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源氏“裏側”物語 もしくはいずれの帝の御時にか光源氏の兄になってしまった不運な公僕の顛末記  作者: 松本紗和子
第一章:桐壺 もしくは主人公の水面下でバタバタする白鳥の足の如き裏側の活躍
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第20話 ご覧の平安京はフィクションです ※お食事中の御方は読まないことを推奨いたします

作品の流れ上大変汚い表現が数多く含まれております。

お食事中の方は読まないことを推奨いたします。

◇一宮/隆明親王:五歳  二宮/(後の光源氏):二歳  6月中旬

平安京


 春宮様との会談の翌日の早朝。

 本日、可愛い息子が春宮様に褒められて鼻高々~な我が母上こと弘徽殿女御は、管弦の宴を開くらしい。まさに平安宮中絵巻のワンシーンである。

 でも私は参加しない。なぜなら千寿と周子ちゃんと一緒に、母上の実家二条烏丸殿に帰るからだ。音楽がじゃんじゃんなってる局で子供が寝られるわけがないからね。

 それに、母系親族が強い平安時代。たとえ帝の御子であっても、妃の実家で養育されるのが普通だった。宮中に参内し、父帝に拝謁するのは、結構大きくなってからだったりする。

 源氏のような宮中育ちは例外であるし、私みたいに宮中と母の実家をホイホイ往復するのは、もっと例外なのだ。この世界がなんちゃって平安時代であるおかげで、「ほーん」ぐらいで済まされているっぽいけど。

 さて、そんな私たちだが、牛車に乗って二条大路を一路、二条烏丸殿絵向かって走っている。牛車は4人乗りなので、私と千寿、中務、兵衛で一台。周子ちゃん+その乳母チームは別乗りだ。

 そう、牛車。

 平安時代ものに必ず出てくるお乗り物、貴族ご用達、牛車。

 私たちが乗っているのは、檳榔毛車(びろうげのくるま)という、檳榔というヤシの仲間の木の葉を白くさらして裂き、それで葺いた上品な牛車だ。

 上皇や親王、公卿など、身分の高い人が乗る用の牛車である。一番豪華な奴じゃないけどね。

 さて、そんな高級なお牛車でも、避けて通れない存在。それこそが―


「……酔ったかも」

「大丈夫?」


 私と千寿は、額を突き合わせてぼそぼそ話し合った。

 ずーんという頭痛、ひんやりする指先、胃の奥からせりあがってくる吐き気。牛車に乗るたびにやってくるこの不快感は。

 そう、車酔いである。

 21世紀令和の世の諸君は、「牛車って平安貴族がゆったり乗ってる感じだよな~MIYABI~」とかふんわり思ってないか?思ってるでしょ? 

 実際はな、道路は舗装されてないからデコボコだし、車輪は木製な上にサスペンションなんて高級なものはついてないから揺れる揺れる。

 現代日本人どころか、当の平安時代人でさえ乗り物酔いに苦しんだという記述が残っているぐらい、ゆったりもクソもない。最ッッッッ悪な乗り心地の乗り物なのだ。

 前世時代から乗り物に弱い私はすでに酔っ払いモード。千寿君は私よりまだましっぽいけど、それでも顔がちょっと青白い。中務達はなんで平然としてるの?何なの?チタン製の三半規管なの?

 とか思っていたら、外が何やら騒がしくなり、ぎいいいい、と耳障りな音を立てて牛車が止まった。二条烏丸殿まで、あと何百メートルもないのに、なんで止まるんだ?


