幕間 - さざ波の向こう
花夜子の親友、エリカのお話です。
恋というのは、さざ波に似ていると思っていた。
些細なことで喜んだかと思うと、ちょっとしたことで打ちのめされる。それは寄せては引いていく波のようだ。では、そうしたさざ波の向こう側にあるものは、一体何なのだろう。恋の駆け引きを終えて、ハッピーエンドのその先にたどり着けたなら、物語はどうやって始まるのか。
飛行機でこの地に降り立ってから、まだ1日も経っていない。左手の薬指には、この間もらったばかりの指輪が所在なさげに鈍い光を放っている。真ん中に大きなダイヤがあり、リングを囲むように小粒のダイヤが連なったデザインは、彼と一緒に、銀座のジュエリーショップに何度も足を運んで決めたものだった。
彼の両親に挨拶をしたのは半日ほど前のこと。春には結婚式を挙げようと、いろいろと話をした。ーー私の恋物語は、まもなくエンドロールを迎えるはずだった。
遠くから響いてくるこの音は、除夜の鐘だろうか。私は今、ぼろぼろの状態で山の中を歩いている。
数メートルおきに電灯が並び、道路はきちんと舗装されている。でも、一歩脇に入ったら、獣が出てきそうな、そんな場所だ。馴染みのない土地の、それも山奥。通る車はほとんどなかったけれど、女一人で荷物も持たずに歩いている危険性を考え、車の音が聞こえたら、念のため道路脇の茂みに隠れるようにしてはいた。
吐く息の白さに気がつくと、急に身体が震えはじめた。品の良いデザインに惹かれ、この旅行のために奮発して買った、グレーのロングコートは、あの場所に置いてきてしまったのだ。
ーーとにかく逃げなければ。その思いに突き動かされて、ヒールのままよろよろと走り出したのは、どれくらい前だったのだろう。異様な興奮状態が少し落ち着くと、途端に体中の感覚が戻ってきて、寒さだけじゃなく、痛みや疲れも感じはじめた。走り続けたからか、胸が張り裂けそうなくらいに苦しく、肩で息をしていた。足に痛みを感じて、思わず座り込む。を脱いでみると、ストッキングの、小指の部分が血まみれになっていた。
どうしてこんなことに? 私は騙されていたんだろうか。いつから? ーーヒールでくるんじゃなかった。そもそも、出会わなければよかった。どうして好きになったんだっけ。ここからどれくらい歩いたら人のいるところに出られる? そもそも逃げ切れる? 捕まったらどうなるんだろう。ーー次に顔を会わせたとき、あの人は、いったいどんな顔をするのだろうか。
頭の中は支離滅裂だった。悔しくて、悲しくて、涙が後から後から湧いてくる。今はいったい何時なんだろう。時計が無いから今が何時なのかさえ分からない。
そのとき、音のない空間を切り裂いた振動にびくりと身体が硬直する。ややあって、携帯のバイブ音なのだと気がついた。ーーてっきり鞄に入れたまま忘れてきたと思っていた。
そこに表示された名前は、思っていた人のものではなかった。それでも、やや安堵して、通話ボタンを押す。
「もしもし、エリカちゃん」
幼なじみの花夜子だった。
遠く聞こえる笑い声に、そういえば彼女は夫の実家に帰省しているのだと気がつく。気のおけない友人の声に、少しほっとして、涙があふれそうになりながら「あけましておめでとう」と声を絞り出した。
花夜子は黙っている。「ごめん、時計を見てなかったの。……まだ新年じゃないのかな」と、言い訳じみた私の声を遮るように「気味悪がらないで聞いてね」と花夜子が続けた。いつになく重たい調子だった。
「今から車が3台通るの」
「車?」
「隠れられる場所はある? 今すぐに隠れて」
「え?」
私は怪訝に思って聞き返した。
「早く!」
花夜子が叫んだのなんてはじめて聞いた。
