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3.宴のあと

 花夜子の心は良いのか悪いのか凪いだままだ。でも、空気が凍るというのは、まさにこういう状況を指すのだろう。――花夜子はどこか他人事のようにそう思った。

呼び水となったのは、叔母のグラスにビールを注いでいた花夜子へかけられた言葉。それまで確かに周りはがやがやとしていたはずなのに、吸い込まれるように、しん、と音が消えたのだ。


 それは、実家で親戚と食事会をしたときのことだった。

 花夜子の実家では、毎年、正月三が日のどこかで親戚が集まるのが慣例となっている。田舎で、いわゆる名家らしい花夜子の家にはだだっ広い和室がある。そこが宴の場。普段はしまい込んであるテーブルや座布団をたくさん並べ、集まるのは二十人ほど。父方の親戚ばかりだ。進学や結婚などで人数は年々少なくなっていたし、花夜子自身もこの場に参加するのは久しぶりだった。


 その中で強く存在感を放っていたのは、父の末の妹である叔母だ。赤い薔薇のような彼女は、五十代に入っても艶やかさを失っていない。吊り目がちでくっきりした二重の瞳は、黒のアイラインでしっかりと縁取られ、長いまつ毛がその強さをより際立たせている。形の良いくちびるは、いつものようにワインのような赤い口紅で華やいでいた。

 この場に彼女のパートナーは居ない。美しい人なので意外なのだけれど、ずっと独身を通している。


「カヤちゃん」と、彼女は子どものころからの花夜子の呼び名を口にした。

「私の母、――つまりあなたのおばあちゃんの話なんだけどね。結婚して四年目で兄が生まれるまでは、ずいぶん肩身の狭い思いをしていたらしいわ」

「おとうさんが生まれるまで?」

 花夜子の問いに、叔母はうなずく。

「昔はね、三年子なきは去れって言われることが多かったからよ。幸い、母は兄が生まれたから出ていかなくて済んだけれど。――あなたたちは、結婚してもう五年? いえ、六年だったかしら。そろそろ今後の身の振り方を考えたほうがいいんじゃない? もっとも、いつまでも子どもみたいなあなたが母親になるだなんて、想像もつかないけれどね」

 そう言って、彼女はく、く、と笑い、口の端を笑みの形に吊り上げた。


 水を打ったように静まり返った和室で、最初に響いたのは足音だった。

 少し離れたところで別の親戚にお酌をしてくれていたスウが、珍しく荒々しい音を立てて近づいてきて、私たちの間に割って入ったのだ。彼は何も言わなかったけれど、その背中からは明らかな怒りを感じた。次いで響いたのは、怒鳴り声。叔母の名を呼ぶ父の声だった。


 花夜子は従姉に手を引かれて二階に「避難」した。花夜子自身はそんなに気にしていなかったのだけれど、子どものころから見知った親戚の女性たちが代わる代わるやってきては、花夜子を気遣ってくれた。

 叔母と父はとても仲の良い兄妹だった。でも、怒り狂った父が半ば追い出すようにして、叔母が出て行ったらしく、花夜子は自分が言われた内容よりも、そちらのほうがむしろ気にかかった。外に目をやると、豪奢な毛皮をまとった叔母が、ヒールの高いブーツで雪を踏みしめながら門を抜けていくのが見えた。彼女は一度もこちらを振り返らなかった。それでも足取りは重く、花夜子の知っている彼女とは違うように見えた。


「――茜おばさんはね、今も結婚に夢見ているのよ」

 いつの間にか隣に立っていた従姉の光姫(みつき)ちゃんが苦々しげに言った。その胸には去年生まれたばかりの男の子が抱かれていて、穏やかに目を閉じている。


「長年付き合っていた、年下の男の人に捨てられたらしいわ。でも、だからって、あんな態度……。あの人の中では、いつまでも若いころの自分のままなんだと思うの。美人で、いろんな人にちやほやされていたころのまま。だからこそ、いつも無神経なことばかり口にする。それがずっと許されていたからなんでしょうね。

――あたしも何度嫌なことを言われたことか」

 花夜子は、叔母の姿が見えなくなるまで、いつまでも窓の向こうを見ていた。



 食事会の日の台所はにぎやかだ。女たちが皆ここに集まって、持ち寄った料理を温めたり、盛りつけたり、飲み物を用意したりするからだ。ただ、一番年下の花夜子の役目は、子どもの頃から変わらず、テーブルを拭くことだけだ。


 氷のように冷たい水で台拭きを絞り、暗い廊下をひたひたと歩いて和室へ戻る。宴会の後の、食べ物や飲み物がこぼれたテーブルを拭く。

女たちはてきぱきと動き、まだ開いていないビールを外とあまり変わらないくらい寒い風除室へ持っていったり、りんごや柿といった果物をむいていたり、汚れた皿を重ねて台所へ運んでいたりした。男の人たちは思い思いに過ごしていた。将棋を指すおじいさんたち、ゲームに夢中になる子どもたち、そして座布団を丸めて枕にして横になっているおじさん……。その中でスウだけが女たちに混じって働いている。


 花夜子の拭いている様子を眺めていた光姫ちゃんは、じれったそうにしていたかと思うと、花夜子の手から台拭きを取り上げて言った。

「ごめん、ちょっと借りるね」

 そう言うと彼女は、暗い廊下の奥に消えていった。ややあって戻ってきた彼女は、まずテーブルの縁をぐるりと囲むように四角く拭いた。それからテーブルの奥側に台拭きを乗せ、右へ左へとじぐざぐに折り返しながら手前へ向けて手を動かした。最後にもう一度縁をぐるりと拭き取る。そしてそのまま、また廊下の奥、洗面所のある方へ消えていった。絶え間なく動き、わずかに揺れるその背中で、赤ちゃんが気持ちよさそうに寝ていた。

 光姫ちゃんの拭いたテーブルはピカピカに磨き上げられていた。花夜子がしたときのように、水滴が残っていることはもちろんなく、無駄のない動きで、素早く綺麗にされていた。



 そのテーブルを見たとき、花夜子の心は大きく波打った。体の奥から恥ずかしさが溢れてきたのだ。

 花夜子が叔母の言葉に傷つかなかったのは、心が凪いでいるからだけではない。自分でも子どものようだと思っていたからだ。もう子どもがいてもおかしくない年齢だというのに、自分では何ひとつ満足にできない。すべてを誰かにやってもらっていた子どものままなのだ。

 ――だからといって、変わるためにまず何をしたらいいのかもわからずにいた。


 叔母もそうだったのではないだろうか。花夜子のように、いつまでも昔のまま、心が育たずにいたのでは。そう考えてみると、あの雪を踏みしめて帰っていく孤独な後ろ姿は、まるで自分のもののように思えて、花夜子は少し悲しい気持ちになった。

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