「何事でございましょう?」

「さあ……」


 中務達が不安そうに顔を見合わせてた。

 外の様子をうかがうと、牛車のすぐそばを馬で付き添っていた忠克と、他の騎馬の随身が何か話してる。あ、もう一人騎馬が戻ってきた。牛飼い童たちもそわそわしてる。


「どうしたんだろう?」

「さあ……」


 覗きたいけどなー、御簾を上げると中務怒るんだよね。「皇子(みこ)のなさることではありません!」ってさ。

 なので、千寿と顔を突き合わせて御簾の中から様子をうかがうしかない。

 すると、忠克が馬を降りて私たちのところにやってきて、片膝をついた。何か報告があるらしい。


 御簾の中から尋ねると、忠克は申し訳なさそうに言った。


(むくろ)がございます」

「え……躯?」


 なんですと?躯?ってことは死体?

 ここは二条大路。周辺は貴族たちの邸宅が並ぶ、平安京きっての高級住宅街だ。

 そこに死体?

 ……犬とかだよね?


「人の躯でござい―」

「左馬少允殿!」


 中務が声を上げて忠克の報告を遮った。そして、真っ青な顔で私と千寿をさっと抱き寄せ、死体のある方向―前方からやってくる死の穢れから私たちをかばうように、その腕の中に隠した。


(いとけな)い一宮様方にそのような恐ろしいことをお伝え申し上げるなど……!」

「申し訳ござらぬ、中務乳母殿」


 中務の叱責に対し、忠克は素直に頭を下げた。

 そうだよね。私も千寿もまだ10歳にもなってない子供だ。そんな私たちに「死体」の報告はちょっとアレだろう。

 しかし人の死体か……何?白昼堂々殺人事件でもあったか?でもなあ、ここ平安京だから、捨てられた死体ってこともあるんだよな。

 医療保険もなければ社会保障もない平安時代。疫病や飢饉が発生すると、平安京は死体だらけになった。

埋葬なんて手がかかることも行われない。貧民の死体は、空き地や河原で放置された。

 平安王朝時代の貴族たちは、命の誕生や消滅によって生じる「穢れ」に触れることを何よりも恐れた。貴族は清浄を保たねばならなかった。皇族はもっと、帝はなおさらそうだった。だから、年老いて死にそうになった使用人を邸宅から追い出し、野垂れ児を強要することも多かった。

 ……一見華やかなこの時代、死も穢れも現代以上に身近だった。多くの人々の命は塵芥のように軽かった。生命力の弱い老人や子供たちから死んでいったのだろう。

 そのご遺体がどんな理由でそこにあったのか。忠克に聞けば応えてくれるだろうけど。

 ……。

 やめとこう。

 養君(やしないぎみ)(乳母が養う子のこと)を想う乳母としての中務の行動を、無駄にすることになる。そんなことはしたくない。

 中務は御簾の外の忠克を睨みつけるように目を細めると、小さく息を吐いて告げた。


「ここは通れませぬな、左馬少允殿」

「ええ」


 忠克も同意する。

 私も同意。ご遺体の主には申し訳ないけど、私は皇族で、しかも子供だ。弱いとされている存在である以上、穢れに触れるわけにはいかない。ここは中務の判断に従っておいたほうがいい。

 

「迂回いたします。一宮様、千寿君。申し訳ございませぬが、もうしばらくご辛抱いただけませぬか」


 私が牛車に弱いということを知っている忠克が申し訳なさそうに言う。

 辛抱しますとも。しゃあないもんね。

 私は中務の腕から顔を出して忠克に伝える。


「仕方ないね。じゃあ忠克―」

「待って宮様」


 すると、今まで黙っていた千寿がおずおずと手を挙げた。

 なんだろ。急にどうしたのかな?トイレかな?

 千寿は中務と兵衛をちらと見ると、意を決したように言う。


「あのさ、街の中を少しでも見物することってできないかな」

「街中を?」


 街中―平安京の様子ってことか?