気圧されて慌てて靴を拾い、近くの茂みに飛び込むように隠れる。しばらくすると爆音を鳴らしながら黒いワンボックスカーが走っていった。
外はこんなに寒いのに、てのひらにじわりと嫌な汗が滲んだ。
「……もう行った?」
花夜子は不安そうに訊いた。私もようやく息をつき、「うん」と答えた。
「よかった……」
花夜子は安堵した様子だった。
「2台目は大丈夫だけど、一応そのままそこにいて。それから3台目が来たら、そうしたら車から見える場所へ。その人たちは大丈夫。エリカちゃんを助けてくれるよ」
「花夜子……?」
「詳しくは東京へ戻ってきてからね。ーーもう大丈夫だよ。エリカちゃん、きょうは怖かったね。もっと早く気づいてあげられなくて、ごめんね」
花夜子のその言葉に、私の瞳の堤防はついに決壊した。道路脇の電灯の、冴え冴えとした光が万華鏡のように滲んでいった。
それからしばらくして、3台目の車に乗っていた若い男女に、私は助けられた。
車内の闇の中、外から照らされるようにして、彼女の長いまつ毛の輪郭が浮かび上がっている。私はぼんやりとその美しい横顔に目をやっていた。
すでに山の麓へ降りた。しばらく車を走らせたところにぽつんとコンビニがあり、その広大な駐車場に私たちはいた。道すがらのことはあまり覚えていない。物語で場面が切り替わるときのように、それまでに起こったことをすっ飛ばして意識が戻ってきたという感じだった。
「――もし嫌じゃなければだけど、なにがあったのか、教えてくれない?」
背中に添えられた華奢な手が、私の心を少しずつ現実に引き戻しているような気がした。山の中で私を拾ってくれた男女、生駒姉弟の姉のほうであるその人は、名を詩帆といった。腰まで伸ばしたさらさらのストレートヘアと芯の強そうな瞳が印象的な人だった。この暗い中で、彼女の持つ色彩はよくわからないけれど、混じりけのない黒が似合いそうな人だと思った。
彼女とは一時間ほど前に会ったばかり。知らない人だ。それなのに、なんとなく安心できる雰囲気があって、気がつくと私は、事の顛末を少しずつ話しはじめていた。普段の自分ならありえないことなので、恐怖と興奮の余波なのかもしれない。
「実は、私はこの土地に縁もゆかりもないんです。付き合っている彼の実家に呼ばれて来ただけでした。婚約といっていいのか……ちょうどこの間のクリスマスにプロポーズされたばかりで、私、浮かれてて」
長い間、寒さに耐えていたからか、口がうまく回らなかった。
「彼もふつうの人だったし、ご両親もすごくいい人に見えました」
そこまで話すと、運転席のドアが開いて冷たい風が吹き込んできた。コンビニから彼女の弟が戻ってきたのだ。彼は、私の手にカイロを押し込むと、脇に抱えたビニールの包装をがさがさと破って、男物のあたたかいマフラーを出した。すでに彼ら二人分の上着をかけてもらっていたけれど、それでも震えがとまらず、私はついひったくるようにマフラーを奪ってしまった。
それから彼は、コーンポタージュ缶の蓋を開けて手渡してくれた。
生駒航と名乗った彼は、私よりずいぶん若いのではないだろうか。そして「見知らぬ人を助ける」なんていうイベントとは無縁そうな、今風の若者に見えた。
ゆるくパーマがかかり、きちんと整えられていることがわかる、ふわふわの茶髪。少なくとも、学生時代の私と同じクラスにいたなら、絶対に接点のなさそうな、そんな感じ。
熱いスープを喉に流し込むと、やっと生きた心地がした。――ややあって私は、ぽつりぽつりと、それまでの経緯を話しはじめた。
婚約者の家族に連れ出されて山へ行ったこと。自分の実家でも、年が明けたらすぐに氏神様へお参りする風習があるから、てっきり同じようなものだと思っていたこと。そして、その先を口にしていいのか、少し迷った。――もし彼らも関係者だったら?
