はじめに
星空が満面と散りばめられた夜空の中。綺麗に弧を描く三日月がそこに浮かんでいた。そして、その月明かりが照す街並みを、僕はただ静かに眺めていた。
港街スラン・ベリス。この街の港は商業船がいつ何時であれど数船は停泊している。それ程にせわしない賑わいを魅せている埠頭だ。
そして、そこから眺めることの出来る、程よく栄えた街並み。
僕はこの街が大好きだ。
この埠頭から見る街並みはとても綺麗で、大海原から太陽が顔を出した時、その太陽に照らされた街並みはとても綺麗で活気に溢れているように見える。
そして、街のシンボルとして建つ時計塔が夜の時を示すと、街はその姿を変え。夜の街並みは建物から溢れ出る灯りが不思議と人を魅了する。そんな、幻想的な雰囲気の街へと姿を一変させる。
僕はこの街が大好きだ。
この街の灯り一つ一つに沢山の人達の生活や人生があり。見上げる時計塔は皆に平等に時を知らせ。そして、振り替えれば眼前には広い大海原がある。
この光景を見ると、この世界にこんな街が沢山あるのだと容易に思わせてくれる。この広い世界には僕の知らない街が無限にあるのだと思わせてくれる。
僕もいつかこの埠頭から船で旅立ち。世界を、世界中を見てみたい。この街の光景はそんな叶わない夢を僕に見せてくれる。
「ほら! 早く積み荷を運べ。朝になるまでに運び終わらなければ、全員メシ抜きだぞ!」
そんな、僕の妄想を引き裂くようにせっかちなご主人様の怒号が埠頭に響く。
まったく。少しぐらい、妄想にひたってもいいじゃないか。そんな想いが僕の頭を過り、それと同時に溜め息が漏れる。
この大海原へと向かう船に積み荷を運び。それが終われば埠頭にある倉庫で僕と同じ奴隷達が寒さを凌ぐため身を寄せあって眠る。そんな僕の人生に少しばかりの妄想を与えてくれたっていいじゃないか。
「おい、ドッグ! よそ見してんじゃねぇぞ! さっさと積み荷を運べ!」
短く風を切る音と共に背中に鋭い痛みが走る。
「……ッ!!」
見ると、せっかちなご主人様が手に持った鞭で地面を打ち鳴らしていた。恐らく、あの手に持った鞭で叩かれたのだろう。
ふくよかに太った腹、指にはギラギラと光る趣味の悪い指輪。地肌に直接着た趣味の悪い紫のベストにたぼだぼの亜麻色のズボン。
そして、その手に持った鞭をこちらに向けて、これ見よがしに打ち鳴らして見せた。
「す、すいません。ご主人様、いますぐ運びます」
先程の痛みが脳裏を過り、反射的に身がすくむと同時に情けない言葉を漏らしてしまう。
僕の様子を見てご主人様は不満げに唇を尖らせた後、怒号を僕に向けて放った。
「ったくよ!! グズが、さっさと運べ!!」
その怒号に諭されるように直ぐに積み荷を持ち、船へと乗り込む。
僅かに揺れる足元に気を付けながら甲板へと上がると、そこには沢山の奴隷達が積み荷を持ち、甲板の下へと運んでいる。僕もそれにならって積み荷を置く為に甲板の下へと潜って行く。そんな僕の横を幾人かの奴隷が通り過ぎた。
「おい、ドッグ。災難だったな。大丈夫だったか?」
その中の一人が僕の肩を叩いた。
それはジルと言う奴隷仲間の青年だった。
ウニのようにツンツンとした黒い髪に褐色の肌。細くはあるが引き締まった肉体。少し前にこの港にやって来た奴隷の青年だ。彼はここにやって来る前も奴隷だったらしく、奴隷としての経験は長いがゆえに幼い僕に何かと目をかけてくれている。
「うん、大丈夫。ちょっと余所見してたら鞭で叩かれたんだ」
実際は今も鞭で打たれた背中がジンジンと痛む。でも、そんなことは奴隷をやっていれば毎日あることなので構っている場合ではない。
そんなことにいちいち構っていたら、また鞭で打たれてしまう。
そんな僕の様子を見たジルが爽やかな笑顔と共に口を開いた。
「はは、また街でも見てたんだろ。それより、これを見てくんねぇか? 積み荷は俺が持つからよ」
そう言って彼は僕の胸に何かを押し付け、僕の積み荷を手に持った。僕は言われるがままに、自分の薄い胸板に乗っかった物を手に取って確かめてみた。
それは一冊の古びた本だった。
「これは本? しかも、凄く古いね」
何かの辞典かと思える程の厚さと重さをした本である。
とても、古そうだが大切に保管されていたのだろう。本の変色した後や小さな虫食い等も見られない。
本を眺める僕を見て。ジルは口を開くと同時に腕を組んだ。
「その本な、積み荷の上にあったんだ。確かお前は少しは読み書きが出来るよな、内容とかもわかるか?」
僕は生まれた時から奴隷だったけど、ご主人様が最低限の読み書きと計算が出来れば色々と便利だからと一応一通りは教えられた。文字通り教鞭を振るわれながらだけどね。
「この本は……」
本の表紙を見てみるが、題字の様な物は見当たらない。中を開いて少し内容を読んでみる。
「中身は“伝記”なのかな? なんだか、難しい言葉とか言い回しとかが多くてちゃんとはわからないけど“エイロット・グレース”って名前の“魔術師”の伝記みたい」
魔術師なんて本当にいるのか?
それとも、伝記の形を取った冒険小説かなにかかな?
「魔術師!? そんなもん本当にいんのかよ?」
僕とは同じ様な疑問がジルの口から飛び出して来た。
その言葉に僕は首を傾げて見せる。
魔術師なんて本当に居るのかな?
と言っても、僕は産まれてから今まで、この埠頭から出た事がないから本当の所はどうなのか全くわからないんだよな。
でも、ひとつ言えるのは……
「これは航海とか船に関する本じゃないから、もしかしたら、誰かが忘れたのかもしれないね、ご主人様に渡した方がいいかも。今回のお客様の忘れ物かもしれないし……」
船や航海に関連した本なら客室なんかに戻しておけばいいだろうけど、これはとてもそう言った類いには見えない。もし、お客様の忘れ物だったら、はやく届けないと面倒な事になる。
もしかしたら、また鞭で打たれることになるかも。
「んじゃ、ドッグ。お前からご主人様に渡しといてくれ」
それを察したのか、ジルは僕の持っていた積み荷を持ったまま奥へと向きを変え、そそくさと去っていってしまった。
「あ! ちょっと待ってよ! 僕が渡すの?」
僕はそう言うと、彼は奥へと消えて行きなが言葉を残していった。
「頼んだぜ、ドッグ! 鞭で打たれない様にな!」
なんて事だ。完全にやられた。厄介ごとを押し付けられた。
もしかしたら、またご主人様に鞭で打たれるかもしれない、どうしよう。
「はあ……」
思わず溜め息が出てしまう。
しかし。この時はまだ、この本が僕の人生を大きく変える切っ掛けになるなんて、まったく思いもしていなかった。