アパートの騒音
平穏だったはずの僕の生活が崩れたのは、僕の部屋の真上に、誰かが引っ越してきてからの事だった。
去年、親元から離れて、アパートで独り暮らしをし始めた。周りにお菓子を持って挨拶に行き、あとはそれなりの開放感で、時には食生活を乱れまくらせた事もある。
如何せん田舎で、周りの景色は自然たっぷりなのは……まぁ、それはいい。夏には藪蚊が大量発生したのも、一人暮らしの開放感に比べれば大した事は無い。
「でも、これは無しでしょ……」
僕は夜中になってもおさまらない、上の怪音に眉を顰める。
上に人が越してきたのは、まだ冬だった頃……もう一カ月も前の事だ。挨拶にも来ないその人を、僕は見た事がない。
最初は引越しの荷ほどきなのだと思って気にしなかった。
だが、日に日に音は大きくなり、ついには眠れない程になってしまったのだ。
トントン、カンカン、パッタンパッタン。
明かに生活音ではない、異質な音。
「今日止まなかったら、明日は文句を言いに行こう」
僕はため息交じりに呟くと、電気を消して、布団に潜った。
その晩、謎の音が止まる事は無かった。
意を決して、階段を上る。
まだ変な音はしていたので、在宅しているのは確実だ。
「……よし」
部屋の間で一度深呼吸をしてから、インターホンを押す。
『はい?』
「あの、下の部屋の者ですけど」
『あー……ちょっと待って下さい』
若い女性の声と思しき物が、インターホンから発せられ、暫し沈黙。
え、これ、出てこないで放置ってことは無いよね?
「すみません、お待たせしちゃって」
僕の心配が杞憂であった事を知らしめるように、扉が開く。
が、僕は驚き、慄いた。な、なんなんだ、これ……。
「えーっと、ご用件は?」
そいつは、落ち着いた声で首をかしげているが、誰がどう見ても可笑しい。
「あの、お、音が……」
僕はなんとか声を絞り出す。
「はぁ……」
挨拶にも来なかったそいつが、まさかこんな姿をしていたなんて。
僕は狼狽えながらも、必死に相手の顔を凝視する。
すなわち、魚の頭を。
身体のラインを極限まで隠した、だふっとした服は、指先まで隠している。いや、身体を隠す前に頭を隠してよ。
黒い頭は、虚ろな目を僕に向けている。口はもう、パクパク動く気配も無い。
よくよくみれば、魚の頭にリボンをつけて、それで頭に固定しているようだ。わ、訳が分からない。
「あの、毎日毎日、困るんですよ」
「えーっと、何の事ですか?」
「騒音です!」
でも今は騒音よりも、この頭が気になって仕方がない。
「騒音、って?」
「毎日毎日、遅くまで、トントンパタパタしてるでしょ?」
魚頭は、不思議そうに首をかしげたが、やがて「ぽん」と手を打つ。
「あぁ、機織り!」
「機織り!?」
何でこの人、アパートで機織りしてるの!? いや、それ以前に、これ、人?
人だったとして、なんでこんな生臭そうなものを被ってるの!?
「と、とにかく、音がうるさくて眠れないんです。も、もう少し、どうにかして下さいよ」
「いやー、すみません、鯉なんで。ちょっと人間界のルールとか疎くて」
まさか、このいい訳をする為に魚の頭を被ったの? というか、鯉だったの? でかくない? 人の頭くらいある鯉の頭って、不気味なんだけど。
僕はドキドキしながらも「あのですね!」と言い聞かせるように話す。
「鯉でも人間界で生活するなら、人間界のルールに則ってもらわないと!」
「はぁ……」
「はぁ、じゃなくて。せめて夜の機織りは23時にして貰えませんか?」
「鯉なんですけど」
「鯉でも人間と共存するために、お願いしますよ」
いや、このいい訳、通用するわけないでしょ……。
「こちらにもこちらの事情があるんですけど」
「……もう、眠れないのは困るんですよ」
その鯉は「人間、こっちの事食べるのに」などとブツクサ文句を言っていたがやがて「仕方がないですね」と歩み寄りを見せた。
「それじゃあ、23時以降は、機織りを中断させますよ」
「お願いします」
こいつが鯉でもなんでもいい。とりあえずは、夜通しの怪音はなくなるようだと安心して、僕は自分の部屋へと戻った。
心なしか、生臭くなった気がする。シャワーでも浴びよう。
***
ようやっと、下の階の男が帰った。
私は大きくため息を吐くと、鯉の頭を頭部につけていたリボンをほどく。
解いたリボン、現れた白。これが私の本当の色だ。
それにしても、昨日食べた鯉の頭、残っていてよかった。
本当は彼に渡したいものがあって、こっそりとここで作業していたのだが、姿がバレてしまっては一大事だった。
そう、私は故意に鯉へと姿を変えていたのだ。
鶴である私の正体は、彼にはバレてはいけない。彼にバレずに、お礼に美しい反物を作って渡さなければ。
そっと機織り機の前に座り直す。早く、美しい反物を仕上げなければ。
冬の日に、罠にかかっていた私――鶴を助けてくれた、一階の彼に渡すために。
しかし騒音となると申し訳ない。屁理屈も通用しなかったし。
私は……夜の作業は23時までにしようと心に決めたのだった。
***
「……うるさい」
僕は目を覚まして、大きくため息を吐いた。
時計の短針は、4を指している。
どうやら朝であると認識し、機織りを再開したらしい。確かに夜通しよりはマシではあるが、これもあんまりではないか。
僕は布団にもぐりこみ、悪あがきで二度寝をしようとする。
「……もう一回言いに行くの、嫌だな」
この生活は一体いつまで続くのか。
機織りの音を聞きながら、僕はもう一度大きなため息を吐いたのであった。