三
翌日、朝餉をを済ませた私と父は早速虎斑様に会うため城へと向かった。
城の手前で門番よりも重装備をしている兵士だと思われる男性と父が会話をしている間、私はちくちくと痛い笠につけられた紐を少し掴んで顎から遠ざける。走っても笠が外れないようにする紐だけど、紐というか藁でできたものだからちくちく痛い。父の笠の紐は高級な織物を使っているからこんな思いしないで済むのだろう。
羨ましい、と笠越しに父を見上げていると話がついたのか兵士が先導しながら道を進む。
「梅雨、敷居を跨ぐ前に笠を取りなさい」
「父様は取らないのですか?」
「私も取るよ、虎斑様の前に着いたらね」
「・・・・・・」
思わず「いいなぁ」と言いそうになる娘に気づいたのか、父はぼそりと「当主だからな、父様は」と笑う。当主という響きに憧れを持つ姫など珍しいだろうが、私が尊敬できる人は父と兄以外にいない。その父と兄は雨笠を名乗ることのできる人だ。だったら、羨ましいと思ってしまっても仕方ないと思う。
私は言われた通り、城の玄関まで到着するとさっと笠を取り外す。朝には似合わない夜を連想させる紺の髪色に兵士がちら、とこちらを見た。ついでに泣き黒子も見ていたように思う。雨一族がわざわざ虎の国に出向くことは少ないし、珍しいと思ったのだろう。
じっと見てくるので、私もじっと見返すと居心地が悪くなったのか兵士が黄色の帯を翻してどこかへと歩いていく。その後ろ姿をぼんやり眺めていると父が玄関先から声をかける。すでに案内役の女性が父の横に立っていたので、待ちぼうけを食らわせてしまったようだ。
急いで父に近づき、草履を脱ぐと父の横に立っていた女性がその草履を掴み、棚の中にしまう。それからこちらに女性は視線を向け、にこりと微笑んだ。
「梅雨様、どうぞご案内します」
「ありがとうございます」
「ふふ・・・可愛らしいお姫様ですね。それでは雨笠様、こちらへ」
「ああ」
虎模様の腰帯の女性が前を歩く。その後ろを父が、その後ろを私がついていく。足袋が床に擦れる音だけが続くが、すでに何度も角を曲がってしまって今自分がどれほど玄関から離れたのか分からない。
時折女性がこちらを振り返ってはにこりと笑う。身なりも整っていて、品もあるからきっと女中頭なのだろう。雨一族にも女中がいるし、女中頭もいるがやはり田舎とは品が違うような気がする。こんなことを言うと戻った時に罰が当たりそうだからこれくらいにしておく。
何度か角を曲がったところで、女性が足を止める。そしてちょうど前にあった襖の前で正座をした。どうやら女性の案内はここまでのようだ。
「今しばしお待ちを。次の案内役が参ります」
「ああ」
案内役が何人いるか知らないけれど、随分とご丁寧な扱いをしてくれると思う。嫌味ではなく。
それだけ警備を強固なものにしなければならないのだろう。虎一族が疑い深い性格をしているという可能性もあるが、これから会う人は多くある国々をまとめる一族の長だ。味方が多い分、敵もそれだけ多い。味方だと思っていた者が突然敵になることだってある。その時、城の中が簡単な造りで一族の長にも襖一つ抜けたらすぐ会えるようになっていたら、いつ殺されてもおかしくない。
国を守るのも、その地位を守るのも大変なんだなぁ。と父の後ろに隠れて女性を見ていると、その女性の後ろにある襖がすっと開いた。
「お待たせいたしました。ここより私が案内いたします」
「ああ。梅雨、行くぞ」
「はい、父様」
次に現れたのは男性だった。袴を着た男性は父と私へと視線を向け、女性のように笑うことはなかったものの深々と頭を下げると早速歩き出す。私はというと、腰に差した刀に虎模様があって、思わずそればかり目で追ってしまった。
そうやって何度か案内役を変えながら階段を上がって城の上へと向かう。確実に一人で玄関まで戻ることはできないな、と父を見上げれば父も同じような顔をしていたのでおそらく放置されたら親子仲良く迷子になること間違いなしだ。
「こちらでお待ちを」
最後に案内されたのは、二十畳以上ありそうな大広間だった。父と共に座布団に座って前を向くと、そこには大きな虎が二匹並ぶ掛け軸があった。その手前には肘掛と、今私と父が座っている座布団よりも分厚いそれがある。その座布団はもちろん虎模様だ。
虎斑様、か。
これから虎斑様に会うのかと思うと急に緊張してきた。頼るように父を見れば、ここにきてやっと鋼鉄の笠を外した。そして膝の上で拳を握り、じっと前を向いている。私とは違ってやはり当主としての威厳があるからか、その姿は綺麗だった。
