研究と雰囲気
間がかなり空きましたが、まだ続きます。
ここで、いったん話を関とカールにもっていこう。最初は、関について語っていくことになる。
関孝和についての多くの人間の評価は大きく分けて2つに分けることができる。それは、更に細かく言えば、ある時よりも昔の関しか知らない人からの評価とそれ以降の関のを知っている人によるものであると言える。
人は、変わる。
その言葉の意味を正しく理解することが何より、関が変わった瞬間なのかもしれない。
「関孝和は、優秀な人間であった」
関の、そうした過去にしか触れなかった人間が関に対して評価する際には、まず、この言葉をいう。時間をかけて、関本人には言わないことを念押ししてようやく、彼らが関を語り始める。
「関孝和は、よくも悪くも巨人でした。彼のような巨人にとって、路肩の人間は視界にも入らないのです」
昔の関は、優秀な男であった。学生のころから、ずば抜けていた数学の才を持ち、躓きという躓きに出会うことなく直進を続けた。関は、当時の世界でも最年少で教授職に就くことになる。
そんな彼だからこそ、当然、厳しかった。いや、それは一般的に言われる厳しさではなかった。
関は路上の石に対して、微塵の興味も抱かなかった。いや、厳密に言えば、関は才能のないものを徹底的に切り捨てる人間だった。
ここまでの話を正しく理解するためには、数学の世界について知る必要があるのかもしれない。数学は、世界で最も厳密な学問である。それは、自然科学のような誤差も、文学のような感情ももってはいない。考えることをきちんと突き詰めるということこそが、そこにいたる道になる。考えるという行為は、強烈な快楽である。それも誰も考えていないことを考えるのは、特に強烈なものである。学生の時分、数学が理解できる自分は特別な人間なのではないかと思った人間も多いだろう。
しかし、現実は簡単なものではない。世界は、広いという現実を知る。
もちろん、こうした物語は数学に限った話ではない。スポーツでも、仕事でも、恋愛でも、それはよく起こる話だ。では、なぜ数学での、学問でのそれについて、特別であるという話をしようとしているか。
数学という世界は、積み上げ、積み上げ、積み上げて、積み上げる。そこで最先端という入り口にたどり着く。そして、そこで、そこで初めて世界の広さを理解できるようになるものなのだ。
それは、スポーツでも、仕事でも、恋愛でもいえる話ではないか。スポーツであれば、才能は目立つ形で発露される。世界で戦う才能は、最初から常に頂点にいる。仕事でも、頂点に立つ人間は、分かりやすい自信と才能を持ち目立っているだろう。それに何より、仕事の場合は敵の少ない場所を選べばいいだろう。恋愛に至っては、何よりも経験である。
では、頑張り、頑張り、頑張って、頑張る。そこでようやくたどり着いた最先端で、自分は才能がないと気づく。その事実に気が付くのにどれほどの覚悟がいるだろうか。どれほどの痛みを、痛みを伴うのだろうか。
関は、それを才能なきものが味わうべきではないと思っていた。
だからこそ、才能なきものは、ここにいるべきではないと考えていた。それは、ある種の気遣いであるのかもしれない。それは、ある種の人助けであるかもしれない。しかし、それは、当然、学生には伝わらない。多くの学生がその研究室をやめることになる。
あるものは、学生時代に神童と呼ばれていた。あるものは、同学年で最高の成績を取得していた。
しかし、やめていった。
たちが悪いのは、それだけ厳しいからこそ、余計に優秀な人間が、その研究室を訪れたことだろう。もちろん、全員がやめたわけではない。真に、数学の才のある人間は、そこに残った。
そして、その状況がより状況を悪化させる。
関に認められることこそが、その世界にいるための最低条件になったからである。
誰もが怯えた。間違いなく、同年代で最高の才能を持つ人間が内心、怯えながら、関と意見を交わしていく。誰もが、誰もが自信を砕かれていった。心の底から、自分は優れていると思えなくなっていた。
関が研究室で最高の才能を有しているのは、事実である。その事実が何よりも重いのである。
その環境に異を唱える者が関の研究室に現れることになる、トマス・ヤングである。
強者の時間を弱者が奪うな。
かつてのトマスであれば、そのように言ったのかもしれない。しかし、トマスは既にガウスに会ってしまっていた。下らないと切り捨ててきた世界の偉大さを、その尊さを既にトマスは知ってしまっている。