花夜子からの不思議な電話を信じて助けを求めたものの、人にあまり踏み込めない本来の性格も手伝って、私は逡巡した。
ふいに黙ってしまった私を気に留めず、航くんはむずかしい顔をして考え込んでいるように見えた。そして、詩帆さんは、ややためらいがちに口を開いた。
「それは、――真っ白な神殿みたいな、そういう場所じゃなかった?」
私は頷いた。
「もしかして、みんなで踊りながら祈りを捧げてた?」と詩帆さんが続けた。私は少し悩んでから、首を縦に振った。
「――瑞雪教団だな」と航くんがつぶやいた。
聞き慣れない名前に首をかしげていると、姉弟は目配せをした。そして、私のほうに向き直って「東京の人だったら知らないと思うんだけど――」と、話し始めた。
「あの山のあった場所から言っても、婚約者のご家族は瑞雪教団の信者なんだと思う」
「瑞雪教団?」
「そう。この地域にある宗教。――といっても、ものすごく昔からあるわけじゃない。しかも宗教といっても、人の心の支えになるようなものなんかじゃないのよ。カルトとか邪教とかいってもいいんじゃないかな」
「あそこは不穏な噂が絶えないんだ。信者を洗脳してるとか、人ひとり消すのもかんたんだとか、そういうのも聞いたことがある。もちろん、噂に過ぎない。どこまでが本当かは分からないけどね」
「それに、正式名称もたぶん違うでしょう。会社のような形態をとっていたんじゃなかったっけ。地元で事情をよく知っている人が、教団って、そういうふうに呼んでいるだけで」
「――やっぱりそうだったんだ」
思わず口に出していた。
「別になにかされたわけじゃないんです。でも、彼やご家族が、神殿につくなり豹変したのが怖かった。真っ白な服を手渡され、今着ている、この巫女のような格好をさせられて……。丸い鏡のようなものを見るように言われて、祈りを捧げろっていわれて――。うちは無宗教というか、とくに信仰はありません。偏見はもちたくないけれど、あの空間は異様でした」
彼とは一年近く恋人として付き合ってきたけれど、それは、見たことのない表情だった。そして、周りの人たちの貼り付けたような笑顔にも驚いたし、話の内容だって、雰囲気だって、なにもかもがおかしかった。命に危険が差し迫るような感じがあった。
自分を見る彼の瞳は、これまで向けられた甘やかなものではなかった。どこまでも昏く冷徹で。このままここにいたら危ない。そうとしか思えなくて、――ショックで、気づいたら逃げ出していた。
「どこまでも山道が続いていて、帰るにも車も無いし、人もほとんど通らない。飛び出してきちゃったからコートもマフラーもない。ただひたすら、除夜の鐘が聞こえる方角に向かって、隠れながら進みました。――見つけてもらって本当に良かったです」
そう言いながら目頭が熱くなってくるのを感じた。そういえば、あんなに怖かったのに、涙がようやく出たのだと驚く。頬に熱いものが伝っていく。きんと冷え切った私の肌に痛いくらいの熱さだった。
ふいに詩帆さんに抱きしめられた。こんな年齢になって、はじめて会った人の前で泣いて、醜態をさらして、しかも抱きしめてもらっている。
――一体今年はどんな一年になるんだろう。
これまで変わった出来事だとか、人とは違うこととは無縁だった私の人生に、一体なにが起きているのか。思わず苦笑した。
長い話を終えると、東の空が、少し明るくなってきた。
あれから色々なことを話し、私も彼のことから少し意識を切り離せた。そして、あんな時間に姉弟二人で出かけるなんて珍しい、と、少し詮索めいた気持ちにもなっていた。
初日の出を見に行くところだったのかと尋ねてみると、詩帆さんは「それもちょっとはあるんだけど、『宝水』っていうのを汲みに行くところだったんだ」と答えた。
「宝水?」
「元日の朝に初めて汲んだ水のことをいうんだ」
「そうそう、要するに縁起物。平安時代からの行事らしいね。他の家はどうか知らないけど、うちでは毎年やってるの」
「せっかくだから遠出して、いい湧き水でももらってこようってね。それでたまたま帰省して暇してた俺ら姉弟が行くことになったんだ」
「もしかして、『若水』のことですか?」
