4.幽霊の花嫁修行(上)
冷蔵庫からオレンジジュースを出してきて、部屋のまん中にぺたりと座る。
背中にはふかふかしたクッションがあり、右側にはテレビのリモコンが置かれている。――まるで波紋のように、花夜子のいる場所を中心に、本にお菓子にノートやペンと、ものが広がっていく。スウのいないたった数日間で、この家はずいぶん散らかってしまった。
彼が家事も一手に引き受けてくれているから、花夜子はものの置き場所もよくわかっていない。
東京へ戻ってから数日が経った。スウは仕事が始まったかと思うと、すぐに出張になってしまった。でも、久しぶりに一人になると、叔母とのことで芽生えた「変わりたい」という気持ちがさっそく揺らぎ、花夜子はいつものように怠惰な一日を始めようとしていた。
花夜子たちが暮らすタワーマンションは都心にある。
海に面した大きな窓があるので、日中はとても明るく開放的だ。花夜子が陣取っているところ以外はすっきりと整頓されているし、家具にも床にも埃ひとつなく、掃除が行き届いている。ただ、この家の心地よさを作っているのは女主人である花夜子ではなく、スウだ。
テレビにぼんやり視線を投げながら、ふと考える。
洗濯機を回してからどれくらいたったっけ。
昼食はスウが朝作って出てくれたけれど、買い出しに行かないと夕飯がない。――そもそもなにを作ったらいいだろう。きちんと決めて、レシピも調べておかないと、きっとまた買うだけ買って、スウが作ることになる。
お風呂そうじに、トイレ、玄関もそうじしたい。いつもはスウがやってくれているけれど、少しでも彼の負担を減らしたい。
唯一スウの管理化にない自分のクローゼットが、服でぱんぱんなのも気になっている。
頭のなかに、家の中の雑事が浮かんでは消えていく。
そうして花夜子は、なにからはじめていいのかわからなくなり、再びテレビに意識を移した。感情の振れ幅が小さいとはいえ、専業主婦で、子どももいないのに昼間からこの体たらくであることは、花夜子に大きな羞恥心を抱かせる。変わりたいという強い思いはあるものの、現状から目を背けるほうを今日も選んでしまった。
「――何からはじめたらいいんだろう」
誰も居ない部屋で、花夜子はぽつりと漏らしていた。
そのときだった。急に、テレビがぷつっと消えた。
「まずは背すじを伸ばしたらどうですか」
後ろから聞こえたのは、厳しい声。驚いてばっと振り返る。
鍵のかかったこの部屋に人がいるわけはないので、そこに立っていたのは幽霊だった。いつもと同じ。限りなく生きている人と同じように見える。
上品なおばあちゃん。――彼女を表すのにぴったりな言葉はたぶん、それだ。
たたずまいの美しさにも目を惹かれたけれど、きちんとした出で立ちも印象的だ。グレイヘアは後ろですっきりとまとめられている。身にまとっているのは品の良い藤色の着物。
突然現れた彼女に目を奪われていると、その人は呆れたといったようにため息をついた。そして、見た目に反して厳しい調子で「全然なっていないですね」と言うと、花夜子の横にふわりと座った。
「まずは背すじを伸ばしなさい」
彼女はくり返した。花夜子はびくっとして、思わず姿勢を正した。投げ出していた足を正座の形にし、背中をぴんと伸ばし、両手は行儀よく膝の上におさめた。
「それになんてものぐさな! 使ったものはきちんと元に戻しなさい。コップは飲み終わったらすぐに洗う。1分もかからないでしょう。
本やノートが散らかっていますが、使いかけで置いておきたいならせめて籠に入れるとかまとめるとかなさったらいかがですか? なんでも出しっぱなしにするのは行儀が悪いわ。そもそも、目的もなくテレビをつけるから、考えがまとまらないのです。もともと家のことに慣れていないのであれば、まずは意識して動くことが必要でしょう。考えなくても動けるのは、慣れている人です」
幽霊のおばあさんの叱責は続いた。そして、厳しいけれど芯のある声で彼女は言った。
「あなたもいい大人でしょう。――そんな年齢になって恥ずかしくはないのですか」
かあっと体中が恥ずかしさに染め上げられるのを感じた。そして、時が止まったような静けさが流れた。
ややあって、気圧されていた花夜子は重たい口を開いた。
「――あなたは誰?」
聞きたいことは山ほどあった。珍しくさまざまな感情が体の中でぐるぐると渦を巻いているのを感じた。
でも、一番は驚きだった。花夜子は目の前で起こったことが信じられなかった。幽霊はたくさん見たことがある。でも、話しかけられたことは、実ははじめてだったのだ。
「わたくしは石崎しづこ。しづは、紫に鶴と書きます。あなたの様子を見かねて、思わず声をかけました」
彼女は、馬鹿にするでも見下すでもなく、淡々と答えた。
そこでようやく彼女の顔に目をとめる。すっと通った鼻筋に、意志が強そうだけれど丸みを帯びた、華やかな二重の瞳。年齢を重ねたしるしがあるものの、肌は大理石のような白さ。若いころはとても綺麗な人だったのだろう。叔母とは違う、白百合のような高潔で清楚な美しさを感じる人だ。
「わたくし、以前は教師をしていたのよ。家事もたしなみとして母親に叩き込まれました。あなたさえ嫌でなければ、わたくしが家事のいろはを仕込んで差し上げます。今のままではいけないわ」
――この日から、幽霊の紫鶴子による、花夜子の花嫁修行が始まったのだった。
・紫鶴子の名字を変更しました。
・紫鶴子の容姿と服装を変更しました。