序章
こんな世界はやく抜け出そう。僕は強く心に決めた。あの日から毎日、僕の心は黒ずみ、それは僕の人としての感覚を鈍らせる。僕は何者でもない。同時に何者でもある。すべては僕という自我によって囲まれている。社会だって家族だって、僕以外の人間はすべて僕でもあるのだ。僕はこのどうとでも捉えられる世界の中で一輪の花を見つけ出す。希望という一輪の花は僕の人生の全てを明るく照らし出す。全方向に開かれる大きな道。それを手に入れれば僕は何にだってなれる。自由を手にすることができる。
たった今僕はそれを手に入れた。目の前に広がる真っ赤な花。それは美しい花だった。
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その日の練習はとても気分が乗らなかった。水の中でとにかく僕は自分と闘った。だが素直になれば早くこんな部活やめてしまいたかった。ここ最近はとても憂鬱で学校も正直面倒くさい。高校受験を失敗して僕はとくに入りたくもない、いや入るつもりなど一切なかった高校に入学した。入学当初はなんとなく新しい環境にワクワクしていたのもあり、新しい人とも出会い、なんだか心が高ぶっていた。だが入学してから半年、僕は水泳部に所属してそれなりに、毎日を過ごしていた。とくに可もなく不可もなく毎日がいつものように退屈だった。僕は水の中が好きだった。どこかこの現実世界とは違うどこかに存在する世界。そんな気がして、ずっと水の中にいたいとも思った。
夏には合宿をした。とても練習はキツかったがずっと水の中だし、部活の仲間とは結構仲も良かったので全然苦ではなかった。それは高校一年生の部活での結構楽しかった思い出の一つだ。その夏合宿も終わり、次は我が校の文化祭が待っていた。文化祭はすごく楽しかった。夏合宿でついたパンダのような日焼けはとてもアホみたいで鏡を見るたびにおかしくて笑った。そんな日焼け付きで挑んだ文化祭。僕の学校は男子校だったので唯一とも言ってもいい、そう唯一の女子との接点がもてるスペシャルイベントだったのだ。高校一年生、思春期真っしぐら真っ只中の僕は多少恥ずかしい気持ちを抑えて文化祭に来た女の子をナンパした。教室でジェンガやトランプをしながら他愛もない会話をして、ノリで、連絡先を交換することができた。その子はあまり目立つ程の印象深い顔ではなかったが、とてもおしとやかな印象でなんだか安心するような雰囲気を感じさせる同じ高校一年生の女の子だった。僕はその子以外とも連絡先を交換したが、結局どいつもこいつもなんか違うと文化祭終わりにその子だけを残してブロック削除した。僕はその子と結構のやりとりをした。その子の名前は三島早紀という名前だった。どうやら彼女はもう一人いた友達に誘われて文化祭に来たのだそう。彼女は本当に普通だった。現代ではちょっと珍しい一人っ子で勉強にしても容姿にしてもとくに目立つところはなかった。それが僕にとっての安心でもあった。僕が今度二人で会おうと誘うと、案外簡単にオッケーされてなんか嫌な気分にもなった。その当日僕らは地元では結構大きな駅で待ち合わせをした。そこに僕より少し遅れて来た彼女はとても可愛かった。文化祭のときはあまり目立たなく普通だったのに、今目の前にいる彼女はとても可愛らしい女の子だった。僕は簡単に恋に落ちた。この子を僕のものにしたかった。おそらくその可愛さの原因はその服装であった。彼女にとてもよく似合っている上品で可愛らしい服だった。少し化粧もしているようだったが控えめだった。八月の終わりということもあり少し暑さも感じる日だったので、僕たちは直射日光を避けるかのように駅前の飲食店へはいった。チェーン店でとても料理が安くて常に金欠の学生にはもってこいの場所だ。僕はあまり無駄にお金は使わないので金は結構あったが彼女もどこでもいい大丈夫だと言っていたが、なるべく費用を軽減させようとそこにした。周りにはもちろん、学生が多かった。午前中の部活を終わらせた学生たちや私服でカップルのような男女も見受けられた。僕は人の少ない場所、なるべくうるささを回避できるところを選んで彼女と座った。