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12.朝の物語をつくる

 スウの朝は早い。花夜子が目を覚ますころにはもう身じたくを済ませていて、花夜子は彼を見送ることだけをなんとか朝の決まりごとにしている。


 今日もそうだった。目を覚ますと、隣にスウの姿はない。水音がするので、洗面所で髪を整えているらしかった。


 のそのそと起き出していくと、食卓には温かいクロワッサンに、バジルとトマトの入ったチーズオムレツ、彩りのきれいな野菜たっぷりのサラダ、それからポタージュ、そしてオレンジジュースが置かれている。

 クロワッサンは近所のお店のもので、たぶん、焼きたてを買ってきてくれたのだろう。サラダは、花びらのように敷かれたレタスの上に、千切りにしたにんじんとレーズン、自家製のカッテージチーズを和えたものが乗っている。その脇にはミニトマトや輪切りにしたパプリカなども添えられていた。オレンジジュースも買ってきたものではない。オレンジを半分に切って、ジューサーで絞ってくれているのを前にみたことがある。つぶつぶが少し残っていて、甘くておいしい。手のかかった朝食だ。


 申し訳なく思いながら腰を下ろす。まだパジャマ姿の花夜子とは対称的に、髪を後ろに撫でつけ、ぱりっとしたスーツに着替えたスウは、洗面所から出てくると、ぱっと笑顔になって「おはよう」と言った。そしてキッチンに戻り、カフェオレを淹れてくれた。


「今日は帰りが遅くなると思う。だから、ごはんは作らなくていいよ。花夜子、ここのところがんばってくれてるから嬉しいし、俺も食べたいんだけどね。いつもありがとう」


 花夜子は、情けないやら嬉しいやらで、弱々しく笑うことしかできなかった。スウはいつものように美しい所作ながらも早く食べ終えると、自分の分のお皿をさっと洗って、ふきんで拭いて、食器棚に戻してから玄関に向かった。靴を履くスウが立ち上がるタイミングでかばんを手渡す。これだけが花夜子の朝の仕事。


「行ってきます、花夜子。今日も楽しく過ごしな」


 スウはそう言うと、花夜子の額にそっとキスを落として出て行った。花夜子は思わずぼうっとなる。いつだったか、友だちのエリカちゃんが、私たちを少女漫画のようだと言ったことがあったっけ。恐ろしく顔が整っていて、頭が良くて、優しくて、何でもできる、完ぺきなスウ。それに大して、花夜子はどうだろう。彼の荷物にしかなっていない。

 エリカちゃんのすすめで少女漫画をたくさん読んだ時期があった。でも、ヒロインが愛されるのは、魅力があるからだ。花夜子とは違う。幼なじみだというただそれだけで、花夜子は彼の妻の座にいる。


 スウが完ぺきであればあるほど、花夜子は情けなくてしかたがなかった。それと同時に、いつか愛想をつかされてしまうのではと思うと気が気ではなかった。






「紫鶴子さん、ごめんなさい」


 "出勤”してきた紫鶴子さんに、花夜子は詫びた。


「家事のテストに書いた、毎日する家事。ほんとうはできていないの。やりたいことを書いただけ」


 そして、毎朝の過ごし方を打ち明けた。紫鶴子さんはくすりと笑い、「優さんって、すごくできた方ですよね。わたくしが若いころは、男性がそんなふうに家事をするなんて、ありえなかったことです」と言った。

 胸がきゅっとなる。花夜子もこのままでいいと思っていたわけではなかった。


「このままじゃいけない。そう思っているんですか?」


 見透かしたように尋ねる紫鶴子さんに、花夜子はこくりとうなずく。


「わかりました、それが、あなたの焦りの原因だったんですね。早く家事をきちんとできるようにならなくちゃいけない。だからいろんなことを一気にやろうとして、空回りしていた。ようやく合点がいきました」


