1 <序章>
「どうして泣いているの?転んだの?誰かに意地悪されたの?……泣いていないでこっちにおいでよ!僕弟が欲しかったんだ。一緒に遊ぼう!だって今日から僕たち兄弟じゃない。嫌なことがあったらすぐに僕に言うんだよ!僕の弟を苛めるなって言ってやるんだから!」
見たこともない大きな屋敷に、汚れ一つない上質な服、今まで食べたことのないような食事。こんなもの欲しくない。望んだこともなかったのに、なぜ僕はここにいるのだろうか。
朝から部屋に閉じ込められて、聞いたこともない王の名前を覚えさせられ、その功績をまるで自分のことのようにしゃべり続ける教師。今まで座ったことのないような椅子に長時間縛り付けられ、延々と問題を解かされる。数日もすればそんな日々も嫌になり、筆記用具を放り投げ、外に出ないようにと言われていたがそんなこと気にも留めず走り出した。
無駄に大きな庭の一番奥の木の下で息を整え座り込む。母に会いたい、うちに帰りたい、一人は寂しい。もうこんなところにいるのは嫌だった。
それからどれくらいの時間が経っただろう。誰かが隣に座る音がして、顔をのっそり上げる。さぼっているのが見つかってしまったのだろうか。そんな心配をしながら横にいる人物を見ると、それは自分よりも年下の女の子だった。上等なドレスを着ているため、どこかの貴族の子どもだろう。なんでこんなところに座っているんだと疑問に思った時だった。
「お兄ちゃん絵本読んで」
女の子は手に持っていた本を僕に差し出した。
「え?」
「優しいライオンさんのお話なのよ。ライオンさんはね、本当はとっても怖がりなんだけどみんなを守るために頑張って特訓するのよ!」
こちらの困惑を余所に女の子はどんなにこの本が面白いか力説している。
「私が一番好きな絵本なの。ね?お願い」
ぐいぐいとその本を押し付けられ、この状況に流されるがまま僕は表紙を開いて読み始めた。
「――ライオンは言いました。どうして僕だけ置いていくの?みんなと一緒に行きたいよ。しかしお父さんライオンはそれを許しません。お前はみんなを守る立場にあるんだ。それはお前にしかできない事なんだよ。そう言ってお父さんライオンは――」
「でもね、私思うのよ」
女の子が請うがまま読んでいると、それまで静かに聞いていた女の子が急に喋りはじめた。
「ライオンさんはライオンさんになりたくて産まれたわけじゃないのにね。私もね、お父様から走ったらダメ、使用人と仲良くするのもダメ、木登りもダメって、何かにつけてお前は男爵家の娘なんだからーってそればっかり。今日もね、お家に帰ったら先生が待っているんだって。私もっとお外で遊びたいのに」
「……お勉強嫌いなの?」
彼女も貴族として産まれたかったわけではなく、自由がない生活に不満があるようだ。
「嫌いよ。でも私が上手くできるとお父様は褒めてくださるから、それはとても嬉しくなるのよ」
先ほどまでのつまらなさそうな顔が一変して、笑顔がとてもまぶしかった。
「でもこの間なんてね、川で遊ぶのはメーシュはいいのに私はダメなんですって」
「メーシュって?」
「この間仲良くなった布屋さんの子」
それでね、メーシュがねと瞳をキラキラさせて楽しそうに教えてくれる。その話を黙って聞いていると、遠くからお嬢さまぁー、ローシェリアお嬢様ーと誰かを探す声がする。
「あっ。きっとお父様が探しているんだわ」
女の子は木の麓から立ち上がり、ドレスについてしまった芝や木の葉を払っている。こんなところを彼女の父に見られたら、また怒られてしまうのではないか少し心配だった。
彼女が土を払い終え駈け出そうとしたとき、自分でもわからないがとっさに腕を掴み引き留めてしまった。不思議そうに彼女が首をかしげる。何か言わなくては。そう焦って出た言葉が、また会える?というありきたりな言葉だった。
「ええ。お父様が連れてきてくれれば」
今度ははっきりと彼女の名を呼ぶ使用人の声が聞こえた。
「戻らないと」
彼女は僕に軽く膝を曲げ、使用人のほうに駆けだしていった。
嵐のように去って行った彼女の後姿が小さくなっていくのを見ながら、僕はここに来た時の寂しさや疑問が薄れているのに気付いた。
慌てていて忘れたのだろうか、彼女の絵本が風で捲れ、ライオンが多くの動物に囲まれている様子が最後のページに描かれていた。