僕は少しお腹が空いていたので、そんなに食べるつもりはなかったが明太子のパスタを頼んだ。彼女はそれが好物らしく彼女も僕と同じのを頼んだ。食べ比べとかしたかったのに、と心残りはあったがまあ仕方ないと諦めた。僕もそれが好きだったからだ。料理はすぐ来る。それがこの飲食店の特徴だ。彼女は美味しそうにパクパク食べた。可愛かった。あの普通の彼女はどこに言ったのやら。でも僕は普通の女の子じゃなくなった可愛い彼女も好きだった。彼女は急にチャイムを鳴らして醤油を下さいと言った。ん?何に使うんだ?思わず僕はえ?と声に出して言ってしまった。店員がいったあと、彼女は真剣そうな眼差しで「この麺の残り具合とソースのバランスに醤油を4滴いれるとめちゃめちゃ幸せになれるの」と言い放った。それは絶対美味いと僕も一瞬で確信した。僕はもう食べ終わってしまったので残念だと思ったが、もしかしたら彼女のを食べれるかもしれないと勝手に騒いだ(心の中で)。醤油が来ると彼女は儀式的に両手でボトル式の醤油から慎重にポツポツポツポツと4的の醤油を垂らした。眼差しがガチだった。思わずそれに圧倒されて数秒見入ってしまった。彼女は、はい。と僕にクルクル巻いたパスタをくれた。来た。僕はちょっと驚きながらもそれを一口で食べた。幸せだった。くそみたいに美味かった。さりげなく間接キスもしてしまったことにも食べ終わった後気づいて、彼女もそれに僕にあげて彼女も食べたあとに気づいて、なんだか気まずい空気になった。でも美味かった。僕らはその後、どっかブラブラしようと彼女が言ったのでとくに当てもなくその店を出た。彼女は漫画が読みたいと言ったので本屋行く?と言ったら、満喫いこーと言ってきた。満喫は行ったことがなくどういう場所かはよく知らなかったが、興味はあったので僕も行ってみたいと言い、僕らは満喫に向かった。満喫は建物の三階にあって、エレベーターに乗って3階までいった。急に二人きりの密室でちょっとドキドキして彼女をチラ見したら彼女も同じタイミングでチラ見したので目があってしまった。そのまま扉は開き、僕はドキドキしながら前をゆく彼女についていった。改めて見ると彼女の後ろ姿はとても色っぽいなと感じてしま
った。なんなんだ?これは。そう思っていると彼女が手続きみたいなのを済ませてどこかへ行こうとしたので僕も慌ててついていった。ついた先は完全に個室の部屋だった。こんな風になっているんだと感服した。めっちゃいい空間。ちょうどいい広さ。彼女はプレミアムだなんとか言っていた。鏡まであってなんかラブホテルってこんなんだよな?と行ったことがないなりにも思った。すると彼女が急に僕に近づいて、キスをしてきた。僕は何が起こっているのかわからず数秒固まったが何が起きたのかを理解し、彼女のあの謎の色気がなんだったかも理解した。そのまま僕は流されるがまま彼女と長い間キスをした。彼女の小さい舌が僕の口の中で僕の舌と互いの唾液を交換するように絡まり合った。僕は童貞だった。彼女は処女ではないのかと思ったが聞いてみると、彼女は文化祭で僕のことに一目惚れして、どうしても我慢ができなくなったのでキスをしてしまったのだそう。急に告白されたが僕はもう驚かなかった。僕は彼女に付き合おうと一言言い、彼女はそれに頷いて僕の唇にもう一度キスをした。まさかこんなところで童貞卒業かよ。と思ったが僕はそこでなんやかんやを捨てた。彼女の身体はとても綺麗だった。肌がきめ細かく夏なのになぜかサラサラしていて色が白く細かった。ショートの黒い髪でその白さが強調されていた。胸はそんなに大きくなかったが、僕にはそんなのどうでもよかった。僕は彼女を僕のものにできたのだろうか?そんなことを思った。
