5.ラベンダーの花言葉(2)
重たい玄関扉を開けると、見慣れた静かな廊下に立っていたのは思いがけない人だった。花夜子より見上げるほど背が高く、きりりとつりあがった色素の薄い瞳が印象的で、精悍な青年。
同窓会で久しぶりに会った須藤くんだった。
「花夜子ちゃん……」と、彼は眉を下げて、ばつが悪そうに切り出した。
「えっと、あの……入り口のところにいた、受付の人に通してもらったんだ。実は今日、佐々木と約束してるんだけど……。まだ帰ってきてないかな?」
須藤くんが訊く。
花夜子は心のうちに文句を浮かべた。来客予定があるなら、いろいろとすることはあったのに――。
花夜子は、須藤くんを招き入れると、さっとダイニングテーブルの上にあったものを仕舞い、椅子をすすめた。須藤くんは、大きな体を小さく縮ませるように、恐る恐るといった調子で入ってきた。
中学生のときは、花夜子よりも身長が低かった須藤くん。坊主頭もあいまって、いたずら小僧というような風貌だった。それが今は、がっしりとした大人の男性になっているのがとても不思議だった。
ポットにお湯を沸かし、マグにインスタントコーヒーの粉を入れる。そういえば、エリカちゃん以外の人が訪ねてきたことはなかったから、来客セットみたいなものもない。今度買わなければ――。
「あ!」
花夜子が思わず声に出すと、須藤くんはびくりと驚いたようにこちらを見た。
「そういえば、この間言いかけてたことってなに?」
「え?」
「同窓会のとき。なにか、スウのことを話そうとしていたでしょう?」
「――ああ、――それなんだけど……」
須藤くんは言葉を濁す。
「あのときは言いかけたものの、話していいのか悩んじゃって。――ごめん。不愉快な話だと思う。思うんだけど……」
彼が苦しそうに眉根を寄せるので、花夜子は嫌な予感がした。
「実は、会社の近くの喫茶店で、佐々木を何度か見かけてるんだ。」
「喫茶店?」
「――ああ」
「スウって、喫茶店に行く趣味があったのね」
花夜子は、湯気をたてるコーヒーを彼の前に置いた。自分のものにはたっぷりの牛乳と砂糖を入れてある。なんとなく一緒に座ることはできず、窓によりかかるようにして立つ。男の人と二人だけになったことがほとんどなかったので、どこを見て、どんな話をしていればいいのかふとわからなくなった。
とりあえず、視線を窓の向こうへと落とす。眼下に広がるビル群と東京の海が、夕方の光を反射していた。少しずつ暮れていく切なさが、花夜子をますます困惑させた。
行儀が悪いと思われるかもしれないけれど、立ったままコーヒーを口に含む。ふだんはスウしか飲まないそれは、ミルクも砂糖もたっぷりと入れたはずなのに、ひどく苦くて、酸っぱさが後を引いた。
須藤くんは、コーヒーをごくごくと流し込んでいる。まるでなにかのスイッチを入れるかのように。その様子に不安を煽られた。
ややあって彼は切り出した。
「佐々木は、いつも一人じゃないんだ」と。
「20代前半くらいの女の子と、その……楽しそうに談笑してるんだ。言い争っているときもあった。――それと、時間も気になってさ。二人が会ってるのは俺が仕事をしてるとき、つまり、平日の昼間なんだ。あいつって、営業職なんだろう? もしかしたら仕事なのかもって思ったけど……でも、そうは見えなくて。あ、俺がなんでそんな時間に喫茶店にいるかっていうと、――出版社に勤めてるって言ったっけ? 漫画家の人と打ち合わせするのによく使ってる場所なんだ」
後半はしどろもどろになり、言葉を濁しながら、須藤くんは言った。
胸がすっと冷たくなるような不安に花夜来は襲われた。足元に薄い氷があって、そこにひびが入ったような感覚だった。ふと息苦しくなり、呼吸が浅くなっていく。
「――須藤、うちで何やってるんだ」
そのとき、耳慣れた声が、聞いたことのない温度で夕暮れの部屋に響いた。