「スウには、悪いと思っているの」


「そうでしょうね。これだけ甘えていれば、そう思わないほうが不自然です」


 紫鶴子さんの口調が厳しくなる。


「花夜子さんは、どんなふうになりたいですか?」


「…家事ができるようになりたい」


「家事ができるって、どういうことでしょう?」


「え?」


「どこまでできたら、できるっていうことになるんでしょうね。花夜子さんのなかには理想の主婦像があるって、前にわたくし言ったでしょう。でもそれってたぶん、漠然としていると思うのです。おしゃれな料理が出せたらとか、いつでも片づいているとか。もっと具体的に考えてみませんか」


「具体的にって、どんなふうに?」


「そうですね、まず、朝起きてから、優さんを見送るまでの流れです。何を、どんなふうにやるのか。それを具体的に考えてみましょう。物語を作るんです。物語を綴るように、花夜子さんの、理想の朝のストーリーを作ってみましょう」


「まずは、…スウよりも、先に起きる」


「それは何時ですか?」


 スウがいつ起きているのかはわからなかった。けれど、ごはんしたくを済ませて、身じたくを済ませて、カフェオレを飲み始めるのが7時半。


「――逆算すると、たぶん、6時から6時半の間には起きているんじゃないかなと思う」


「では、6時をスタート地点にしましょう。優さんよりも先に目を覚ます。次に何をしますか?」


 花夜子は、朝の目覚めがいつも心地いいことを思い出す。目覚ましの音でなく、おひさまの光で、まぶたをくすぐられるようにして、まどろみから抜け出していく感覚。


「カーテンを、静かに開ける。おひさまの光をいっぱい部屋に取り込んでおくの」


「テストに書いたことは、やっていないことだと花夜子さんは言いましたね。でも、今の段階では、それで間違いじゃないんですよ。だからバツにはしません。まずはやりたいことを書き出せれば、それでいいんです」


 紫鶴子さんがほほ笑む。

 それからの時間は、いつものノートに、理想の過ごし方を書き出して過ごした。気がつくとお昼どきになっていた。




「できましたね、理想の過ごし方。読んでみてください。大切なのは、今、自分がやっているかのように、想像してみることです。イメージトレーニングというのでしょうか、そういう感じです」


「朝目を覚ましたら、静かにふとんを出て、カーテンを開けていく。冬なら加湿器のスイッチを切って、キッチンへ持っていき、水を捨てる。やかんにお水を入れて火にかける。洗面所へ行く。冬ならヒーターをつけておく。顔を洗って、髪を軽くととのえて、着替えて。エプロンをつける」


「お気に入りのエプロン、あとで買いましょう」


 紫鶴子さんがほほえむ。


「朝ごはんを用意する。一段とばしにしないで、まずは出来合いのものでもいいから、用意する習慣をつける。テーブルを拭いて、ごはんを並べていく。スウのスーツやワイシャツを、使う順番にかけておく。靴をみがく」


「靴みがきは、慣れてからにしましょう。また続かなくなるかもしれません。かわりに洗濯ものをまとめて、仕分けておく作業に。――いいですね。こうして物語のように書いてみると、印象に残りませんか? すべてできなくてもいいので、覚えながらやっていきましょう。書き方もわたくしは物語のようにと言いましたが、絵にしても、写真で撮ってもいいのです。たとえば、1コマずつ、今の朝の物語を写真に撮っていく。それを1枚で見られるように印刷して目につくところに置いておく。人によって合うやり方は違うでしょうから、花夜子さんらしく、臨機応変にアレンジしてください」




 やることが決まったら、朝も早く起きられそうな気がしてくるから不思議だ。


 紫鶴子さんが帰った。花夜子は、髪の毛を結び、おろしたてのエプロンを身につけた。まずは夕飯したくから始めよう。1段1段確実に。花夜子はたぶん、階段を登りはじめている。その実感がとてもうれしくて、思わず笑みがこぼれるのだった。

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