7.一段飛ばし
ストールをふわっと首に巻きつけて、スマホの入った小さなお財布バッグだけを下げて、家を出る。この時間に一人で外に出ることは、これまでほとんどなかった。
エントランスを抜けると、眩しい光がまぶたを、冷たい風が頬を刺す。それが不思議と心地よかった。花夜子は、東京の海を眺めながら、スーパーへ向かう。今日の予算は1,000円。お昼ごはんをお店で食べるのと同じくらいの値段がするけれど、このあたりでお惣菜を買うのだったら仕方がない。
花夜子も、きちんとごはんを作れるようになりたい。――ふと、この間の紫鶴子さんとの会話を思い出していた。
「花夜子さんって、意外と見栄っぱりなんですね」
お昼ごはんを用意しようと、冷蔵庫とにらめっこしていたら、紫鶴子さんが言った。
「そうかな。自分ではよくわからないけれど...」
「あるいは生真面目というのでしょうか。
この数日間、あなたを見ていて思ったのです。花夜子さんのなかには、理想の『主婦像』みたいなものがあり、無意識のうちに、それに沿って行動しているんです。
人にきちんとして見られたいからなのか、それとも自分で決めたものなのか。それはわかりませんでしたが、その主婦像にしばられているという印象を受けました」
「――結局なにもできていないけれど」
「そう、そこなのです。
花夜子さんが自分の行動指針にしているのは、理想なんです。でも、現実は、それを行う以前の状態になっていますよね。
花夜子さんは栄養バランスも彩りもよく、おしゃれな料理を作りたい。でも、まずは前の食事のときに溜めた洗いものをするところから始まります。こんだても決まっていませんし、冷蔵庫の中身がぎゅうぎゅうだから、ぱっと考えるのも難しい。
となると、まず冷蔵庫を開けて、中身を確認し、こんだてを決めて、必要なものを買い足す必要が出てきます。そういう事前にやっておくべきことができていないから、料理が億劫に感じるのです」
花夜子はいつも通りメモ帳を取り出した。料理の前にやっておくこと。そう書きはじめる。
「つまり、身の丈にあったことをするのが大切ということ?」
「ええ。
花夜子さんが今目指しているのは、自分ができること以上のものです。階段のずっと上にあります。でも、いきなりひとっ飛びで上に行けるわけではないでしょう?
だから、まずは目の前の一段を目指すところから始めましょう。部屋が片づくまでの間は食事づくりにこだわらないで。ごはんだけは自分で用意し、思いきってお惣菜を買いましょう。
とにかく洗いものを減らすのです。浮いた時間で部屋を片づけていって、それからですよ。ひと部屋とはいえ、自分の領域が片づいたら、それだけで探しものをする時間はなくなります。
慣れてきたら次はごはんとお味噌汁だけ用意しましょう。それから次は副菜を1つ。市販のお惣菜はメインのお料理を売っているものが多いですからね。副菜を用意するのに慣れてきたら、メインのひと品を作る階段に上がります。――そんなふうに、1つずつ階段を上がっていくようにしましょう。
階段を一段飛ばしで上がっていると、いつまで経っても重荷に感じますよ」
その日、紫鶴子さんの「就業時間」が終わったあと、ふと外へ出てみた。夕飯のためのお惣菜を買うためだ。
空の端が蜜柑のようなおいしそうな色をしている。おでこを隠していられないくらい風が強い。となりのマンションの前を通ると、どこからかカレーのにおいが漂ってくる。焼き魚のようなにおいもある。
ただの大きな箱がたくさんあるように見えていたけれど、実はたくさんの人が、花夜子と同じように生活しているのだと、花夜子ははじめて当たり前のことに気がついた。
値引きシールの貼られたお惣菜を3つ選んだ。揚げものの詰め合わせ、白和え、茄子のみぞれ煮。家を出る前に炊飯器をセットしておいたから、帰ったら炊けているはず。
「ごはんが炊けたら、まずは今日食べる分をお茶碗に盛っておきましょう。余った分はすべて冷凍します。
あなたのことだからたぶん、炊飯器に入れっぱなしで、だめにしてしまうでしょう」
紫鶴子さんは、花夜子のことをほんとうになんでも知っているみたい。
汁物を一つ作って添えようかと思ったけれど、それも一段飛ばしだ。花夜子は諦めて、明日の朝にたべるヨーグルトだけをかごに追加して、レジへ向かった。