「たぶんそれかな。いろんな呼び名があるらしいからな」
航くんが、少し考え込むようにしてから言った。
「うちでも昔は井戸から汲んでたそうです。今はもうしていないけれど、母が水道の蛇口にしめ縄飾りをつけて、気分だけでもって」
「そうか、あなたの家でもこの風習があるんだね。
じゃあさ、今からでも一緒に行ってみる? ちょっと遠いんだけど、気晴らしになるかもしれないよ。着くまでは眠ってていいからね。
「姉ちゃん」と、航くんが言った。
詩帆さんはうなずきながら「このまま帰るのは危ないだろうから、水くみを終えたら、うちに寄っていくといいよ」と私にほほえみかけた。その申し出はとてもうれしかった。危害を加えられたわけじゃないから、警察に行くのも違うと思うし、とても心細かったのだ。
「元日にはね、ばあちゃんが福茶を入れてくれるんだ。そのために取りに行くの。ちょっと面倒だけど、毎年の習慣だからね。こういうの好きなんだ」
「湯呑みに梅干し、塩昆布、炒った豆を3粒入れて、宝水を沸かした熱湯を注ぐだけ。あれを飲むと、新しい年が始まったって、そういう感じがするんだよな」
山の中で打ちひしがれていたのが嘘みたいに、頬や耳たぶが上気しているような、不思議な感覚があった。――この時の私は、来年も再来年も、お正月をこの家で迎えることになるなんて、まだ知らなかった。
「3台目の車」に乗っていたのは若い男女だった。それは、大晦日と元日のはざま。山奥の、すぐ横は険しい崖という道路。それが私と生駒姉弟との出会いだった。
山の中で生駒姉弟に拾われた私は、しばらく二人の家に滞在させてもらうことになった。
そのまま帰ろうと思っていたけれど、生駒家の人たち、――なかでも特に詩帆さんに引き止められたのだ。せっかくだから、少しでも楽しい思い出を作ってから帰っていってと。
「――恋愛ってさ、消去法なんじゃないかなって思うのよね」
詩帆さんの声が、しん、と闇に溶ける。
昨日も夜通し起きていた私たちはすっかり寝不足で、正月というのもあり、夕方から枕を並べて横になって話をしていた。眠たいはずなのに話は尽きず、私たちは会って数日だとは思えないくらい、お互いの心の内をさらけ出していた。
あんな目にあったのはつい数日前だというのに、修学旅行の、夜眠る前のような、そんな心境に変わっていて、自分の意外な強かさを知った。
「消去法?」
私が問い返すと、詩帆さんは待ってました!というような表情でにかっと笑った。気高く淑やかな印象の彼女からは意外性のある表情だった。
「そう。付き合いはじめはたっぷりの好き!で始まるでしょ。そこからちょっとずつ嫌なことが見えてきて、減点されていって、それでも残っている好きの面積がどれくらい大きいかによって、ほんとうに好きなのかが決まるような気がするんだ。結局は、嫌なところがあっても受け入れられるか? ってこと」
「ああ、なるほど。――ちょっとわかるかも。めがねを外したみたいな状態でスタートするんだよね。嫌なところは、あったとしても、見えていないふりをする。付き合ってみたら気になってよく見てみようと思ってめがねをかけて、少しずつ薄目を開けて現実に向き合っていくんだ。そうして嫌なところが見えてきて、ちょっと失望する、そんな感じ」
ふと彼のことを思い出す。
自分には不釣り合いな完ぺきな人だと思っていた。素敵な人に恋人として望まれて、浮かれて舞い上がっていたけれど、私は本当に、彼自身に恋をしていたんだろうか。表面的な魅力だけを見て、いろいろなものを見落としていたのではなかったか。
落ち着いた物腰から年上だと思っていた詩帆さんは、実は同い年だった。まるで学生時代に戻ったみたい。不思議な出会いを感じさせないくらい、私たちは仲良くなりつつあった。とはいえ、最初の印象のまま、さん付けで呼ぶのを変えることはなかった。
「――詩帆さんは好きな人、いるの?」
その言葉を絞り出すのには少し勇気が要った。他人のプライベートな領域に踏み込むのが苦手だからだ。不躾なことを聞いて嫌われないか、ふと不安になってしまう。私の問いに詩帆さんはきょとんとしていたけれど、ややあって「ひみつ」と言った。桜の花びらみたいに色づいた声から、私は答えを悟った。
