8. ニンジンキナイ
へえ、この野菜、人参に似ているのね。私は言う。味もにおいも人参そのものだった。もし私が知っているものと同じなら、これには選び方があるの。母さんが教えてくれたのだけど……。
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パチン、という音で目を覚ます。紫鶴子さんが手を叩いた音だ。
「今日は課外授業をしましょう」
目をこする花夜子に、紫鶴子さんは少し呆れたように言った。昔から満月の日はあまり起きていられない。元教師の紫鶴子さんだ。怒られるかと思ったけれど、彼女は花夜子にコートを着るように促しただけだった。
彼女がいなければたぶん、夕方まで眠っていたと思う。
それにしても不思議なもので、昼寝をして見る夢は、現実と間違うくらいにリアルだ。一体どんな状況だったのかはわからないけれど、焚き火を前に、人参のような野菜を見ているというものだ。色もにおいも感触もあるし、「次はどうしよう」とか「こんな味つけがいいかな」とか、今、この現実と同じようにふつうに考えている。
「いいですか、外ではわたくしと話してはいけませんよ。不審に思われますからね。メモも取らなくて大丈夫です。見て、触れて、頭で覚えましょう」
紫鶴子さんと会うまで、昼間のスーパーに来たことはあまりなかった。こうして見渡してみると、赤ちゃんを連れた人が多い。赤ちゃんはいつでも泣いているイメージがあるけれど、みんなおとなしくしている。
「花夜子さん、今日は野菜の選び方の話をしましょう。
でも一つだけです。たくさんお話ししたらわからなくなってしまいますからね。どの野菜がいいですか?」
きゅうりにキャベツ、レタス。ここのスーパーは値段が少し高い。だからか、野菜はどれもみずみずしくておいしそうだし、同じように見えた。
少し迷ったけれど、花夜子はにんじんを指差した。ちょうどさっき夢で見たし、スウの好物だからだ。
「にんじんですね。美味しいにんじんを選ぶこつは3つあります。
ひとつめは色。赤みの濃い、みずみずしいものを選びます。
次に表面のなめらかさ。くぼみのないものを選びましょう。
最後に茎の切り口です。スーパーのにんじんは大体こういった形で、葉も茎もなく売られていますよね。そういうときにこの切り口を見ます。軸の部分が小さいほどやわらかくておいしいんですよ」
花夜子はにんじんを手に取って見比べてみる。こっちのはすごく赤い。奥のにんじんは切り口が茶色になっている。
「茎の切り口が茶色になっているのは、収穫してから時間が経ったものですよ。つまり、あまり新鮮ではありません」
手元にある人参を見てみると、表面がつやつやしている。茎の軸も小さい。
「これがいい」
思わずつぶやいていた。
これまでスーパーの野菜売り場で、おばさんたちがにんじんを手に取っては悩んでいるのを見て、花夜子は「どう違うんだろう?」と思っていたものだった。
でも、3つだけチェックするポイントがあって、それを見ていけばいいんだ。花夜子に今いちばん足りないものは、こういう知識なのだろう。
「花夜子さん待って。買うのは1本だけにしましょう」
「どうして?」
周りに誰もいなかったので、思わず訊いてしまった。思い立ってポケットからマスクを取り出す。そして声をひそめておけば怪しまれないだろう。
「安いからと3本セットのを買っているのだと思いますが、花夜子さんは、いつもにんじんをだめにしてしまうでしょう」
紫鶴子さんも声をひそめる。幽霊の彼女の声は誰にも届かないと思うのだけれど、つられてそうしている様子にくすりとなる。
「にんじんを使った料理が思いつかなくて、使い切れないの」
「まあ! たくさんありますよ。
千切りにしてお味噌汁やスープにさっと彩りを添えられますし、細めの千切りにして、オリーブオイルと酢と塩、胡椒を混ぜたドレッシングで和えて、レーズンを入れたサラダもおいしいんです。バターグラッセもいいですね、それから...」
「紫鶴子さんって、ほんとうにお料理が好きなのね」
花夜子がいうと、彼女ははっと口元をおさえた。それから少し照れたように「実はわたくし、料理人になりたかったんです」とはにかんだ。
帰ってから、記憶の新しいうちにメモにまとめた。
「色と、なめらかさと、切り口。いなき、いきな、きない…。うん、着ないとかいいかもしれない。『にんじん、き(切り口)な(なめらかさ)い(色)』って覚えるよ」
「まあ、語呂合わせですか? テストじゃないんですから。そんなにガチガチに覚えなくても」
口元を抑える紫鶴子さんの言葉にふとひらめく。
「――それだ! ねえ、紫鶴子さん、お願いがあるの」
「お願い、ですか?」
「うん。あのね、毎週テストをしてほしいの。家事のテスト。覚えたことをきちんと頭に入れられたかどうか」
「まあ! テストが好きなんて、花夜子さんって変わってるんですね。わたくしの教え子たちが聞いたらびっくりするでしょうに」
紫鶴子さんがくすくす笑う。
――家事のテスト。うん、いいかもしれない。これなら花夜子でもきっと覚えられる。