第二十七話「宇宙の上の浮遊体験」⑤
……昇降ハッチの頑丈そうな内開きドア。
背後の隔壁が閉鎖される……一応、エアロック機構はあるから、本来はこの状態で空気が抜かれて真空になる。
けど、真空状態を示す警告ランプはいつまで待っても赤にならず、緑ランプのままゆっくり点滅中。
なにせ、エトランゼの周囲にはすでに環境維持シールドが展開されてるから、外は真空って訳じゃない。
さすがに一気圧きっかりを維持するのは大変らしく、気圧も低めにすることで対応してるっぽい。
減圧症が心配になってくる数値だけど、エルトランから提示された皆のメディカルデータ上では、どうもクオン人の若い世代って、生れ付き減圧耐性を持ってるっぽい。
具体的には、血液自体が窒素を取り込みにくくなってるみたい……どうみても遺伝子改良の痕跡あり。
どうも、コロニーの気密も完璧とは言えないから、一時的に気圧が急下降するような事故とかって結構頻繁に起きてるみたいなのですよ。
そうなると、当然のように減圧症の問題が出てくるんだけど。
予め遺伝子改良で減圧耐性を持たせておくことで、影響を最小限にすると。
減圧症って昔は自然回復もしないし、高圧酸素療法とかしか対処もなくて、大変だったらしいけど。
今の時代ではナノマシン注入による治療とかあるから、あんまり問題になってないんだけど、こう言う遺伝子改良アプローチでの根本的な予防もありって事なんだね……結構、考えられてるんだね。
『ナノマシンフィールド、規定濃度で展開完了いたしました。船外環境数値は生存可能数値を維持しております。……気圧0.5気圧で安定、気温20度、酸素濃度20%。ユリコ様、最終安全確認を願います』
例えるとでっかいシャボンで覆われてる感じ。
確かに、この数値なら航宙艦内の安全基準数値もクリアしてるから、そのまま外に出れる。
気圧がちょっと低いけど、皆の減圧耐性を考慮すると、まず問題にならないだろうね。
装備は、姿勢制御ユニットと非常用の生命維持装置をセットにしたバックパックのみ。
……まさに最低限の装備。
それと念の為に、粘着式ではなく電磁吸着式のワイヤーガンを全員に行き渡らせる。
その上で、全員をカーボンワイヤーで数珠つなぎで繋いで、終端部をエアロックのワイヤードラムに接続する。
5mm程度と一見頼りないワイヤーなんだけど、ワイヤー自体は軌道エレベーターなんかにも使われるような超頑丈な代物。
コレが切れるような荷重や衝撃ともなると、もはや人間が耐えられる荷重じゃないから、切れたりする心配はいらない。
身体に巻き付いたりすると危ないんだけど、編み紐構造で伸縮性も高いから、そこまで危ないものでもない。
ワイヤー自体はリール式で、ボタン一つで伸び縮み出来るようになってる。
エルトランの遠隔操作による緊急回収も出来るようになっているので、危ないと判断したら問答無用で全員を団子状にして、速やかに収納出来るようになってるのですよ。
『皆様、準備はよろしいでしょうか? 注意事項としては、船体から10m以上離れないように……これだけは守ってください。それと船外やバックパックの警告灯が赤点滅になったら、外気が生存危険領域に入った事を示しております。この場合、酸素タブレットを口にした上で、制服及びライフジャケットの緊急避難モードを起動した上で、速やかに船内に撤収するようお願いします。では、ロック解除、ハッチ開放します』
ドアがゆっくりと開くと軽い気圧差で耳がツーンとする……昇降ハッチの外はいきなり宇宙空間。
皆、思わず息を呑んだようだった。
けど、真空中でハッチ開放した時みたいに一気に空気が抜ける……なんてことは起きない。
「大丈夫なのですよ……」
それだけ言って、無造作にひょいっと外に出る。
見渡す限りの星空……360度、何もない宇宙の空。
空も床も足場もなんにもない。
ここでパニックになる人も多いんだけど……言ってみれば、エトランゼの中で漂ってるのと大して変わらない。
違いがあるとすれば、床と天井があるかないか?
猫耳メイド服のまま、宇宙空間をふよふよと浮かぶユリを見て、皆も思わずと言った感じで顔を見合わせる。
「さすが、ユリコさんね……平然としてますのね。じゃあ、次は部長のわたくしが参りますわ……ユリコさん、イザって時はお願いします」
「お任せなのですよー」
無重力環境適応訓練を先にやっておいたのは、やっぱり正解だったのです。
宇宙空間でパニックになった人を救助すると言っても、相手が無重力環境下に適応してるかどうかで全然違うのですよ。
意を決したようにエリー先輩がこわごわと言った調子で、一歩踏み出そうとする。
足元に広がる星空を見て、引きつった顔をしてるけど、思い切って床をゆっくりと蹴って最初の一歩を踏み出す……。
余計な動きもしないで、身体の力も抜いて、そのままゆっくりと漂ってる。
軽く手を取って、隣に並ぶと一安心したように微笑んでくれる。
「ふふっ、さっきの空中に浮いてるときと一緒と思えば、そこまで怖くないですわね……。文字通り地に足が付いてないってのは、さすがに落ち着かないですけど……」
そう言って、ハッチから離れた場所でゆっくりと身体を回転させて、振り返りながら定位。
うん、姿勢制御ユニットの扱いや動作も問題ないっぽい。
慌てず騒がす冷静に……宇宙空間での基本なのです。
「まぁ、確かにそうやね……。訓練どおりやれば、大丈夫……心配すんなて……」
アヤメさんも大丈夫そう。
すいっと飛び出して、エリー部長の隣まで来ると同じ様に軽々と半回転。
「どや? しっかし、ホントに星空に囲まれてる感じやなぁ……。一年達もはよ来てみぃ……まさに絶景やで!」
「うひゃーっ! 足元がない上に、周り一面星空しか見えないとか怖すぎるっ! ……でも、落ちたりはしないんだよね。ううっ、落ち着かなーいっ! マ、マリネ……手繋いでいいかな? 一緒に……行こうよっ!」
「そ、そうだよね……。なんか、お腹がヒュンってした。今のっていわゆるタマヒュンってヤツ? リオっち引っ張ったり、あんまり強く握ったりしないでね。い、いくわよっ!」
リオさんとマリネさんが手をつないで思い切ったようにジャンプして、外に飛び出してくる。
ちょっと勢いが付きすぎてたようなので、手を伸ばして捕まえると、軽くガスを吹かして、ブレーキを掛けてあげる。
「ユリちゃん、ありがとっ! 愛してるーっ!」
マリネさん、そのまま抱きついてくる。
手をつないだままのリオちゃんも一緒になんだか、三人密着状態。
「ご、ごめんだよーっ! ちょっと飛び出す時、力みすぎたかも! って言うかむちゃくちゃ怖いーっ!」
「慣れないうちは、あまり周りを見ないほうがいいのです。なるべくエトランゼを視界に入れるようにして、基準点を持つ……そうしないと簡単に空間識失調に陥いっちゃうのです。ところでタマヒュンってなんなのです?」
「……まぁ……女子には解らん感覚やと思うでー」
そう言って、アヤメさんが妙にニヤニヤしてる。
マリネさんがなんだか、生暖かい目で見てる……ど、どんな感覚なんだろ?