 よくわかっていない私たちに、千寿は説明する。


「だって俺ら、民の様子を調べさせてはいるけど、実際見たことはないだろ」

「確かに……」

「だから、この機会にいわゆる一般庶民が集まる場所に行って、ちらっとでもその暮らしぶりを見てみたいなって思ったわけ」


 民衆の様子かぁ……。

 平安時代の民衆の生活がどうだったのか。知識はある。忠克たちが調べてくれた生のデータもある。

 けど、実際に見たことはない。

 子どもな上に、私は皇族、千寿は貴族のボンボンだ。ホイホイと外出することはできない。もう少し成長したらお忍びとかできそうだけど。


「ほら、庶民の家とか、どうやって暮らしを成り立たせているのか、何をどうやって売り買いしているのかとかも見てみたいし……」

「なるほどね……」


 確かになー。庶民の暮らしや経済活動なんかも気になる。なんかこう、牛車から物売りを呼び止めて買い物とかちょっと憧れるよね~。

 千寿の言う通り、絶対反対する母上がいない今、社会見学ってのも悪くないかも……。


「とんでもないことでございます!」


 と思ってたらここにいたわ反対する人達。


「危のうございます!一宮様の尊い御身に何かございましたら……」


 反対する人その1、兵衛が真っ青をして首を振る。まあ気持ちはわかる。

 けどなー、警備に関しては全く心配ないんだよなー、というわけで、私は兵衛の不安を一蹴した。


「大丈夫だよ、兵衛」


 私は牛車の外にいる忠克を指さした。


「僕たちを守っているのは忠克とその配下だ。その辺の賊なんか相手にならないよ」


 私が言うと、忠克はにやりと笑った。うーん、男くさい顔によく似合うぜその表情。女の体だったら惚れてたかもしれん。


「ご心配召されますな、乳母殿。賊であろうが鬼であろうが、一宮様の御体には傷一つ付けさせませぬ」


 私の警備は、忠克氏と彼が実家から呼び寄せたむくつけき武者の皆さんが行っている。もちろん、車副(くるまぞい)と呼ばれる14人の威儀の人たちもそうだ。見た目はただのお供、中身は屈強マッチョな坂東武者だ。

 私は忠克の部下、すなわちSPさんや警備員さんの選抜は、全部警備局長忠克氏に丸投げした。一応、お爺に相談するように伝えた。

 したら忠克氏、自らが選抜した実家の家子(いえのこ)郎従(ろうじゅう)(一族郎党と似たような意味)を大勢実家から呼び寄せやがった。

 事情を聴いたら、「私をこれほどまでに評価し、信用してくださっている(丸投げしただけなんだけど)一宮様のために、私が知る最高の人員を呼び寄せました!」ってことらしい。

 よく知らない京の有象無象連中を募集するより、自分の指揮下で賊退治に精を出していた信用できる剛の者を呼び寄せることを選んだようだ。

 おいおいおいおい、確かに権限は与えたけどこんないっぱい……いやいいんだけど……御爺に相談したんか?つかみんな熊みたいな奴ばっかだな……。

 ダメでしたか?とか言われてももう来ちゃってるんだもんしょうがない。私は「ただかつがえらんだならきっとすごいひとたちなんだね」とにっこり笑い、あとのことは全部御爺に丸投げした。

 ちなみにその時の御爺の顔は引きつっていたことを報告しておく。まる。


「左様ではございますが……」


 忠克の強さは兵衛も知っているはずなんだけど……ま、乳母としては、有象無象が闊歩する京の場末なんかに、皇族を置きたくないんだろうな。何かあったら責任問題になるしね。


「大丈夫。そんな遠くまではいかないよ。五条あたりで引き返すから」


 この時代、一条から三条あたりまでがいわゆる上級貴族が住むエリアだった。五条あたりになると格が落ちて中・下級貴族の邸宅がメインとなり、庶民の家も混じっていたという。六条まで行くと荒地も多かったらしい。それでも左京は、六条御息所邸や藤原師輔の九条殿のように、貴族の邸宅が構えられることもあった。