父を見ていると緊張も解れるので、一心に眺めていると父がため息を一緒にこちらを向く。どうやらあまりにも睨んでいたようで、視線が痛かったらしい。
「梅雨」
「・・・申し訳ありません、父様」
「・・・・虎斑様の名は虎斑様の前で口にしてはいけない」
「・・・・では、どのようにお呼びすれば」
「御前、そのようにお呼びしなさい」
「御前・・・はい、父様」
「それから、虎斑様から問いかけがない限り口を開いてはいけない。聞かれたことのみ答えなさい」
「はい」
「この後、虎斑様がいらっしゃることが知らされる。すぐに頭を下げるんだよ」
「はい、父様」
そう何度も忠告を言われると緊張度が増すだけだ。父はきっと娘が粗相をしないように、気丈に振る舞えるようにと伝えたのだろうが、あいにく私には逆効果だ。
かちんこちん、と音が鳴りそうな状態で前を見据える。すると遠くから足袋が床に擦れる音が聞こえてくる。それから襖が開き、近くで誰かが畳の上に正座をしたのが気配で分かった。
「御前がいらっしゃいます」
「梅雨」
「は、はい」
父と同じタイミングで頭を深々と下げる。それはもう畳に額がつく勢いで。どくどくと心臓が脈打っているのが分かる。手の指先は冷えていくのに、頭には血が上っていく気がしたのはあながち間違いではなくて、あまりにも頭を深く下げたせいのようだった。
このままだと顔が真っ赤になるなぁ、と狭いところでため息をつく。その息が指先に触れた頃、ようやく御前が広間に入ったらしい。ずっ、と足袋が強く擦れる音がしたと思えば、何か肌を叩くような音が耳に入った。誰か叩かれたのか。そう思い顔を上げそうになるが、まだ何も言われていないことを思い出しなんとか踏みとどまる。
「面をあげよ」
「はっ」
さっきの音は何だったのか、それ以前に頭に血が上って苦しくなってきた。面をあげろと言ったのは御前で間違いないよな。だめだ緊張する。
私は一度にたくさんの出来事があり、何がなんだか分からないまま、言われた通り顔をあげる。父のように品よくできず、バッと前を見たので父がぴくりと身動ぎしたのが分かった。父よ、申し訳ありません。
こんな簡単なこともできない自分が恥ずかしくて別の意味で顔を赤くなる。するとその様子を見ていたらしい目の前の男性が、眼光だけで殺されるのではないかと思うくらいグッと身を乗り出して私を睨んだ。いや、睨んだと思ったのは私だけであって、多分目の前の男性はそのつもりはないと思う。
なぜなら、その男性、つまり御前は吹き出しそうなのを堪えているからだ。
「・・・っ、・・・雨笠よ、お前の姫は随分とお転婆なようだなぁ」
「・・・・・・・」
「はっはっは!何も言えぬか!」
ついには大きく口を開いて笑い出した御前が腹を抱えている。私はとうとう恥ずかしさで死にそうになり、思わず視線を畳へと下げる。父も面目ないというように眉間の皺をさらに深く刻みこんで目を瞑っている。
私はもうパニックになり、下げた視線をそのままにバッと頭も下げる。そして御前へと声をかけそうになって、再び父の「問いかけられたら答えよ」という忠告を思い出し「ぐっ」と言葉に詰まる。
そうすると、いよいよ御前は笑い死にそうな顔でケラケラと笑った。父は瞑った目を覆うように手で隠した。父よ、申し訳ありません。
「はははっ!もうよいもうよい、いい加減顔を見せておくれ。お前が雨笠の愛娘の梅雨だろう?」
「・・・・・」
「梅雨、顔を上げ答えなさい」
「は、はい。・・・・梅雨にございます」
「うむ。大きくなったな、梅雨よ。お前を見るのは二度目だ。まだお前が赤ん坊の頃だったか・・・」
「・・・・・・」
「雨笠、今年でいくつだ?」
「七つにございます」
「そうかそうか、もうそんなに時が経つか・・・どれ、梅雨。こちらにおいで」
「・・・・梅雨、ゆっくりだぞ」
「は、はい」
父に言われた通り、今度こそ品よくやってやろうと物音をできるだけたてないように立ち上がり、御前の前へと向かう。「こちらにおいで」とは言われたものの、御前が座る段の上までは行かず、あくまでも同じ高さにいないように気を付ける。
それから御前を見上げる。父よりも屈強な体。胡坐をかくその足は棍棒のように太く、虎のような縦長の瞳に、無精髭が目立つ。黄色の髪の毛先は橙色に染まっていて、これこそ虎一族だと言わんばかりの容姿に私は言葉を失った。
「梅雨よ、私を覚えているか?」
「・・・・・申し訳ありません」
「いや、よい。当然だ、お前がまだ父や母を捉えることもできないほど幼かったからな」
「・・・・・・」
「お前が生まれた年、私は雨馬島にいたんだよ。旧友の子が生まれると聞きな、向かったんだ」
「・・・そうだったのですね」
