終章 はじまりの雨宿り(3)
遠くにラベンダー畑が見えてきた。
今はまだその紫色の影もない、冬の終わりのことだった。その年はいつもより少しだけ雪解けが早くて、まだ時期には早いというのに、田んぼのあぜ道には、つくしたちが背を競うように伸びていた。
水量が増えて流れの速くなった用水路に、時折、氷の塊が流れていく。地面に座って、足をぶらぶらさせ、それを並んで見ていた。
「山本のじいちゃんがね、祠には異界の神様がいるなんていうの」
花夜子は長いまつ毛を震わせて瞬きをした。
「異界の神様?」
「ここではないどこかの神様のことだよ。願い事をいえば叶えてくれるって、田崎のばあさまも言ってたよ」
「ーーふうん、でもそれって、胡散臭くない?」
「どうして?」
「だって、それなら誰だって行くじゃない。楽して願いが叶うなら、きっと人が殺到すると思うわ」
「花夜子ちゃんは夢がないなあ」
子どもながらに美しいその顔を少し歪めて、つんと口をとがらせて、彼女は「現実的だって言ってちょうだい」と答えた。
「私は、祠に行ってみたい。願い事をしたい」
「どうして?」
「こんな顔、嫌だもの」
そう言うと、花夜子は悲しそうな顔をした。どうして憐れみの表情ではないのだろう? と不思議に思った。この顔を見るだけで、みんな、可哀想なものを見るような表情になる。それが当たり前だった。でも、揶揄されたり、攻撃されたりすることもあった。ただそこに居るだけなのに。それがいたたまれなくて、学校は苦痛な場所だった。
花夜子たちのマンションを出て、駅まで向かう。
余計なことをしてしまっただろうか。ふと少し不安になった。でも、あの二人は“運命の恋人たち”なのだと信じている。
非科学的なものはあまり信じないたちだけれど、彼らに関しては、ある種作為的といっていいほど、偶然が積み重なっている。それは、一つのピースが抜け落ちたら、すべてが崩れてしまう、積み木のような危うさもはらんでいる。
背筋をぴんと伸ばして、こつこつとヒールを鳴らして進んでいく。願い事を神様に叶えてもらえなくたって、自分を変えることはできる。もちろん、生まれ持ったものだけで勝負をするのには、限度もあるけれど――。
大人になってしまえば、容姿には努力の差が出てくる。年齢を重ねれば重ねるほど。今の自分はそんなにきらいじゃない。
でも、――あのとき、私が祠の話をしなければ。花夜子はいったい、どんなふうに過ごしていたのだろう。鳥かごの中でゆるゆると守られているような人生ではなかったんじゃないだろうか。
そう思うと、まるで自分が花夜子の人生を奪ってしまったようで、胸がつきりと痛んだ。