2.花ふきん
雪の降る夜は、宇宙の中を漂っているような気分になる。――真っ暗な空にぽつぽつと大小さまざまな雪のかけらが舞っているのを見上げると、たくさんの星のように見えるのだ。
高校生のときによく使っていたバス停に、花夜子とスウは立っていた。スウの白い頬は少し上気していて、少しお酒のにおいがした。今日は同窓会だったのだ。家からバスで二十分ほどの場所に繁華街がある。地元の居酒屋に入ったのは、実ははじめてのことだった。花夜子はお酒がかなり強いほうだけれど、多少ふわふわした気持ちになっているらしい。やや覚束ない足取りのスウを支えながら、何度も今日の出来事を、会話を、空気を、反芻していた。
幼稚園から大学まで、スウと花夜子はずっと一緒だった。だから、お互いの友人知人は大体かぶっている。そんな中で、いつの間にか大人になったみんなの中には、すでに子どもがいる人も少なくなかった。
小学校から一緒だった千乃ちゃんもその一人だった。来月二人目が生まれるという彼女のお腹は、はちきれそうなくらいぱんぱんで、触ってみてと言われて、花夜子はこわごわそこに触れた。高校生のころはずっとアイドルの写真だった彼女の携帯電話のホーム画面は、かわいい小さな男の子の写真に変わっていた。トレードマークだったロングヘアも、今は肩より短いボブヘアになっている。スカートしか履きたくないと言っていた彼女がパンツスタイルになっていたことにも驚いた。
花夜子の中で、千乃ちゃんは今でも高校生のときのままだった。雪みたいに白い肌をしていて、頼りなさと儚さの間のような絶妙なたおやかさがあり、目の前にいる男子たちには興味が持てなくて、かわいいものを愛している、そんな彼女を思い出したまま再会してみると、別な人と話しているような錯覚に何度も何度も陥った。
ただの千乃ちゃんだったはずだ。それが、いつのまにか「おかあさん」になっていく。――花夜子には不思議に思えてならなかった。花夜子にもいつか、そんな日が来るのだろうか。とても想像はできなかった。
母の記憶はあまりない。――子どものころに亡くなったから。
でも、屋根裏部屋でミシンを踏む姿だけはよく覚えている。がたごと、がたごと。家じゅうに響き渡るような大きな音が響き終わると、魔法のように、花夜子のワンピースや鞄やティッシュケースなんかが出来上がっていた。
あの音はどうにも苦手だった。それなのに、花夜子は母の作業部屋を覗かずにはいられなかった。母が手仕事をするのは、たいてい日曜日の夕方で、天窓から差し込む茜色の光が母の細い髪の毛に落ち、茶色に透けて、とてもきれいだったのだ。――今思うと、あの儚いうつくしさは、母の命を体現していたのかもしれない。
花夜子もやってみようと思ったことはあった。母のミシンをかける姿にあこがれて、小学校では手芸クラブに入っていた。
針に糸を通せるようになるまで何日もかかった。玉結びはどうやってもできなくて、結局最後まで先生がやってくれた。なんとか作ってみても、出来たのはいびつなものばかり。刺繍をすればところどころほつれた。デザインのセンスもなかった。
練習も足りてないけれど、周りの子たちと見比べていくうちに「ああ、これは向いてないんだろうな」と直感でわかった。どうしても極めたいというわけでもなかったので、結局、花夜子はあっさり手芸を諦めて、向いていて好きなことである勉強に打ち込んだ。
でも、今はなんだかやってみたい気もしている。
昼間テレビで言っていたのだ。今日は、なにかを始めるのにぴったりの日なのだと。いろいろ挙げられていたけれど、花夜子はその中から「縫い初め」を選んでみたいと思っている。高校生まで住んでいた部屋を片づけていたら、やりかけのまま引き出しの奥に眠っていた布を見つけたのだ。
これならかんたんだからと叔母にもらった、花ふきんだ。表から刺して、裏からまた刺して。それを繰り返していくだけの単調でかんたんな並縫い。それだけで作ることのできる美しい刺繍。これは図案が布に描き込まれていて、それをなぞるように縫うだけでいいのだと。
高校生だった花夜子には、それを使うシーンがいまいち思いつかず、あまり興味も持てないまま途中でやめていた。でも、自分で家事をするようになった今なら、愛着を持って針を進められるかもしれない。
雪闇の中を、バスが静かに滑り込んできた。乗客は花夜子たちだけのようだ。乗り込む前に、もう一度、空を見上げる。この冷たくてうつくしい宇宙は東京では見られないから、きちんと見ておきたくなったのだった。
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