燥が芽生え始めていた。さらにメールを出そうか、それともいっそのこと撤回しようか。次第に彼の考えは次のように落ち着いた。返信さえあればそれでいい。行くかいかないかはこの際どうでもいい・・・


龍彦は、三島作品においては「金閣寺」とそれに続く「鏡子の家」を重要と考えた。三島由紀夫は幼児から体も小さく、樺太庁長官まで登った祖父と、水産庁長官の父を係累にもつ官僚一家に育った。球技などの運動はまったくせず、長じて剣道などに没頭し、次第に古典主義的かつ日本主義的な傾向を有するようになった。このことは、幼児期に母に育てられずに、封建的な祖母に育てられたことと深く関係する。

「金閣寺」は彼の作品の中でも出色の出来である。金閣という美の象徴に憑かれながらも、次第にその美に疲弊し、ついにはそれを焼いてしまうどもりの僧侶の心境が、一人称告白体の比類ない文体でつづられている。それに対して、次作の長編「鏡子の家」では、有閑の若い婦人、鏡子の家に集まる四人の青年の戦後の退廃的な風潮の中での生き方が三人称でつづられている。画家やボクサーなど作者自身の分身が登場するが、読んでいて四人の克明な描写とは対照的な登場人物それぞれのつながりの希薄さが、作品全体に散漫な解印象を与える。傑作という評論家もいたにはいたが、結果的に世評は辛らつで三島はかなり落ち込んだらしい。この「鏡子の家」の失敗が三島の国家主義的な言説や割腹自殺への傾斜のきっかけの一因しても差し支えないであろう。


四日目の朝があけた。太陽がカーテンを暖色に照らし、鳥のさえずりが龍彦に朝を告げていた。枕元においたケイタイに眼をやると、着信があった。龍彦は冷静にキーを押した。

『お返事遅れてごめんなさいね。実は今夜やっと新潟から戻ったの。イベントの司会のお仕事が急に入って、ゆっくりメールを書く暇もなかったの。大原の紅葉はぜひ見たいわ。京都に連れてって頂戴ね。またメールします』

龍彦はカーテンを少し開けた。小春の陽光がまぶしかった。そのまぶしさの中に、彼は少なからぬ喜びと、返事の留保に対するいやな思いを同時に感じた。


*   *   *


京都では、前日大阪で電気メーカーのイベントの仕事のある麗華と京都駅で待ち合わせ、レンタカーで三千院までいく予定にした。

京都駅は多くの観光客でにぎわい、東京とはちがった独特の落ち着きを保っていた。龍彦は大学一年のサークルの合宿で寂光院や三千院をまわり、その紅葉を見たことがある。この世のものとは思えぬ美しさが大原を覆っていたことを彼はよく覚えている。そのとき突然ケイタイがなった。

「龍彦君、今京都ついたわ。もうすぐ改札をでるところ。」

「はい。改札の外で待ってます。」

スマホをポケットに入れた瞬間に、雑踏の中から長身の麗華が抜け出した。

二人は京都駅からレンタカーで大原に向かった。途中、金閣寺の真横を通った。龍彦の研究によると三島由紀夫はこの作品で、美についての問題の表現に成功しているのみならず、美とは本来何か、という問題のひとつの回答を提出している。龍彦はそれを崩壊の美と解釈した。焼かなければならない美。もし麗華が美であれば、それは美として屹立しているものではなく、死へと向かって崩壊するものである。それが三島由紀夫の美の要件だった。それに対し、龍彦は実はそうではなく、そのような美にこそ本来的な美の根源が隠されていると考えていたが、麗華を知ってから美とはいずれ滅びるべき宿命を背負ったものと感得した。

「どうしたの、龍彦君。急に黙っちゃって。」麗華は龍彦を現実に引き戻した。

「ええ、金閣寺について考えていました。三島由紀夫の金閣寺です。麗華さんは読んだことありますか。」

「うん。高校生のときかな。読書感想文の課題に出されたよ。でもあまりわからなかったな。好きなの、三島由紀夫。」麗華は後方の金閣の金色の社殿を見ながら、そういった。

「実は犯罪心理学研究会で、三島由紀夫の研究をしたんです。研究っていっても大学の学園祭で発表するようなもんですけど。」

「三咲ちゃんも言ってたけど、結構まじめに研究したんだってね。私なんか心理学も文学もさっぱりよ。」

確かに三咲の言うとおりだった。彼女の学年の研究発表資料を見たことがあるが、刑法の領域まで踏み込んで問題を扱っていた。例えば、強姦罪の犯罪要件として、接触説、挿入説、射精説というものがある。つまり、どの段階をもって罪が成立するかという論議であるが、現在では接触説が採られている。そのことと犯人の三様の心理を克明に調べ上げられたものが確かにあった。

