第6話 打倒・光源氏作戦その1 カンニング
190212:第6話が長すぎたので分割し、第6話、第7話としました。第7話に附け加えた部分がありますが、読まなくとも多分問題ありません。勝手なことをしてまことに申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
◇一宮:四歳 二宮(後の光源氏):一歳 九月上旬
さて、あれから10日ぐらいたった。
この時代の結婚制度は、まず通い婚といって、妻の家に婿が通う形式をとっていた。その後、生活基盤ができたり、子どもが生まれたりすると、夫方、あるいは妻方に同居したりすることもあった。
もちろん、それは正妻の場合で、第二夫人以下はずーっと通い婚、ってことも多かった。
そういうわけで、お爺の長男春継は正妻の家に同居しており、正妻との間に産まれた嫡男である千寿も、そこに住んでいる。
けどお爺は私が千寿と仲良くなったのを見て、これはいい、と思ったらしい。
この自宅―二条烏丸殿の一角に千寿の部屋を作り、2、3日おきに連れてきて、何日か泊まらせて帰す、みたいな感じにしてくれた。
私と千寿にとっては、すごく都合がよかった。
何せこれからのことについて話さなければならなかったし、古文の基本を千寿に仕込まなければならなかったからだ。
なんせ千寿ときたら古文の知識が中学生以下だ。このままじゃ、貴族官僚としてやっていけない。それ以前の重要な問題もあるんだが、現代人である千寿の場合は、まずは古文をしっかり頭に叩き込んでおかないとだめだ。
そういうわけで、今日も今日とて私は千寿に古文を仕込んでいた。
「だからさ、“さまざまをかしきことをつくして住み給ひける”でしょ。“給ひける”だから……」
「えー、“様々な風雅なことを”……つくしてだから、“風雅なことの限りを尽くして住んでいらっしゃった”」
「そうれでよし」
私はタブレットの電子書籍の中から、古文の参考書(大学受験用)を開いて千寿と問答を繰り返していた。
床上げからだいぶたって、もう庭で遊んでいい許可が出ていた。なので、私たちは池の魚を見るふりをしながら、こうやって隆明先生の青空古文教室を開いてるって訳だ。
千寿は有名な国立大の農学部を出ているだけあって、物覚えは悪くない。むしろ、何で結構できるのに古文で赤点取っちゃったの?と聞きたくなるぐらいには、よい。
古文の先生のよっぽど教え方悪かったか、よっぽど嫌な奴だったんだろうか。
ま、いいや。だいぶ進んだし、今日はこれくらいにしておこう。
「じゃ、今日はここまでだね」
「ありがとうございました、せんせー」
千寿はぺこりと頭を下げた。
「いえいえ。わかんないところはない?」
「平気。宮様教え方うまいから、助かってる」
ならいいんだけど。
あの日から千寿は、けっこう積極的に協力してくれてる。
本人もよくわかってるんだよね。
なんだかんだ言って、平安時代に転生してしまったからには平安時代人として生きるしかないし、私=第一皇子とは一蓮托生だって。
それに、同じ境遇の人間同士しか話せないこともあるし、何か教わるにしろ、21世紀の時代をよく知っている私から解説してもらった方がわかりやすいし。
あと私のタブレットで動画見たいっぽいんだよな。ネット通じてるしアカウントも残ってるから、アニメとかまだ見られるんだよね。
現金な奴め。
「それにしても、何でこう話し言葉と書き言葉が違うんだよ。一緒でいいじゃん」
千寿は足元の平べったい小石を拾うと、そのまま池に向かって投げた。
子供の力なので大した距離は飛ばなかったけど、4回も跳ねた。すごいな、私あんなに跳ねたことない。
話し言葉と書き言葉、つまり口語と文語だ。
日本は明治時代の言文一致運動によって、口語体が書き言葉とされるようになるまで、話す言葉と文章として残す言葉がかけ離れている状態にあった。
「ま、言葉が通じる都合のいい世界なだけいいと思うけどね」
「言葉が通じる都合のいい世界?源氏物語の舞台は平安時代とはいえ日本なんだから、言葉が通じるの葉当たり前だろ」
千寿が不思議そうに首をかしげた。そうだよね、そう思っちゃうよな。でもなー、ちがうんだなー。
「この時代―だいたい10~11世紀の紫式部が生きていたころの日本語は、中古日本語っていうんだけど」
私も千寿に続き、足元の石を拾って投げた。一回しか跳ねなかった。
「この時代の貴族の口語―話し言葉が元になって後の文語体―いわゆる書き言葉が形成されたんだよね」
「へえ」
「で、この時代の貴族の口語が元になって後の文語体になったってことはさ」
そう、ここ重要である。
「この時代の日本人は、枕草子とか源氏物語とかみたいなものに近いしゃべり方をしてたと推測されてるのよ。口語と文語の乖離が始まったのは、平安末期ごろからとされているから」
「げッ」
正確には、源氏物語が書かれたあたりの時代からすでに始まっていたらしい。けど、それは21世紀の文章として書く言葉と口で話す言葉程度の些細な違いしかなかったようだ。だから、言語学者でもない私たちはそれほど気にしなくていいだろう。
「だから、ここが本当に原典バリバリの源氏物語世界だったら、現代人と現地人がふつーに会話できるわけないってこと。発音なんかも全然違ってただろうし」
「都合のいい世界って言った意味がよーくわかった……」
「だから私、ここが源氏物語の世界だってわかる前は、タイムトリップじゃなくて平安風異世界に来たんじゃないかと思ったのよ」
母上や女房達の化粧とか、女房達が膝で移動してないとか、割と気軽に御簾の外に出ているとか、他にも理由はあったけど。
「宮様すごい……」
「まあねー、これが仕事だったからね」
「さすが考古学者」
そんなことを千寿と話していたら、乳母の兵衛が私たちを呼びにやってきた。
「一宮様、千寿君」
「どうしたの、兵衛」
「女御様がお呼びでございます」
「母上が?わかった」
私達は水切りを中止し、寝殿に戻った。
「母上、およびでしょうか」
「一宮」
母上の向かいに二人で座って尋ねると、
「大学助がそなたの見舞いに来たようじゃ」
と告げられた。
大学助?官僚養成機関である大学寮の次官が、何で私のお見舞いに?
