14.誤解(1)
呼び止めた声の正体は、やはり梅室さんだった。花夜子は思わず身体を固くする。ところが、いつもはその瞳から溢れ出している敵意が見当たらない。彼女はカウンターを出て、こちらへゆっくりと近づいてくるのだけれど、その目には心配の色がある。
花夜子が怪訝に思っていると、梅室さんはぺこりと頭を下げて、それから小声で「待ち伏せ、されています」と言った。
「先日は、申し訳ありませんでした。昨夜、佐々木様のご友人から事情を聞いています。そして、先日の男性ですが、先ほど出勤するときにマンションのそばで見かけたのです。外出はされないほうがよろしいかと……」
花夜子はぞっとした。
「買いものに行かれるのですよね。ご主人に頼まれたほうが良いと思います。――よろしければ、こちらからご主人に連絡しましょうか?」
「――いえ、大丈夫です。部屋に戻ります」
花夜子はくるりと踵を返して、エレベーターに向かった。
「あの、先日は本当に申し訳ありませんでした!」
周りを気にしながらも、梅室さんが謝罪を口にした。驚いて振り返ると、彼女は目をうるませる。
「――私、両親の不倫でいろいろ大変だったので……過剰に反応してしまいました。しかも、奥様には非なんてなかったのに。なんとお詫びしていいか……」
花夜子は驚いた。これまで抱いていた彼女の印象とはまったく異なった。花夜子は彼女の一面しか見ていなかったのだろうか。
話してみると、実はすっきりとした気持ちのいい人なのかもしれないと思った。
「――いえ、たしかにびっくりはしたし、いい気分ではなかったですけど……でも、大丈夫です。誤解されるような行動をしたわたしもいけなかったのだと思います」
「とんでもないことでございます。私のほうこそ、ずっと勘違いをしておりました。いつも夕方に買いものにお出かけになっていたでしょう? その後を、あの男性が優しげにほほえみながらついていくのを見ていたので……。待ち合わせて逢瀬を楽しんでいるのかと思っていたのです」
その言葉は、花夜子を不安にさせるには十分過ぎた。
それからどうやって部屋に戻ってきたのか覚えていない。夕飯も食べず、キッチンに立つことも、お風呂に入ることもせず、ベッドに倒れ込んだ。
どれくらい経ったのだろう、インターホンの音で目を覚ました。花夜子がびくりと身をすくませると、控えめに扉を叩く音が聞こえた。
「コンシェルジュの梅室と申します。佐々木様、夜分遅くに申し訳ありません」
花夜子がドアを少し開けると、ビニール袋を持った梅室さんが立っていた。
「差し出がましいかとも思ったのですが、ご迷惑をかけたお詫びも兼ねて、お惣菜を買って参りました。よかったら召し上がってください」
お惣菜は百貨店のもので、そんなに安いものではないことが見てとれた。大きめの袋2つにぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
「梅室さん……! ありがとうございます――」
「とんでもないことでございます。職務上のことを考えても、人間としても、ひどいことをしてしまって、……改めて、申し訳ありません」
「あの、よかったら、お茶でも飲んでいってください」
花夜子はそう誘ってみた。
「いえ、どうかお気になさらず。ご迷惑をおかけするために来たわけではありませんので。件の男性のことは、警察のほうに一度連絡を入れてみましょうか? ご主人にはお話しになりましたか?」
花夜子は首を振る。
「ええと、――一応、元同級生なので、あまり大事にしたくないと思って……。少し様子を見てから主人には話そうかなって。――でも、ちょっとだけ不安なので、やっぱり、よかったら上がっていきませんか。せっかく買ってきてくれたごはん、よかったら一緒に食べてくれたらとてもうれしいです」
思わず、そう声をかけてしまった。