一
病室のベッドはやることがなくて、見上げる天井の染みを繋げて「あの星座に似てる」と何百回も何千回も繰り返した。それでも物足りなくて窓から流れる雲に乗って、テレビで特集していた素敵な場所へ飛んでいく妄想をした。
次の手術が終わったら、次の検査が終わったら。きっと、きっと本当に素敵な場所に遊びに行けるんだと思って、暗い顔の両親と姉へ気持ち程度の笑顔と一緒に家族旅行を提案した。
翌週の休日、私は消えてなくなったけれど。
こんなことなら、無理をしてでも外に出かければよかったなと後悔。隣の病室のあの子がハマっていたゲームも、終わるまで黙って待っているんじゃなくて攻略本でもサイトでも見てさっさと終わらせて、たくさんお喋りをすればよかった。生きていなければ、お喋りだってできないのだから。
ああ、もっとやりたいことを口に出して生きていればよかった。
「父様、どうやら私は一度死んだようです」
「・・・・・・・梅雨?」
昼間でも薄暗い、ここ『雨馬島』の中央に建てられた城の一番上。当主のみが使用できる部屋に、なんとも言えない空気が流れる。そんな重い空気を発生させたのは紛れもない私だ。
ーーたった今、前世を思い出した私だ。
父である雨笠は、雨一族の現当主だ。その娘である私は雨一族の姫。そうだ、そうだということに間違いはない。だけど突然やってきた雷のような衝撃とともに、前世を思い出した。この世には先読みの能力を持つ者もいるらしいけど、そういうものではなかったと思う。なぜそう思ったかは分からないけれど、今思い出したものは確実に私の『一部』だ。誰のものでもない。そう直感する。
だからそれをやや不足したまま言葉にしてみたら、父は固まった。それもそうだ、父とはもっと大事な話をしていたところで、私が腰を折ったのだから。
父のお付きの従者も固まってこちらを見ている。私の後ろに控えていた従者も。外で降り止まない雨がただ屋根に当たって音を立てるだけの空間は、とても痛々しいものだった。
「・・・・いえ、なんでもありません」
「・・・・・・・」
「・・・・・・」
どうやら、この話は誰にもしないほうがよさそうだ。そう察知した私は膝の前で両手を畳に添えると、深々と頭を下げた。前世を思い出すなんて、この世でもそうそうありえない話のようだ。
さすがの父も一瞬取り乱した様子だったけれど、私の本調子が戻ってきたと思ったのか一つ咳払いをすると腕を組んでこちらをじっと見つめる。
「国頭の虎一族から文が届いた。嫡子の景虎様の誕生を祝う席に雨一族も出席せよとのお達しだった。梅雨、お前も今年で七つになる。私と共に参加しなさい」
国頭は、前世の時代の言葉を使えばお殿様のようなものだ。各地に存在する大名のような一族をまとめる、この国で一番偉い一族のことを指す。虎一族はその国頭のポストを約二百年守ってきた。誰も逆らうことのできない一族に嫡子が生まれたのは、確か十年前くらい。虎一族の象徴である『虎のような眼』を強く受け継いでいるという私より三つ年上の少年は、生まれた時から特別な存在だった。
その少年に会えるのは、少し楽しみだ。雨一族がいる雨馬島は虎一族のいる国から遠く離れていて、私は生まれてから一度もこの島から出たことがなかった。控えめに言っても、大冒険だ。
「承知」
頭を下げたまま伝えれば、父が頷いたような気配がした。そこで顔を上げれば、父は喜んでいると思っていたが随分と眉を顰めていた。何か誤った発言をしただろうか。首を傾げて父を見ていると、ついにはため息をついて近くの従者に目配せまでしてしまう。
従者も悩ましいと暗い顔をして畳を見つめた。辛気臭いのは外の雨だけにしてくれ、と思いながらも黙っていると父が重たい口を開いてやっとのこと声を出した。
「梅雨、参加しろとは言ったが、景虎様とは口を利くな」
「・・・・なぜですか?祝い席なのでしょう」
「・・・景虎様は今年で十一になる。十五になれば当主として成果を上げ、国を背負うようになるだろう。それだけのお力をお持ちだと私は思っている」
「・・・父様がそれだけ言うのだから、そうなのでしょうね」
「国を背負うことになれば、自ずと敵も増える。故に味方を多くつけたいとお考えになるだろう」
「・・・・・雨一族はこれまで虎一族に忠誠を誓ってきたのだから、問題ありませんね?」
「そうだ。問題ない」
「・・・・・・」
「問題ないから、問題がある」
「・・・・・・・」
「・・・・・・」
「ああ、なるほど。私が嫁ぐことを危惧していらっしゃるんですね」
「・・・・・・・。・・・・・そうだ」
まどろっこしい。もっとズバッと言ってくれてもいいのに。娘を思うあまり、言葉にもしたくない父の苦悩なのかもしれないが、わざわざそれを言葉にしなければならない娘の気持ちにもなってほしい。
つまり、父は忠誠を誓っており味方だと示している雨一族の姫を娶れば、よりその関係も強固なものになると虎一族が考えていてもおかしくはないから、景虎様と話すなと言いたいらしい。
当主の立場からすれば、それは僥倖だろう。虎一族の嫡子に娘が娶られれば雨一族はしばらく安泰だ。虎一族の後ろ盾に守られ、より繁栄を増す。
しかし父の立場からすると、国の頂点である男の妻になるなど負担でしかないポジションに娘を置きたくないとお考えのようだ。
この堅物のような、眉間に皺を寄せて年中過ごすような父は思ったよりも娘思いの人だったのだと今更気づいた私は気持ち程度に笑ってしまう。きっと、前世を思い出す前なら父の優しさに泣くような少女だっただろうが、今は前世の年齢も相待って笑うだけに止まる。
「父様」
「・・・・・なんだ」
「もし、私が景虎様に見初められれば、雨一族が衰退することは向こう百年ないでしょう。もとより、雨一族の『役割』を考えれば、拒むことなどできない立場にあります」
「・・・・梅雨」
「それにまだ景虎様が私を娶ろうとするかも分からないですし、まずは祝い席に参加することを優先すべきかと」
「・・・・うむ。もっともだ」
「ただ、父様がおっしゃるように、私もできれば心穏やかに過ごし余生は庭の花いじりをしたいと思っています。なので、極力景虎様には近づかず、お祝いの言葉を伝えるだけにします」
「随分先のことまで考えているんだな・・・まだ七つだろう」
「そう、ですね」
前世も合わせればすでに成人しているし、一度死んでいるから、せっかく手に入れた第二の人生は自分の過ごしたいように過ごしたい。もう天井の染みを眺めて生きることも、旅行を妄想で終わらせる必要もない。
ーーこの体は、健康だ。
「私、やりたいことがたくさんあるんです」
そう、笑って父に伝えると父は困ったように微笑み、従者は静かに頭を下げた。
こうして突然始まった第二の人生。前世の記憶も大事にしながら、雨一族の梅雨として、今世は大往生をしたいと思っています。
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