ユリも知ってる感覚だと思うんだけど、女子には解らないって……どういうこと?
最後に冴さん……さすがにためらってる様子で、足元を見て泣きそうな顔になってる。
「お手伝いするのですよ。一緒に行くのですー!」
入り口に戻って、冴さんの腰に手を回して、一緒に外に飛び出す。
「こ、これは……! うわぁ……本気で遮るものがない……星空っ! み、皆凄いわね……。でも、まずは落ち着く……。慌てて動くと大変なことになる……落ち着け、私っ!」
「冴さん、解ってるのですよ。宇宙じゃ、常に冷静で居ることが大事、大事なのです」
そう言って、微笑みかける。
「そ、そうね……。けど、すごい景色よね……これが宇宙……!」
見渡すと皆、めいめいにリラックスした様子でそれぞれに周囲に広がる宇宙の空を眺めている。
360度、遮るもののない宇宙空間遊泳。
もっとも、環境保護シールドは短時間ながらも真空中でも生存可能なフィールドを形成するから、エトランゼから離れなければ問題ないってのは、解ってるのですよ。
今のところ、エトランゼから20mくらいの範囲がフィールド圏内。
そもそも、ワイヤーが圏外まで伸びないようになってるから、この時点で安全性も十分。
万が一、環境保護シールドが消失しても皆の制服はパーソナル環境シールドがあるから、大丈夫。
マリネさんも簡易型ながらもライフジャケットを着てもらってるから、問題ない。
ユリは……制服じゃなくて、メイド服なんだけど。
元々、ユリは何もなくても循環系を閉鎖モードにすれば、自前で酸素合成することで、息止めてても普通に動ける。
その気になれば、手足にスラスターくらい合成できるから、生身で宇宙も全然平気なのです。
この宇宙遊泳で一番問題になるのは、むしろ対象者がパニックを起こすこと。
実は、宇宙空間での死亡事故の原因の半分くらいがそれ。
非常事態に際して、安全装備を使いこなせかったり、ミスオペレーション、操作ミスとか、判断ミスってのがほとんど。
ハードウェア的な要因での事故なんて、実は全くと言っていいほど起きてない。
エルトラン達AIが自信たっぷりなのは、自分達が原因で事故が起きる可能性が殆どないからなのですよ……。
だからこそ、外に出る前には予め鎮静剤を投与したり、非常時対応として無針注射とかで鎮静剤を投与して対応するケースも有る。
ホントは、その辺の保険として事前にナノマシン投与とかも考えてたんだけど。
皆、思った以上に無重力環境に適応できてるみたいだったから、敢えて実施はしなかったのです。
やっぱり、そう言うのって野暮だし、鎮静剤と言っても、アレって要するに麻薬の一種なのです。
害は殆どないし、習慣性もないんだけど、ああ言うのって他に選択肢がない時用だと思うし、未成年に気軽に使っちゃ駄目だと思うのですよ。
けど、宇宙……それも宇宙服とかゴツいのなしで、生身でそのまま出れるとか。
エルトランさらっとやってるけど、これって結構、高度なんだけどなぁ……。
不可視ナノマシンフィールドで、艦体全部を丸ごと包むなんて、軍用艦でもやらないし、民間船での宇宙遊泳体験なんかだと、もっと簡単な使い捨てのデッカイ風船みたいなのを使って行うのが普通。
記録によるとハセガワ先輩達は、スペーススーツに馴染めなかったらしく、もっとお手軽な方法はないのかってなって、エルトランが提案し、エトランゼに実装したらしい。
さすがにユリもこんな方法での宇宙遊泳は初めて……。
一応、非常用の一時凌ぎとしての装備って事で知識はあるものの……生身で宇宙に出るって発想は、宇宙空間に馴染み深い者には絶対に出ない発想だと思う。
でも、悪くない……この感覚にも馴染みがある。
全感覚同期で、航宙艦と一体化した時の感覚にそっくり。
両手と両足を大きく広げて、宇宙を仰ぐ……。
目を瞑ると感じるのは浮遊感だけ。
いつまでもこうしていたい……そんな風にも思えてくる。
ストック切れたので、当面隔日更新の予定です。
すまへんのー。




