9.7種の神器(1)
「紫鶴子さんの旦那さんは、どんな人だったの?」
花夜子が訊くと、彼女はすこし淋しげに眉を下げた。
幽霊になった彼女の記憶は、ところどころ抜け落ちている。もしかすると、旦那さんのこともそうなのかもしれない。
「――なにかありましたか?」
どうすればいいか悩んでいたら、紫鶴子さんのほうに気を遣ってもらってしまった。花夜子は、昨夜のスウのことを考えていたのだ。
昨夜のこと。エントランスに入ってくるスウを目にしたとき、思わず見とれた。すっと背筋を伸ばして歩く姿も、凛とした横顔にも。二十年以上も一緒に過ごしているというのに、不思議とドキドキしてしまった。
同時に、違和感があった。花夜子の知っているスウではなかったのだ。端正な顔には表情がなかった。けだるげに下がった眉も、鋭く細められた瞳も、きゅっと結んだくちびるも、怜悧な印象を与えた。
あれが彼の外での顔なのかもしれない。そう考えると、どれだけ一緒にいても、知らないことはまだあるのだと思った。
「外の顔、ですか――」
「そう。花夜子が知っているスウじゃなかったから、ちょっと驚いちゃったの」
「そんなもの、男性に限らず、だれでも持っているのでは?」
紫鶴子さんが言う。
「人は、ひとりで何種類もの役割を持っています。たとえばわたくしだって、妻であり、娘であり、母であり、教師であり、一人の女性だった、そういう時代があります。役割に合わせて、表情も言葉遣いも変わるでしょう? そういうものですよ」
彼女の話はたしかに納得できるものだった。でも、それにしても、スウの表情は気になったのだ。
「大人になるにつれて、わたくしたちは、いろいろな顔を持つのでしょうね。誰に教えられるでもなく、人によって使い分けていく。場合によっては、演じるようになる。寂しくもあり、当たり前のことでもあります」
顔を使い分けるのが大人になることだとしたら、花夜子は――。
「さあ、手を止めてはいけません。今日も青菜をたべましょう」
紫鶴子さんが手を叩く仕草で現実に引き戻された。物理的に触れ合わないはずなのに、パンパン、と小気味良い音が聞こえてきそうだから不思議だ。
「今日は、七種の神器をお教えしましょう」
紫鶴子さんは、女王のように悠然と言った。その様子がなんだか可笑しくて、花夜子がくつくつと笑うと、今度は顔を真っ赤にしてぷりぷり怒った。
「大仰だと思うかもしれませんが、家庭料理にとって、枠を作っておくことはまさに武器なのです。わたくしが今日お伝えしたいのは、青菜と一緒に和えればかんたんに印象を変えられる7品。調味料の組み合わせも変えたら、もっとバリエーションが増えます。メモの用意はいいですか?」
花夜子は慌ててポケットからメモ帳を取り出した。