1.ふわふわ甘やかしミルク
その日、花夜子はだれかと雨宿りをしていた。たまたま見つけた洞窟の中には、小さな泉があった。夏だというのに、そこに手を浸すと氷水のような冷たさだった。泉の中央は岩でできた島のようになっている。そこには同じ素材で、大きさの違う石を組んで作った祠のようなものが鎮座していた。祠の上部は苔で覆われており、お供えものの花はすっかり枯れて、触れたら壊れてしまいそうだ。ずっと誰も手をかけていないことが見てとれた。そして、花夜子はなにかに導かれるように祠に手を伸ばした――。
「花夜子、――花夜子!」
気がつくと荒い息をしていた。一瞬、ここがどこかわからなかった。闇のなかに男の人の輪郭が浮かび上がる。続けて名を呼ぶその声から、夫の朱雀だとわかった。夜着が冷たくなるくらい、じっとりと汗をかいていた。このところ、心が凪いでいる。そう思っていたはずなのに、瞳から次々あふれ出すのは涙だった。
「――スウ」
「うなされてたよ」と、スウは花夜子の涙を弾くように拭きながら言った。まだぼうっとした花夜子を残してベッドを立つと、タオルを持ってきて顔を拭いてくれた。それから抱きしめてくれた。規則正しく動く心臓の音に、少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じた。
彼と一緒にいると、花夜子は幼い子どものままであるような気になる。
スウに手を引かれ、階下の台所へ降りる。スウは花夜子を椅子に座らせると、調理台の下から白い琺瑯の鍋を取り出して、静かに牛乳を注いだ。火をつけて、弱火でとろとろと温めていく。花夜子はぼんやりと青い火に目をやっていた。
彼は食器棚からマグカップを取り出す。コスモスの花が描かれたそれは、まだ小学生だったころ、スウの母親が花夜子のために用意してくれたものだ。それからグラニュー糖とはちみつを取り出して、鍋に入れる。ややあって、シャカシャカと金属がこすれる音が響きはじめた。彼が作ってくれるホットミルクは、低い温度でじっくりと牛乳を温めて、最後にこうして泡を立てるのだ。そうするとふわふわになる。
「いつものやつ。ふわふわ甘やかしミルク」と言って、スウがホットミルクを花夜子の前に置く。ひと口、すする。猫舌の花夜子にはまだ熱くて、少しずつ、ちびちびと飲む。ふわっと強い甘みが広がる。はちみつだけでも甘いのに、グラニュー糖も入れるから、甘ったるいくらいだ。でも、夢見の悪い夜に一番効く薬だった。
部屋に戻り、ふと携帯に目をやる。エリカちゃんからのメールが来ている。花夜子はそれでようやく夢を見た理由に思い当たった。――これは余波なのだと。
あれは、年が明けるか明けないかというころだった。
スウと家族で年越し蕎麦を食べようと集まっていたとき。ふと軽い立ちくらみを覚えてうつむいた。すると、頭のなかに見知らぬ山の風景が見えた。人気のない、車もほとんど通らないような場所。そこをよろよろと歩いているのは、幼なじみのエリカちゃんだ。
驚いているうちに、映画を観ているかのようにたくさんの情景が頭のなかに流れ込んでくる。彼女がそこに来るまでに起こったこと、これから起こりうるいくつかの未来――。とぎれとぎれだけれど、ものすごい情報量だった。
ようやくそれらの上映が終わり、顔を上げる。誰も不思議そうな顔さえしていない。時間にして、ほんの数秒しか経っていないらしかった。やや面食らいながらも、慌てて携帯を取りに部屋へ戻った。
一瞬、ためらった。花夜子の不思議な力のことを彼女は知らない。伝えるべきかどうか。嘘だと笑われるのか、気味が悪いと避けられるか。でも、最悪の未来が起こってしまったら。そう思うとあとは自然と手が動いた――。
彼女に伝えるべきことは、たぶん伝えられた。そうして何事もなかったかのように家族の団らんへ戻り、年越し蕎麦を食べ、新年の挨拶をし、布団に入ったのだった。たぶん、あの起こってほしくない未来に引きずられたのだ。不安な気持ちが夢を呼び寄せたのだと思う。
花夜子は、背中のあたりがきりりと冷えているのを感じた。決してこの雪国の寒さのせいだけではない。あの祠のことを思い出していた。花夜子の本能が、全身が、叫んでいた。それに触れてはいけないと。あれはいつか来る、最悪の未来なのだろうか――。
いつの間にか洗いものを終えていたスウが、花夜子の手を取る。てのひらからじんわりと熱が伝わってきて、はっと現実に引き戻される。そして、自分がひとりではないことを思い出して、そっと安堵したのだった。