不思議に思って母を見ると、よくわからんが歓迎モードだ。
親しかったのかな?千寿と顔を見合わせてみるけど、心当たりはないっぽい。
「大学助殿が?」
とりあえず話を合わせておく。えーと、誰、誰だ?
こういう時、記憶が飛び飛びだと本当困るわ。
思い出すのに時間がかかるし、思い出せないことも多いし……。今のところ何とかなってるけど、どうしようもなくなったら「疱瘡の後遺症」で押し通すしかないな。
えーっと……。
「うむ。少し前から見舞いたいという話があったのじゃがな。やはりそなたの体を考えて、今日と相成ったわけじゃ」
「そうですか。ぼくも、手習いのことが気にかかっていたので、ちょうどよかったです」
「そうじゃな……式部、簀子に通せ」
あっぶねー、間に合ったわ……、どうにか思い出せた。
どうにかなんないかな、何もないうちに人とか出来事とか思いだして、タブレットに記憶でもしておいた方がいいのか?
「誰?」
「私の手習いの師匠」
こっそりと尋ねてきた千寿に、大学助の素性を話す。
正六位下大学助、名を大江頼臣という。官僚養成機関である大学寮の次官であると同時に、有名な書の大家で、右大臣の要請で私の手習いの師をしてくれている。
「そんな人に数え4歳児の教師させるって、どうなのじいちゃん……」
「お給金はたんまり払ってるだろうし、いいんじゃない?」
「そういうもん……?」
私と千寿がこそこそと話している間に、大学助を迎える準備は終わっていた。
すでに上げられていた御簾が下され、母と私の前に几帳がでんとおかれている。
そして、対応のためだろうか、式部が御簾から出て、簀子に座っていた。
それから間もなく、一人のオジサンがやってきて、簀子の上に敷かれた円座(植物の茎を丸く編んで作った座布団みたいなもん)の上に座る。
歳よりも老けて見え、髪も灰色で薄くなっている。糸目のやせ形で背も低く、決して美男子ではない。けど、その清潔感のある優しげな風貌には、好感が持てる。
目だたないが生徒想いの古文教師、といった感じだろうか。
「一宮様におかれましては、疱瘡より御快癒されたとのこと。心よりお喜び申し上げます」
大学助大江頼臣は、御簾の内の私と母に向かって、頭を下げた。
「ありがとう、大学助。幸い、痘痕が残ることも、失明することもなく治りました」
母が式部に伝えた言葉を、式部が大学助に伝える。
面倒くさいけど、これが平安時代の特に親しくない男女の会話なんだよな。
「それはよろしゅうございました」
御簾の向こうで、大学助がほっと息を吐いた。
「痘痕はともかく、失明ともなれば……幼い一宮様には、酷でございますから……」
天然痘の後遺症は、痘痕の他に失明がある。
前にも書いたが、戦国武将伊達政宗は、天然痘により右目の光を失っている。しかしながら、片目ですめばまだよいほうだったらしい。
一説によると、種痘が普及していない時代の日本では、後天的な失明者の大部分が天然痘を原因とするものであったとか。16世紀にやってきた宣教師ルイス・フロイスも、日本人に失明者が多いことに注目している。
あ、そうだ。せっかく家庭教師の先生がいることだし。
「母上、せっかく大学助が来てくれたので、少しでも手習いをしたいのですが」
私は母に、そう願い出た。
そして、後ろで静かに座っている千寿をちらりと見、
「千寿も一緒に」
と付け加えた。
完全に油断していた千寿は自分を指差し、俺!?と口ぱくしている。
急にこんなこと言いだしたのは悪いと思っているけど、これなら源氏より一歩先んじることができる。
「手習いをかや?」
母上はきょとん、と目を見開いた。ネコ目が大きくなって、ちょっとかわいい。
「はい。もちろん、大学助の時間があればですが……」
私はお行儀よくそう付け加えた。今日が無理なら別の日でもいいけど……。
実は一宮くん、病気にかかる前に、手習いを始めたばっかりで、まだ2回ぐらいしかやってなかったはずなんだよね。
「もう外で遊べるぐらい元気にりましたし、手習いを少しやるぐらいならば問題ありません」
私がそう伝えると、母上はちょっと悩んで中務と兵衛を見た。
「手習い程度ならば、よろしいのではないでしょうか?」
中務は私の顔色を見て頷くと、そう助け舟を出してくる。したら、母も了承してくれた。
「そうじゃな……うむ、それがよい。やる気があるのは良いことじゃ」
息子が自分から「勉強する!」といいだしたことが嬉しいらしい。母は式部に向かって、今日手習いをしてもらえるかどうか尋ねるように命じた。