それから僕たちは何度か会ってセックスをして別れた。僕は自分の家には入れなかったが主に彼女の家にいって性行為を繰り返した。別れたと言っても僕達は彼氏彼女の関係が無くなっただけで、会いたくなれば連絡して会ったりもした。僕からの提案で、別に付き合っている必要はないと考えたのだ。そもそも付き合うとはどういうことなのか僕にはいまいち理解ができなかったのだ。彼女との結婚はおそらく現実的じゃないと思い、その結論に至った。意外にも彼女は物分りがよく、すんなりそれを受け入れた。彼女は本当に綺麗になった。たくさんセックスをしたおかげだろうか。僕達は僕達の繋がりを確認するようにセックスを繰り返したのだ。彼女の両親が居ない時に彼女の家に泊まったりもした。彼女の身体はとにかく綺麗だった乳房も少し最初の頃と比べると大きくなった気もする。あの時あった独占欲みたいなものは彼女への好意とともに、薄れていってしまった。最初それに気づいたときはかなりショックだった。諸行無常とはこれの事かと、一人で悲しくなった。彼女は相変わらず僕のことが好きだという。そもそも僕のどこに一目惚れしたのか。その事についてはあまり確かなことは言わなかった。だが、直感的にそうなったのだそう。僕は部活を頻繁に休むようになり、ついには辞めた。辞める時に顧問になにか嫌味でも言われるかと思ったが二つ返事でオッケーと言われ、呆気に取られた。僕は人間関係がおそらく下手なのだろうと思う。人前ではヘラヘラして、コミュニケーションは悪くない。だが一人になると自分が全く違う誰かのような感じがするのだ。しかもそのときの記憶がかなり薄いのも特徴。脳にインプットされた情報はそのままあるのだが、僕が起こした行動や僕がそのときどんな感情を持ち得ていたという僕自身の記憶が薄まっていたのだ。まるで脳が切り替わっているような感じだ。早紀への好意が薄れたのも、部活を辞めたのも、なにかこれに原因があるのではないかと思った。僕はそれをもう一人の自分と定義した。もう一人の自分はとにかく頭がいい。普通の僕は別に頭が悪いわけじゃないが、良くもない。僕はもう一人の自分の記憶が薄まる理由がよくわからなかったが、どうやらそれは一人でいることと、かつ夜であることが条件のようだと直感的に理解した。数学のいつもは出来ないような問題も、もう一人の僕なら簡単に出来るのだ。僕はいつの間にかそのもう一人の僕に魅了されていった。なるべくこのもう一人の僕である時間を増やせまいか。僕はたくさん実験のようなものを繰り返した。だが明確な目星はつかなかった。ある日のこと、僕の家には誰もいなかった。母親はおばあちゃんなどと旅行に出かけ、父親は職場に泊まるのだそう。弟は友達の家に泊まりに行った。僕一人だけの空間が広まった。___いつの間に寝ていたのだろうか、僕はソファで腰をかけて眠っていた。時刻は5時近くを指していて、リビングには夜明けの光が差し込んでいた。僕は何をしていたんだ?何も思い出せない。リビングにある机を見ると、その上には食べかけのポテトチップス、飲みかけのビール、市販チーズの包装用のアルミが二、三個ほど散らばっていた。家には誰もいない。完全に僕が食べたものだ。だが記憶にない。歯磨きはしていないらしく、口の粘り気が気持ち悪かったので僕はまず歯磨きを入念に行った。その次にすべきことはこの状況を整理すること。おそらくもう一人の僕がしたに違いないが、全く記憶にない。微かな記憶さえも残っていない。これは非常にまずいことかもしれない。僕に制御が出来なければそれはただの危険なものでしかないのだ。この程度の軽い食事ならいいが、何をするかは確かではない。どうしよう。僕は軽く狼狽していた。だがこのことを誰かには相談するつもりはなかった。僕は昔から他人を信用していないのか、何もかも全て自分で解決したがる。それは性格的なものだから別に孤独ではないのだ。だがこんなに予想外のことが起こるとは。人間ならばよくあるだろう。この自分は本当の自分なのか?と自己のバラつきに疑問を抱くことが。それは自己アイデンティティによるものだ。人間というのは他人によって様々な形態の自己を作り上げる。つまりすべて自分なのだ。なんの驚くことじゃない。そういう性質を僕は理解していた。僕はそれに便宜的にもう一人の自分という名前を付けたに過ぎない。だがこれは明らかにもう一人というよりも、別人格が形成されているようだ。僕は高ぶった動悸を抑えるために大きな深呼吸をした。