 源氏物語でも、五条にある夕顔の仮住まいを訪れた際、庶民の暮らしの一端を耳にしている。

 ま、中級下級とはいえ貴族の住宅もあるし、日中だし、庶民が多いっつっても私が傷つくこと―襲撃を受けるということはいくら平安時代でもないだろう。

 けど、それでも兵衛は顔を青ざめさせたままだ。

 どんだけビビりだよ兵衛……。


「しかし……」

「怖かったら兵衛たちは戻っていてればいいんじゃ……」

「一宮様の御傍を離れるなど……」


 不安そうな兵衛に、千寿が戻ることを勧める。けど、さすが乳母に選ばれるだけあってさすがの忠誠心。兵衛は一人で帰るという選択を拒否した。

 すると今まで黙っていた中務が、静かに言った。


「……ようございます、向かいましょう」


 中務が言った。静かな声だった。

 驚きである。反対しそうな人からOK出たんだもん。びっくりして中務の顔をじーっと見てしまった。千寿もだ。


「中務……」


 中務は私と千寿に対し何か言いたげだったが、それを飲み込むように一度目を瞑り、そして私たちを交互に見た。何かを決意したような眼差しだ。


「中務乳母……」

「兵衛殿……一宮様と千寿君は清道公のご薫陶をお受けになっている方々。私たちにはわからぬお考えがあるのです」


 過大評価もいいところだけど、ナイス解釈中務!

 しかし、ひいおじいちゃん万能すぎる……名前を出せばどうにでもなる気がするわ。


「私は一宮様の乳母。一宮様をお守りし、立派な親王(みこ)へとお育ちあそばすのをお助け申し上げるのが役目。なれば一宮様の御望みはできる限り叶えねばなりませぬ」

「しかし、下賤の者たちが住まう場所に一宮様をお近づけするなど……」


 なおも言い募ろうとする兵衛を、中務が手で制する。


「一宮様と千寿君がお決めになられたことです」

「中務乳母……」


 中務はじっと兵衛を見た。

 私たちは譲らないだろうし、上司である中務が賛成した以上、どれほど反対しても覆らないと思ったんだろう。

 兵衛が青い顔で中務の名を呟き、そして深くため息をついて項垂れた。それでも帰るとは言わないあたり、さすが皇族の乳母というべきか。


「一宮様は帝の御子。いずれは……」


 いずれは……帝になる御方ということだろうか?でも、春宮篤親親王がいる以上、それは危ない発言だ。中務は続きを言わず、軽く首を振って、


「……いえ。なんにせよ、民の様子を知っておくのは悪いことではないでしょう」

「……」


 中務が何を言いたかったのかはわからない。

 有力な貴族をバックに持つ女御腹の第一皇子。その乳母として、奇怪な養君の願いに何か(・・)かを感じたのかもしれない。

 けど今のところ、私には中務が言いたいことがわからないので、答えようもないので、いったん保留である。

 さて、お出かけをすることにはなったが、貴人が使う檳榔毛車(びろうげのくるま)はさすがに目立つので、一回二条烏丸殿に行ってあんまり目立たない車に取り換えてくることになった。

 ……車が迂回する直前、私はご遺体がある方向に軽く手を合わせた。どうにもできなくてごめんなさい。そんな気持ちを込めて。見ると、千寿も同じことをしている。

 私と千寿は顔を見合わせ、息を吐いた。 

 この国は、貧しい。



 私たちは周子ちゃんご一行と自宅で別れ、八葉車(はちようのくるま)と呼ばれる貴族が使う日常用の車に乗り超えた。

 そして警護の兵を増やし、おやつをもって街中へと出かけた。

 出かけたんだけど。

 ……わかっちゃいたけど。


「……ねえ宮様、いいのあれ!なあいいの⁉」

「何?」


 “わかっていなかった”千寿が目を白黒させて私の直衣の袖を引っ張り、どこかを指さした。

 人差し指の先には、邸宅と邸宅の間にある細い小路。ちょうど、何人か集まって、しゃがみこんでなんかしてる。そしてその小路のみならず、道のそこかしこや側溝から異臭がプンプン漂っている。

 中務は袖で鼻と口を覆い、思いきり顔をしかめている。で、「汚らわしい……」とか、「これだから下賤の者たちは……」とか話している。土豪の坊ちゃんだった忠克も同様だ。兵衛はそれどころじゃないらしく、青い顔でまだおびえている。なんでや。

 歯が高めの下駄をはき……しゃがみこんで……あー、草紙で見たことあるわー、すげぇ!草紙通りだわ!びっくりー!マジかよー!事情わかってた私も辛いですわ。21世紀人にはすごくキツイ!夏だから暑くて余計にキツイ!


