序章 霧の向こう
花夜子の中に、霧のような違和感が生まれたのは、いつだったのだろう。
夫の実家の広い檜風呂で、ふわりと広がる湯気を見ながら思う。頭の芯に甘く響くなにかがいつもある。花夜子を形づくる大切なものをゆるやかに失っていくのを感じる。そして、なんというか、ずいぶん遠くまで来てしまったような気がする。
お風呂から出る。雪国の夜は寒く、廊下に出ると足が痺れるように冷たくなった。広い廊下をぺたぺたと歩きながら、まだ少し湿り気の残る長い髪の水分をタオルに移す。ふと、足元に水たまりのような光を見つける。窓の向こうから注ぐ月の光は、氷のような冴え冴えとした色をしていた。光のもとをたどるように外に目をやる。
雪の中に、十八の頃まで過ごした実家が見える。大晦日の夜だというのに、父はもう眠ってしまったのだろうか。義実家とは違う、洋風のつくりの家は真っ暗だ。
***
今日泊まらせてもらう和室で着替えを整理していると、スウがコーヒー牛乳を持ってきてくれる。もう二十年以上一緒にいるせいだろうか、彼は花夜子がなにかを口にしなくても、心のうちにあることに気づき、先回りしてなにかをしてくれる。夫の朱雀と花夜子は、生まれたときからの幼なじみだった。人にはよく「少女漫画のような恋」と言われるけれど、当の花夜子自身には、その感覚がよくわからないのだった。
「ごめんね、今日は親戚みんな来たからちょっと疲れたんじゃない?」
「ううん」と、花夜子は首を振る。
「あのひげ面のおじさん、わかるかな。うちの親父の2番めの兄貴なんだけど。あの人はさ、霊感があるっていうんだ。俺は見えないからあんまり信じられないなあ」
「どんなものが見えるの?」
「じいちゃんの霊。半透明でさ、ずっと家のなかにいるんだって」
「ふうん」と言ってから、「じゃあ、うそかもしれないね」と花夜子は続けた。
「どうして?」
やや驚いたようにスウが目を見開く。花夜子の反応が意外だったのだろう。
「幽霊はね、人とおんなじように見えるんだって。意識しないと違和感に気づかないくらい、自然にいるのよ」
そう言って花夜子は、部屋の隅にたたずむ"おじいちゃん”にそっと目配せをした。
「スウ、除夜の鐘が聴こえる。早く年越しそばが食べたい」
"おじいちゃん”はやや怒っているように思えた。おそらく、スウの大伯父とは折り合いが悪かったのだろう。その形相に普通だったら怯えるのかもしれない。でも、花夜子のなかに、とりたてて激しい感情が生まれることはなかった。
――いつからか、心の中がいつも凪いでいる。
「わかった。じゃあ今から作るよ。具は何がいい?」
スウは子どものような花夜子の申し出に、やや可笑しそうな顔をしてから言った。
「そうね、とり肉と舞茸、それからネギをたっぷり入れて。おなかがすいちゃった」
「さっき食べたばかりじゃないか」
部屋の電気を消す。おじいちゃんに手を振る。彼はやや面食らったように目を細めた。ーーそしてふと思う、花夜子はいつから幽霊がみえるようになったんだっけ。
記憶の片すみに、糸のように雨が降る情景が浮かんだ。でも、その先の記憶は続かなかった。スウと連れ立って部屋を出る。別に思い出せなくてもいいような気がした。