魔境海域サイレース
航海から数日。その異変は起きた。
この数日の間、絶え間なく揺れていた船がピタリと止んだのだ。
「波が止まりましたな……」
そう言ったのは僕に執事とは、なん足るかを教える為に教鞭を振るってくれていた執事長のアッシュさんだった。
むろん、教鞭と言っても本当に鞭を振るう訳ではない。本当に誠心誠意、僕を立派な執事として、恥ずかしくない様にと教育をしてくれているのだ。
執事長は撫で付けた白髪に、綺麗に整えた白い髭と少し怖い顔が特徴的な老人の男性だ。
なんだか、少し怖い雰囲気はあるが非常に尊敬と信頼を置ける人だと思う。なにせ、シャルロット・グレース。彼女。つまり、お嬢様の杖探しの旅に同行した信頼の置ける従者の一人だからだ。
「ふむ。揺れる船内は歩行訓練のいい舞台になると思いましたが。中断することになりそうですね。ドッグ、甲板に上がり様子を見て来ましょう」
そう言うと、執事長は客室を出ると悠然とした立ち振舞いのまま、甲板へと向かって歩き出した。
その真っ直ぐとした姿勢と小気味良い歩幅は老人とは思えない程に洗練されており。その様を見ただけで彼が優れた執事であることを容易に想像させる。
僕も、いつかはこの人の様になれるのだろうか。
そうなれば、彼女の側に居ることも許されるだろうか。
そんなことを思ってると、僕達はあっという間に甲板にたどり着いた。
見ると揺れが無いのも頷ける程の凪だった。
まるで音が無くなってしまったかと、そう思う程の無音が耳なりの様に辺りに響いている。
しかし、その音の無い景色は、まるで視野を額縁とした絵画の中に入ってしまったかの様な不思議で神秘的な感覚を覚えさせた。
それは音のだけでなく。時すらも無くなってしまったかの様な、えも言われる感覚だった。
一体、この感覚はなんなのだろうか。
まるで、自分が絵画の中に描かれた人物だと、錯覚してしまう様な不思議な感覚。
そう、絵画に描かれた者は決して動いてはいけない。
動いてはいけないんだ……
そう思った矢先だった。
「おい! テメェら、ぼさっとしてんじゃねぇ! 嵐が来るぞ!! 船内の積み荷の確認と固定をしてこい!! ささっとしねぇと、荷物に殺されちまうぞ!!」
そんな怒号にも似た声と共に一人の男が現れた。
僕はその声と同時にふと我に返った。
「おら! 錨は俺とヴィルが下ろす。テメェらはさっさと船内の物を固定してこい! 急げ!! 総員、始めぇ!」
男は海賊帽の様な者を被った小肥りの男で、その立ち振舞いと彼の号令で船員達が一斉に稼働し始め甲板から姿を消した。今のやり取りを見るに、彼がこの船の船長であることは間違いないだろう。
彼は僕達の姿を見ると、バツが悪そうな顔をしながらこちらに近づいてきた。
「おおう、すまねぇな。ええっと、アンタはグレース家の執事様でしたかね。なにぶん、至らねぇ子分共で。嵐の前の凪なんて珍しくもねぇのに呆けちまってよ」
そう言った、船長の言葉に執事長が疑問の声を投げ掛けた。
「と言うことは、これから嵐が来るので?」
すると、船長はやはりバツが悪そうな具合で後頭部をかきむしると申し訳なさそうに口を開いた。
「いやはや、間違いねぇでしょうな。ここは海流だの気流だのの影響で嵐が多いんでな。まあ、そのかわり長くは続きやしやせんよ。一晩もすりゃあ、元通りで」
「なるほど、それでこの海域が“魔境海域サイレース”等と言われているんですね。なるほど魔境とは中々な名付けですな」
“魔境海域サイレース”
時おり訪れる静寂の凪は多くの者を呆けさせ虜にもする。そして、その者は突如、突発的な嵐が襲い。我に戻った時には既に遅し。あとは嵐の中、荒波に飲み込まれるのみ。
そうして、この海域は多くの船乗り達を海へと引きずり込んできた。
それ故の“魔境海域サイレース”
執事長の言葉を聞いてか船長の後方から一人の男が現れた。
「なに私達はこの海域を何十回も往き来しています。嵐になんてやられやしませんよ。ね、船長」
そう言うと男は船長に笑いかけた。
背の高い、少し若めの男性だ。その態度から察するに船の中では顔役なのだろうと察しはつく。一等航海士あるいは副船長と言った所だろう。
彼は僕の視線に気づいたのか、ハッとした様子で後頭部を撫でてみせた。
「あ、いやいや。これは申し訳無い。私は副船長のヴィル。そして、こちらがロック船長です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
そう言うと、彼は礼儀正しくお辞儀をして見せた。それを見た、船長も取り敢えずと、お辞儀をしてみせる。
そして、後頭部をかきむしると申し訳なさそうに口を開いた。
「いやはや、すまねぇな。何分、無教養なもんで。礼儀作法はてんでなんだ、許しておくんなしい」
そう言うと、船長は申し訳ないと笑ってみせた。
その様子に執事長はいいですよ、と会釈してみせた。それを見て、安心したのか船長と副船長の二人は笑いながら口を開いた。
「いやはや。お貴族様って言うから気難しい人達かと思ったが、寛容な方々みたいで安心だこりゃ!! なあ、そうだろヴィル!!」
「ええ、そうですね船長。やりやすくて助かります」
そう言うと、二人は技とらしく笑ってみせた。
まあ、この二人は二人なりに気を付けってくれていたのだろう。奴隷の僕からしても、貴族様って言うのを相手にするのは肝が冷える。
「いやはや。アンタ達も気を付けてくれよ。嵐は俺達がやり過ごすからよ。なあ、ヴィル!!」
「ええ。ですが荷物に潰されて死んでるなんてことは困りますからね。お仲間共々、今一度部屋の荷物の固定しておくことをお勧めしますよ」
そう言うと、二人は笑い声を挙げ船首の方へと向かって行った。
「ふむ。心配は無さそうなので私達は客室に戻りますか。あと、お嬢様とメイドにも積み荷を確認するよう言っておきましょう」
僕は執事長の言葉には頷くと、甲板を後に船内へと戻った。
そう、この時の僕には思いもよらなかった。
この魔境海域サイレースの、もう一つの曰を……