「ちょ、だって、街のど真ん中でウン……」

「ンッンー」


 大貴族の息子がウン……はダメだろ!

 ここは平安貴族らしく汚穢(おえ)とおっしゃい! 


「何を言いたいかはわかる。でもな」


 私は千寿君の肩をぽんとたたき、親指で“うわぁな光景”を指した。


()って、どこの国もこんなもんだから」


 西洋諸国では「Gardy loo‼」でブツ(・・)がふってくるのが常識だった。古代ローマは公衆便所があるだけいくらかましだったが、それでもインスラ(古代ローマのマンション)の窓から「中身」を捨てる不届き物は多かったから、やっぱり路上ブツはあったといえる。もっと言えばベルサイユ宮殿は黄金(・・)まみれだった。

 ……私の言いたいこと、わかってくれるよね?


「いや、でも、映画とか……」

「あれはフィクションです。実際はこんなものです」


 私は生暖かい目で「平安時代衛生事情初心者」な千寿君に真実を語ってやった。

 あの美しく華麗な平安の都はフィクションです。作られた「理想の平安京」です。リアルにしたら道のそこかしこにモザイクを入れなければなくなってしまう。

 あ、ちなみに中務達は「私たちがわからない言葉はきっと清道公から教わったんだろうな」と突っ込まずにいてくれる。ありがとうひいじいちゃん。


樋箱(おまる)の中身は側溝にポイ。しかも貴族は邸宅に池とか作るために勝手に側溝を壊すから詰まり放題あふれ放題」

「うそだろ……」

「そして見ての通り、庶民の皆さんは適当な小路で用を足していた。しかもその辺に牛馬の落とし物(・・・・)がある」


 だから疫病がはやるんだよ!

 餓鬼草子で検索すると、路上排便する庶民の様子が描かれたものが出てくるよ!でも、とっても不潔でショッキングな絵がいっぱいだから苦手な人は絶対見ないでね!

 千寿君がうええっとした顔で言う。


「つまりこの都は、非常に……」


 セリフがハモる。


「「かぐわしい」」


 排泄物のかほりでな!

 日本人は清潔好きとされているが、1100年以上前の中古の時代なんてこんなもんである。

 もちろん、帝や貴族は清浄を保たねばならない。ケガレに触れるなんてもってのほかだから、多少は清潔にしてただろう。 

 けど、どんなに頑張っても人間食えば出す生き物だ。そして、平安時代には下水処理場なんぞない。よって、川にでも流すしかないんだが、処理能力には限界があるからやっぱりかほりはする。

 え、肥料にしないの?と思われるかもしれないが、人の排せつ物を肥料とした農法が広まるのは、鎌倉時代ごろからといわれている。よってこの時代糞尿の回収なんてされていないのだ。

 そう考えると江戸時代ってすげぇよな。


「まあ、でも臭いって文明の発展とともに生まれてきたって言われてるから、これ(・・)が日常になってるとみんな気にならないのかもね」

「自分の家の匂いを感じないようなもんか……」


 げっそりした顔で千寿がつぶやいた。

 公衆衛生の概念がない時代なんてこんなもんさ……。みんな大好きイケメンクソ野郎光源氏だって、このかぐわしき(・・・・・)かほりの中女のところに通ってたんだぜ。もしかしたら牛のフン踏んだこととかあったかもしれない。だったらリアルクソ(・・)野郎だな、ハッハー!……はあ。