すると、大学助は手を打って喜んだ。
「おお、願ってもない事。本日は非番でございますゆえ、是非に」
うん、弟子がやる気出してくれればうれしいよね。
と、いうわけで、私は千寿と一緒に御簾から出、大学助の前にちょこんと座り、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
「お任せあれ」
そんなやり取りを微笑ましく見守りながら、兵衛たちが文机(普通の机)と紙を持ってやってきた。御簾の一部があげられ、庇に文机が並べられる。無論、母は几帳の奥だ。
中務は硯箱(文房具入れ)から硯を取り出して、墨を磨っている。
「急にどうしたんだよ、宮様……」
手習いの準備が進んでいくのを見ながら、千寿が尋ねてきた。そらそうだよね、打ち合わせなしだったもんね。ごめん。
「千寿、手習いはじめた?」
「いや、まだ」
「そっか」
私は“計画”を考えていたときに思い出したことを話した。
「どうにか源氏の野郎に対抗できる力をつけなきゃ……って、なってたよね」
「うん」
「でも、俺らじゃよっぽど努力するか運に恵まれない限り、平安貴族の教養で戦うのは無理だって、ことになってたじゃん」
「うん……でも、これなら大丈夫だ」
「これなら大丈夫?」
つまり、まず一つ。一部でもいいので、源氏に匹敵する能力を見せつけておくこと。
もう一つは、源氏が赤ん坊のうちに私の評価をあげておくこと。
源氏が成長してくると、一宮くんは軽んじられるようになる。
それを防ぐには、多少ズルをしてでも、一宮は源氏に負けない部分を持っている、ということを見せることだ。それも、源氏が行動できない赤ん坊のうちに。
いかに源氏であろうとも、数え4歳で漢文まで読めるようになることはないだろう。
「読み書きなら私でも優位に立てる。」
「そっか、宮様読み書きできるし、漢文も読めるんだよな。確か源氏が漢文習うのは、7歳の時だっけ?」
「そう。でも、私は今数え4歳。そんな子供が、たった数回の手習いで読み書きが完璧にできるようになったりしたら……」
私は千寿にしか見えないように、祈るように両手を組み、目をキラキラ輝かせる。千寿はぎょっとして後ずさった。
そして、周りに聞こえないような小声で小芝居を始める。
「光君、こんなに小さいのにもう漢文の読み書きができるなんて!この方が次の帝だったらいいのに……」
次、手の甲を口元に当て、できるだけ高飛車な表情をする。
モデルは母上、気分はラノベの悪役令嬢だ。
「何をいっておるのじゃ。わらわの子、一宮は4つの時にはもう読めていたぞえ。ホーホホホホホ!…………ということができるわけだ」
小芝居モードから急に真顔になった私に、千寿がドン引きしている。
失礼な奴だな、これから起こる衝撃と苦労をできるだけやわらげてあげようという隆明先生の師心がわからんのか。
千寿は私の奇行が周囲にばれていないことを確認すると、コホンと咳払いした。
「なるほど。小芝居はともかく言ってることはわかる」
そういうことだ。
すると、
「それなら俺も……字は下手だけど書けるし、漢文は無理だけどひらがななら……」
と少し期待した顔をした。
たしかに、私の最側近候補である千寿の評価が高いことは、私にとってはプラスになる。
けどな、問題があるんだなー。時間をかければどうにかなるけど、モノになったころには源氏が追いついてきそうだしなー。
「いや、千寿は難しいと思う」
私がきっぱり答えると、千寿は不満そうに眉をひそめた。
「なんでだよ」
「何でかって?それはだな……」
と話し始めた途端、中務が「用意できましたよ」と声をかけてくれた。
私は千寿に、「論より証拠」と囁くと、用意を整えてくれた文机に座った。千寿もそれに続く。
「では……千寿君は初めての手習いということですので、難波津よりまいりましょう」
「はい」
今日の手習いは急に始まったものなので、教本が用意されていない。
とのことで、大学助自らお手本を書いてくれるらしい。
大学の助は、
「では……難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花……」
といって筆をとった。
私は博士が歌を書き始める前に筆を執り、目の前の紙に手本の歌を書きつけた。もちろん、仮名文字で。
なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
「えッ」
大学助が、糸目をかっと見開いた。