「エリカちゃんはどうして彼を好きになったの?」
彼女が話題をそらしたのに気づきつつ、「どうしてだろう」と、思わず本気で考え込んでしまった。そんな私を見て、詩帆さんが笑った。
「彼は取引先の人なんです。たまに会社に来ていて。それからたまたま、近所の定食屋さんで会って、いろいろ話すようになって……。一年ほどその関係が続いていたのですが、共通の知人を通して連絡先を聞かれて、お付き合いに至りました」
時系列で追いかけるように話しながら、私は相変わらず考えていた。そうして、ふと付け加える。
「――話すのが苦手な私でも、一緒にいて、苦しくならないのが好きになったきっかけかもしれない」
それは祈りだった。
花夜子たち夫婦を見ていると、物語のような美しい恋愛への憧れがやまない。ただ表面的なものだけを見て、なんとなく付き合ったのかもしれないということを、認めたくなかった。
そんな私の心を見透かすように、詩帆さんは眉を下げて、それから優しく笑った。
「エリカちゃんさ、なんか遠慮がちなところあるよね。さっきも、あたしの恋愛について訊くとき、少し躊躇ったでしょ」
見透かされていたことがなんだか恥ずかしく、私は静かにうなずいた。
「人といると、会話がなくなったとき、すごく気まずい気持ちになるの。でも、彼とはそれがなかった。別に言葉がなくても不安にならなかった。たぶん、とても信頼していたんだと思う。一緒にいると安心した」
最後まで言い切らないうちに、鼻の奥がつんとした。続いて、涙がほろほろと溢れ出してきた。詩帆さんは幼子に向けるような笑顔をして、私の頭をくしゃくしゃとなでた。
「東京に帰る前にいっぱい泣いていきなよ。デトックスしたほうがいいよ、出し切って、それから前を向けばいいんだから」
目を覚ますと、障子のすき間から青白い月光が差し込み、畳の上に水たまりのようにたゆたっていた。伸びをしながら枕元にあったはずの携帯をたぐりよせる。ディスプレイ画面を見て、うっと胸が詰まるような気分になった。彼からの着信でいっぱいだったのだ。思わずホームボタンを長押しした。真っ暗になった画面に安堵する。
あの出来事がなければ、彼の心配は当たり前だ。そして彼も彼なりに打ち明けたかったんだろうし、私に受け止めてほしかったのかもしれない。それとも当然のことと思っていたのか。――今でもあの「歌」が焼きついて離れない。思い出すだけでも吐きそうだ。ふとんを抜け出して廊下に出た。素足には痛いくらい冷たかった。
生駒家は古くて大きな長屋だ。庭は走り回れるほど広い。
東側は小さな花畑のようになっている。いわゆるガーデニングとは違い、おばあちゃんの趣味の花畑。さまざまな花や葉が少しずつかたまりになって咲いている様子は、薬草園という雰囲気だった。北側には納屋があり、そこにはおばあちゃんが畑仕事に使う道具が収められているほか、家に入り切らないお父さんの本が雑多に積み上げられているらしい。そして、その裏には小さな畑があるのだという。今は冬だからなにもないけれど、夏にはトマトとなす、それからきゅうりがとれるのだと詩帆さんが言っていた。
どこへ行くでもなく、その広い庭を一周して、最後にたどり着いたのは岩がいくつも並ぶ場所だった。ここは昔、池として水を張っていた場所らしい。今は水を抜いて、ただ岩が並ぶだけになっている。私は力が抜けたように、岩のひとつに腰をおろした。
――去年の私、もっというと昨日の私だって、こんな「今」を想像できただろうか。
「ねえ、親御さん、いつ来るの?」
ふいに後ろから声がして、びくりと身体を震わす。「ごめん、ごめん」と慌てたような声に振り返ると、航くんだった。私の表情に、すまないといった顔をして彼は続けた。
「あのさ、俺も東京に住んでるから、もし何かあったら呼びなよ。あの団体はいい評判を聞かない。――しつこくされるかもしれないから」
「ありがとう」
私は目を細めた。航くんが今どんな表情なのか、よく見えないのだ。荷物はぜんぶ彼の実家に置いてきてしまったので、めがねもコンタクトレンズも無かった。でも、さっき頭をなでてくれたときの詩帆さんのような表情をしているのだろうと推察した。