「三咲さんの学年は、みんなすごかったみたいですよ。いつも部室に集まって議論していたみたいですよ。」

「そう、三咲ちゃん心理学科だもんね。専門だよ。」麗華は次第に起伏の激しくなる窓外の風景を見ながら、そういった。


大原といえば三千院が有名であるが、宝泉院や実光院といったすばらしい眺めもある。そもそも大原は京都の北のはずれにあるため、普段は人も少ないが、紅葉の季節は別である。

二人は実光院を訪ねた。拝観料に抹茶がついてきたので、庭園で景色を見た。もみじやかえでからなる紅葉の美しさは勿論のことであるが、庭の真ん中に花が咲いていた。聞けば、不断桜という年中花をつける桜であった。真っ青な竹林の上に赤や黄が広がり、中心に濃い色の桜が咲いている。龍彦と麗華は晴れ渡った空を眺めた。

「麗華さんはそんなに綺麗だから、もう何もいらないんじゃないんですか。」龍彦は本気で言った。

「そういってくれるのはうれしいけど、私なんかだめよ。モデルっていったって三咲ちゃんみたいに売れてるわけじゃないし。本当はね。誰かいい人見つけて、結婚したいの。」

龍彦には結婚という言葉が遠くに感じられた。彼が考えるところでは、麗華のような壊れそうなほどに危うい美しさに結婚はそぐわなかった。何故なら、結婚とは建築であり、崩壊とは反対の方向であるからだ。自らもこれから社会に出て、ある程度の成熟を見なければそこには行き着かないだろう。畢竟、二人それぞれに結婚とははるかに遠いところに位置しているのではあるまいか。

「お抹茶っておいしいね。」麗華が微笑みながら言った。

「僕も好きですよ。もう亡くなったんですが、祖母が茶道教室を主宰してたんです。」

「そう、私は表千家を習ってたの。でも途中でやめちゃった。こまごまとお金がかかるのよね。」

「ばあちゃんは、裏千家でしたがそれでもうけていたんですかね。」二人は笑った。どこまでも静かなたたずまいの中で、葉ひとつ落ちる音さえ聞こえそうな空間の中で、唯紅葉の美しい風景だけが眼前に広がっていた。


京都駅で二人はレンタカーを乗り捨てた。時刻は既に十時を過ぎていた。新幹線の上り方面の東京行きは既に最終が出ていた。龍彦はある決断をした。

「麗華さん。もう最終もいっちゃったんで、泊まりませんか。」

「唐突なのね。私の実家、奈良の桜井なの。帰ろうと思えば帰れるんだ。でも、もし私の約束をひとつだけ守ってくれたら、一緒に泊まってもいいわ。」

「約束って何ですか。」

「秘密・・・」

龍彦は、歓喜と怪訝との混淆のなかで、麗華が秘密といった約束を守ろうと思った。

「はい。その約束は絶対に守ります。」

二人は、タクシーで都ホテルへと向かった。


龍彦は部屋のカーテンを開け、京都の街を見つめた。麗華も焦点の定まらない遠い目を窓外に向けていた。こうして二人で一緒にいられる現実を、龍彦は心から僥倖とおもった。

「麗華さん、ご実家桜井なんですか。一年の夏休みに古墳見に行きました。」

「いいところよ。たまに帰る分にはね。」麗華は龍彦を見た。

龍彦は優しく麗華を抱擁した。麗華は龍彦に抗わなかった。この感触だけは一生忘れない。龍彦がそう思った瞬間、麗華は窓際まで一歩後ずさり、龍彦の顔を胸で抱いた。

「約束って何ですか。」

「これ以上はだめ。」麗華は明瞭に言った。

「どうしてですか。僕が嫌いなんですか。」

「嫌いならここにいないし・・・私の体は龍彦君には見せられないよ。」

龍彦はドキリとした。そしてわずかに彼女が左側の胴体を不自然に強くかばっているの知覚した。交通事故か何かで大怪我でもしたのか・・・彼女の気持ちを忖度することの無意味を思いながら、切なさが胸にこみ上げてきた。