「宮様方、物売りがおります」


 強烈な光景とスカトール、アンモニアの匂いにうんざりしている私たちに気を使ってくれたらしい。忠克が私たちが見たかったモノ―物売りの存在を教えてくれた。

 笊のようなものを売る者、魚の干物?らしき切り身を売り歩く者など、何人かの物売りが道を歩いていた。人々は彼ら彼女らを呼び止め、買い物を楽しんでいる。

 ショッキングではない庶民たちの姿。貧しくも元気に生きる彼らの生の姿を見れた千寿は、ちょっと微笑んだ。


「あ、ほんとだ……」

「結構いるね」


 魚の切り身で思い出したが、平安末期に成立した今昔物語には、魚の切り身に偽装した蛇の切り身や―汚い話が続いてまことに申し訳ないが―戻したもの(・・・・・)を混ぜ込んだ鮨鮎(すしあゆ)などを売り歩く販婦(ひさめ)―庶民女性たちが登場する。

 平安時代は貨幣経済が廃れており、米や布が貨幣の代わりとなっていたとされる。けど、そういう小口の行商人がいたということは、銭の流通が廃れていたと考えられてきた平安王朝時代においても、平安京の庶民層の人々は銭を使った売り買いをしていたのだろう。閑話休題。


「あれなんだろ?メロンみたい」


 そして千寿の視線の先には、縞模様の野菜が入った籠を頭にのせた若い女がいた。周りには人か群がっている。


「マクワウリじゃない?」

「……うまいかな?」


 マクワウリを食べた亡き一宮君の記憶はあるが……味まで再現はできないからなぁ。美味しかったって感想しかない。


「どうだったっけ……」

「こちらに呼びましょうか?」


 どうこたえようか悩んでいると、忠克がそう尋ねてきた。

 昼近くになって気温も上がっている。

 マクワウリだからメロンほどの甘さはないし、長い間炎天下にあったから多分ぬるい。

 でも、甘味が貴重な平安時代。汁気たっぷりの果肉にかぶりつくのは、さぞ魅力的な行為に違いない。買い食いって行為も含めてね。瓜なら変な偽装もできないだろうし。

 それから、ちょっと話も聞いてみたいし……。千寿と少し話し、私たちは彼女から売りを買い求めることにした。


「そうだなぁ……話も聞きたいし」

「一宮様、いけませんよ」


 瓜の誘惑に揺らぎかけた私に、中務がめっ、と釘を刺した。


「帝の御子ともあろう御方が、下賤な販婦(ひさめ)から物を(あがなう)うなど……ましてやお話をするなど……」

「いや、ちゃんと―」


 取次はするから、言おうとすると、青白い顔の兵衛がぴえええん、みたいな感じで半ば叫ぶように言った。


「左様でございますッ!民の様子はもう十分ご覧になりましたし、()く戻りましょう!」

「ちょ、兵衛……」


 私も千寿も、そして忠克もびっくりである。朝からそうだけど、この子は何でビビってるんだ?この辺で何かあるのか?わけがわからん。

 というか兵衛よ、戻りたいのはわかるけどちょっとうるさいし、自分の要望を通そうとしすぎ。私達だからなんだこいつで済んでるけど、その辺のわがまま貴族の坊ちゃんだったら確実に怒鳴ってるぞ。


「兵衛乳母、一宮様方が京を見聞なさっておられるというのに……なんですかそのように大きな声で、戻ろうなど!」

「しかし、中務乳母……」


 ほーれ上司から怒られた。

 ……でもなあ、この怯えようは尋常じゃない。このまま「だーっとれィ!」っていうのは簡単だけど、あんまりにも可哀そうだわな。

 一応聞いといてやるか。


「兵衛、どうしたの?なんでそんなに怖がってるの?」


 すると、兵衛は青ざめた顔で白状した。


「……鬼が出るのでございます」

「鬼ィ?」


予想外の答えに、変な声が出た。



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