「――あ」
思わず声を出してしまい、なんでもないと航くんに告げる。そういえば今月はレンズケースを替える月だった。交換するのを忘れないように、奇数月の3日を交換日にしているのだ。
ふと可笑しくなる。
明日が来るのが怖い。明後日が来るのも。これまで持ち得なかった感情だ。彼のことから逃げてしまいたい。なかったことにしてやり直したい。瑞雪教団なる団体のことを考えると不安でいっぱいになる。
――でも、家のなかの些事を考えられる程度には気持ちが回復しているらしい。そしてそれは、他ならぬ、この姉弟のおかげなのだと思う。
家族が空港まで迎えに来ることになっていたその日、詩帆さんは早朝から私の髪の毛をセットして、メイクを施してくれていた。
その出来上がりには驚いた。鏡ではなく、なにかの写真かと思った。彼女は地元で美容師をしているのだ。その美容院ではメイクやネイルも受けられるそうで、彼女はメイクも担当している。それから、身ひとつで飛び出してきた私に自分の服をいろいろとあてがっては悩み、まるでひとつの作品のように仕上げられた私こそが、鏡の中のそれだった。
自分が美人じゃないことはよく知っている。特に、芸能人のように端正な顔立ちの花夜子や佐々木くんと近しく過ごしてきたのが大きい。彼女とその夫は、本当に物語の中から抜け出してきたような美しさを持っているのだ。
私の目は切れ長の一重だけれど、まぶたは腫れぼったい。しかも吊り目がちなので、地味なのにきつそうな顔立ちに見える。
本当は可愛らしい服のほうが好きだったけれど、自分の顔に似合わないことは私自身が一番知っている。だから、シンプルで装飾のないものばかりを着るようになっていた。
コンプレックスの元になっている瞳は、アイプチで二重にし、なるべく華やかに見えるようにアイシャドウを重ねてきた。そうして努力を重ねて、メイクスキルはかなりのものになったと思う。でも、詩帆さんがしてくれたそれは次元が違った。
鏡の中の私は、全体的に「ふんわり」しているのだ。きつい眼差しの元になっていた吊り目は、形はそのままに、猫のような愛嬌がある。頬はふわっと上気したようになっており、年上に見られがちな顔を純粋そうに見せていた。普段の自分と比べるとややナチュラルなまつ毛にも違和感がない。
極めつけは服装だった。詩帆さんが選んだのは、白のブラウスに、ニット素材のブラウンのビスチェを重ね、ハイウエストデニムを合わせたコーディネートだった。パンツスタイルではあるけれど、ナチュラルで、どちらかというと可愛らしいその装いは、私だったら最初から諦めるものだ。
その出来栄えに感動の声を上げたときだった。携帯電話が鳴った。空港まで迎えに来てくれた家族だった。ほっとしたのもつかの間。電話を切ったあと、私は途方に暮れた。
空港では彼とその家族が待ち伏せしていたのだという。あの一件がなければ、もちろん、突然私が消えたのだから、別段変なことではない。実際、実家にも連絡がいったようだった。でも、――気持ち悪く感じてしまった。
詩帆さんが貸してくれたツイードのトランクを振り返る。彼女やその母親が詰め込んでくれたこの地方のお土産 ――銘菓や調味料、お酒など――でいっぱいだ。そう、この数日が楽しすぎて、それとも現実逃避をしているのか、私は自分の置かれていた状況を失念してしまっていたのだ。
「あんた、免許は持ってる?」
ふと、航くんが訊いた。
「持っているけど… でも、お財布もすべて置いてきてしまったから」と答えると、彼は「そういえば、そうだったな」と頭をかいた。しばらくなにか思案していた様子だったけれど、「それでもいいや、車で一緒に東京へ行こう。運転は俺がするよ。2、3日かけていけばいいだろう」と続けた。
「でも、――何時間かかるかわからないよ。いいの?」
驚いて私が尋ねたら、彼は力強くうなずいた。
「もしかすると駅にだって教団のやつらが張り込んでるかもしれない。
見知らぬ土地であんたが車で移動するとは思わないだろうから、それが一番いい方法だと俺は思う」