「わかりました。約束します。」龍彦は笑顔を作った。

その晩二人は同衾した。

  


第四章


十一月になると、大学の学園祭が始まる。三咲は仕事さえなければ、いつも文化の日に犯罪心理学研究会の研究発表に来ていたが、結局今年は仕事で顔を出すことはなかった。

龍彦は、京都から帰って麗華に数回ラインを送ったが、なぜか返信はなかった。龍彦は悩んだが、彼の大脳皮質を覆っていたのは次のような考えであった。

『もし幽霊を美しいと思う人間がいて、もし線香花火のはかなさをそう思う人間がいて、余命いくばくもない、冷たいような美しさを持つ女を思う男がいたとしたら、それはまさしく自分のことではないか。そしてその対象は、麗華さんその人ではないか。』

龍彦は大原の燃えるような紅葉と麗華のしなやかな体が忘れられなかった。

そんなある日、三咲から会って話したいというラインが入った。


約束の鎌倉駅で龍彦は三咲を待った。電車は時刻どおりに到着した。やがて白いブラウスにジーンズをはいた三咲がエスカレーターを上ってきた。

「お久しぶりです。」

「元気だった。龍彦君。」

「ええ。ちゃりんこでいいすか。」

「うん。のせてってくれるのね。」

龍彦は三咲を自転車の後ろに乗せて海へと続く道を一気に走った。

それは若さであった。国道一三四号線を横切ると海が開けた。二人は遊歩道を夕日を受けながら江ノ島の方向に歩いた。

海岸を歩きながら三咲は言った。

「麗華ちゃんね。実は今年の冬、二ヶ月間入院してたのよ。つきあってた彼に殴られて、肋骨を三本も折ちゃったの。その彼ね、同じ事務所の男性モデルだったんだけど、お仕事が入らなくなって、麗華ちゃんに暴力を振るうようになったみたい。龍彦君だから言うってわけじゃないけど、嗜虐性っていうのかな。入院したときは私もびっくりしたわ。」

「そうだったんですか。」龍彦は表情を隠した。

「麗華ちゃん、また入院したの。同じとこ殴られて。もうモデルは無理よ。」そういって、三咲は、霞んだ太平洋の果てに眼をやった。

 龍彦は意外にも大して驚きもしなかった。暴力やセックスが自ら惹かれた女の壊れる寸前の美しさの根底にあったという事実を、どう纏めてからめとればいいのか思案した。

『人間には少なからず獣性が伴う。それは人間が動物であり、生活を営み、生殖を行うことと無関係ではないだろう。しかし、人間であるという与件にはそうした獣性以外の、世間で言う倫理性や徳のようなものも含まれるだろう。麗華が奏でたブラームスには、どこか人間の悪とは一見無縁の精神が滲んでいた。それは法学部ロジックでも犯罪心理学でも扱えない問題であった。例えば、ある国の国境を出た途端、倫理性も何もない別の国があったとしよう。人間とは本来その国の領内に留まって、全的な人間的営為を行う動物なのだ。麗華はまだ国境の内にいる。彼女を救済するためには、断じて国境を越えてはいけない。』

そう彼は思いながら、小春のどこまでも伸びていく海岸線を見つめた。

「麗華さん、いつ退院できるんですか。」

「数週間はかかるでしょうね。」

「三咲さん。ぼく麗華さんを好きになっていたんです。」

「京都のことは麗華ちゃんから聞いたわよ。でもね、龍彦君には私たちの年になるまで七年もあるのよ。」三咲はため息をついた。

「僕に何か出来ることがありますか。」

「龍彦君ならわかるでしょ。」

三咲はただ、渺茫たる海だけを見つめていた。


龍彦は、真夏に麗華と来た海が、既に秋も半ばに差し掛かっていることに気づいた。そして、麗華との一夜を大切にしながら、またいつか二人で不断桜を見に行こうと思った。

                                                                





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