「一度景虎を連れ訪れたこともあったが、まだ物覚えがつく前だったのかもしれぬ」
なんと、ここで新事実が発覚したが、すでに私は景虎様と出会ったことがあったらしい。その記憶は一切ないので御前が言うように私が幼すぎたのだろう。
急に思い出話が始まった私は、いまだ御前の容姿に圧倒されたまま固まっている。父もはらはらしているようで、いつ私を後ろに下がらせるか判断を取れずにいるようだ。
それに気づいているのかいないのか、御前は肘掛に体重をかけるとにっこりと虎の目を細めながら微笑む。そして太い腕をこちらへ伸ばすと、私の紺の髪をぽんと叩いた。
「梅雨は母似なのだな、雨笠に似なくてよかったなぁ」
「・・・・・御前」
「はは、なんだ本当のことだろう雨笠。お前に似たらしかめ面の女になる」
「・・・・・・」
「しかし雨笠のような意思の強い目は引き継いでいるようだな。泣き黒子も雨笠と同じだ」
「は、はい」
「その容姿なら『役目』を引き継ぐこともできるだろう」
その『役目』という言葉に、私だけでなく父もぴくりと反応する。そして、急に雰囲気を変えた雨一族の当主と姫に御前がにんまりと頬杖をつきながら笑った。
雨一族の『役目』を知っているのは、雨一族の中でも遺伝子を引き継いだ者と、その役目を利用する者しかいない。御前は利用する者の一人。雨一族のみに扱うことのできるコトを御前はもちろんご存知だ。
ーー雨は姿形をその時々に変化させる。優しく降ることもあれば、激しく降り嵐を呼ぶ。
その言葉の意味から、容姿を変化させることも、その術とする。
「各地に散らばる一族には、その一族の印が名の由来となる。我が虎は跳躍に長け、何者にも屈さぬ強靭な体と力を持つ。夜目にも強いな」
「・・・・・・」
「雨は水の一部。水を操る術を統べ、敵から身を隠す音ともなる。時には在るはずのものを、屈折させることもできる。・・・・梅雨よ、お前はもう会得しているか?」
「・・・・・はい」
「見せてみよ」
「・・・・・・」
突然『役目』について言われ、動揺する私に父が心配そうな顔を向ける。しかし御前は何かを見定めるような目でこちらを見る。つい先ほどまで思い出話をしていた男が、急に別のものに見えた。別のものとは、なんだろう。言葉にはできないけれど、畏怖の気持ちが溢れ出てくるのは分かる。
私は一度父へと視線を向ける。もちろん雨一族としての訓練は欠かさずに行ってきた。姫だとしても、その『役目』を担うことのできる遺伝が私にあるから、その血筋を絶やすことのないように訓練は行われた。自信だってある。だけど不安だ。一族以外の人に見せたことはなかったから。
父がゆっくりと頷く。その様子に私は「有無は言わせない」のだと御前が言わずとも伝わる視線を送っているのだと気づく。七つの娘に対しても、御前は甘さを見せない。
私は一つ息をつき、自分の両手の平を顔に寄せる。そしてぎちぎち、と皮膚が動いているのを確認すると、最後に手の平を外し、御前へと顔を向けた。
「・・・・うむ、見事だ」
「・・・・・・・」
「誰に似せた?」
「・・・先ほど案内役をしていた、女中でございます」
「ああ、そうか。見知った顔だと思ったんだ」
「・・・・・・」
玄関で私と父に挨拶をしていた女性を思い出しながら行ったが、どうやらうまくいったようだ。御前が私の顔をまじまじと見つめながら何度も頷く。その様子に父は安堵の息を漏らしているようだった。
私は虎の目に射抜かれながら、内心冷や汗を垂らす。できれば早く父の横に戻りたいな、と思いながらも緊張して背筋を正していれば、先ほどまで別のものになっていた御前が再び優しい目になり私の頭をぽんと叩く。
「雨笠よ、梅雨は姫にしておくにはもったいないな。すでに一度見た女の顔をここまで再現できるんだ」
「・・・まだまだ修行が足りませぬ」
「娘を思う父なら梅雨がいくつになってもそう言うだろう」
「・・・・・・」
「・・・・いずれ、声をかけることもあろう。雨笠、それまでに覚悟することだ。梅雨も」
「御意」
「は、はい」
御前の言葉に、父はただ頭を下げ、私は視線を下げることしかできなかった。
これが雨一族の定めであり、『役目』だ。虎一族に忠誠を誓ったのだから、虎一族に望まれればやるしかない。それを七つの娘である私に御前は伝えた。あくまでも、私は一国の姫であっても、『役目』を果たすべき人間なのだと。たとえ父が御前と旧友の仲だとしても。
ーー隠密の一族。
それが、雨一族の別の謂れだ。
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