この人たちは、どうしてここまで優しくしてくれるのだろう。胸の奥がぽっと温かくなった。目頭が熱くなった。
そうして私たちは車で東京へ向かった。
詩帆さんとはすっかり打ち解けたものの、航くんと話すのには、私にはまだまだ勇気が必要だった。年下だというのもそうだけど、何より彼はものすごく整った顔立ちをしているのだ。
それが私を緊張させていた。
途中のサービスエリアで休憩をはさみながら、もう何時間も移動している。いつの間にか日付が変わっていた。車のなかにはラジオが流れている。私が懐かしいなあと思う曲がかかると彼の反応はなく、彼が口ずさむ曲を私は知らない。少しカルチャーショックを受ける。
「1月5日、今日はいちごの日です」
ラジオから聞こえる声に、助手席の航くんが、思い出したようにタッパーを取り出した。
「途中で食べてって、姉ちゃんに持たされたんだ。いちご」
ピックをいちごにさすと、彼はそれを私の口元へ運んだ。驚いたけれど努めて冷静を装いながら「いちごの先にピックをさすのね」と言った。
「へたがあった方から食べると甘いんだよ。うちは昔からそう」
「知らなかった。食べる向きがあるなんて。
先端から食べていたからかな、いちごってちょっと酸っぱいのが苦手で、私はいつもたっぷりの練乳をかけるの。大人になってよかったことは、練乳をどんなにたくさんかけても誰にも叱られないこと」
私がそう言うと航くんは笑った。――なんだ、ふつうに話せてる。そう思うと、どきっとした。
「俺ん家はいちごミルクにしてたなあ。つぶして、砂糖をいっぱいかけて、牛乳を入れて。練乳よりは少しさっぱりした感じ」
「はちみつに漬けてもおいしいのよ。私はキウイとオレンジと一緒にカットして漬けておいてる。といっても、色が落ちてくるからそんなに長くはもたないんだけど」
「へえ、あんた料理するの? ちょっと意外かも」
「――たぶん、人並みには」
少し不服に思いつつ私が答えると、彼は「じゃあ今日、作りにきてよ」と笑った。
その夜から、私たちは一緒に暮らしはじめた。家の前に、瑞雪教団らしき人たちが待ち構えていたのだ。
顔を知られていない航くんが荷物を運び出し、逃げた。
彼と話さなければいけない。そう思ったけれど、会うのは怖かった。結納をしていたわけでも、式場を抑えていたわけでもない婚約。私がどうしても電話をかけられなかったので、親同士の電話一本でなかったことにしてもらった。
それから、教団の関係者らしき人たちに付きまとわれることはなくなったけれど、有給も使って長めに取っていた正月休みを終えて出社すると、不可思議な噂が流れており、周りの私を見る目はなぜか変わっていた。辛く当たられる日々が続き、新卒のころから勤めてきた会社を辞める選択をした。
辛い日々の中で、そっと支えてくれる航くんに好意を抱くまで、時間はかからなかった。同居人として暮らしてしばらく経ったころ、私たちは恋人同士になった。幸せを感じる反面、向き合わなければいけないことも、考えなければいけないことも山積みで、婚約を解消したばかりなのにという負い目も手伝って、私は日々、自分を責め続けた。
恋というのは、さざ波に似ている。改めてそう思う。
些細なことで喜んだかと思うと、ちょっとしたことで打ちのめされる。それは寄せては引いていく波のようだ。このさざ波の向こう側にあるものは、まだわからない。私の物語は、結婚というハッピーエンドには程遠いのだろう。そして、花夜子のようにその先に待っている生活があることも、正直なところ想像できない。
航くんと過ごす時間が心を温める。物語のように、清廉に、きちんと生きたい。心の底にいつもあるその思いが、私を苦しめる。それでも、今は自分の気持ちに沿って生きてみようと思うのだった。
もともとは、2つで1つのお話として作っていました。2017年に2つの話を交互にブログに載せていたので、ここでも分けたのですが、花夜子のほうの設定を大幅に変えたので、エリカの話も辻褄が合わなくなってしまい、コンパクトに作っていくことに。幕間で少しずつ載せていきます。
連載として作っていたページは後日削除予定です。