関の研究室に助手として赴任してきたトマスは、愕然としていた。研究室に蔓延る雰囲気の悪さにだ。常に、常に、そこには沈黙があった。その沈黙を破るのは、関の淡々とした指摘であった。その声の先を他の誰もが見ることはない。
プライドなどない。溢れるような自信を纏うべき強者たちが一人を除き、そこにはいないのである。
すぐに、トマスは雰囲気を変えるように関に進言した。しかし、当然、関は耳を貸さない。
「関さん、こんな雰囲気の中では、生徒達は本領を発揮できない。もっと、生徒たちとコミュニケーションをとりませんか」
「トマスさん、ここは高校ではないのです。この業界が厳しい世界であることはご存じのはずです」
「はい、存じています」
「そうであれば、分かりませんか。優れた才能を持たないものが、この世界に残ることの残酷さが」
「分かりますよ。この世界は、そういう世界です。残酷なくらいの実力主義です」
「であれば、能力のない人にはあきらめてもらうほかないでしょう」
「そのために能力のある人も犠牲にする気ですか」
「どういう意味です」
「明らかに、この研究室の雰囲気は良いものではない。この雰囲気の中では、誰も、能力のある人でさえ能力をまともに発揮できないでしょう」
「そうか。実際に、ここで結果を残しているものはいますよ」
これも質の悪い話だ。実際に、この環境でも成果を出す人間はいる。
それが、余計に判断を迷わせる。何が正解か。結果を残すことが優先される空間では結果を出すものが正しい。しかし、結果は出ているだけだ。それは、一部の劣悪な環境に耐え、その上で結果を出すことのできる人間がいるだけの話なのだ。
「確かに、そうですが」
トマスの、その言葉を聞くか、聞かないかのタイミングで関は、その場を離れ始める。トマスは、それを止めようとするが関は意に介さず自室に入っていった。
関は、トマスとの出会いで変わることはなかった。
関を変えたのは、悲しいかな。一人の人間の命であった。
関の研究室を辞めた者に自殺者が出た。関の研究室に関わっていた者達にとって、それは衝撃であった。関係者の中には、自殺したものを悪く言う者もいたが、大多数は、この空間がやはり異常であることを強く認識した。
何よりも、関がそれを理解した。
死んだ者は、本当に才能がなかったのか。死んだ者に、他の人生の光を示せる環境を作ることは出来なかったのか。そして、なぜ、この事実に目を向けることができなかったのか。
葬式の帰り道、関は、トマスとともに深夜の道を歩いていた。
「トマスくん、少し寄り道しませんか」
「・・・はい」
関は、トマスとともに公園に入っていく。関が公園のベンチでブランコに目をやっていた。トマスは、飲み物を買い、それを関に渡した。
「ありがとうございます。代金です」
「いえ、いいですよ。これくらい」
トマスは、覚悟を決めたように関の方を向くと、
「関さん、重要な、重要な話があります」
「心配せずとも、分かっています。私が間違っていました。もっと、生徒たちと話をするべきでした。思えば、私は生徒たちから、逃げていたのかもしれないですね」
「いえ、そんなことはないですとは、私からは言えないです。でも、非常になんとも言えないですが。あなたがそれに気づいてくれたならば彼も浮かばれるかもしれないですね」
後日、研究室に所属する者たちが関によって、昼に集められた。誰もが何事かと、思いながらも、声には出さない。
そこに関が、現れ、みんなの顔をしっかりと眺めながら話始めた。
「まずは、皆さんに謝らなければならないでしょう。私が作り出してしまった、この空間が皆さんを苦しめてしまったことを。本当に申し訳ありません」
そういって、関はみんなに向かって、頭を下げた。
「私は、これから、この空気の悪さを改善したいと考えています。今日は、その一歩です。皆さん、一緒に昼ご飯を食べませんか」
その話に多くのものが驚きを隠せなかった。その裏で、トマスがにっこりと、その様子を見ていた。
実際、予想はできたが、会話という会話は、ほとんどが研究の話だった。しかし、ところどころで入るトマスのサポートによって、少しずつ、身の上話も増えていった。
研究室の雰囲気は変わった。変わったことで、全てがうまくいくわけではない。人によっては、今の研究室の姿がストイックさに欠けると研究室を出ていくものも現れた。周りの研究者からも、関の研究室の質は、落ちたのではと言われたこともあった。
しかし、関は、トマスは、研究室の面々は、笑っている。それは、研究室の質を下げているものではない。
面白さ、興味深さ、それこそが研究の本質であり、全てなのです。言い換えるならば、研究とは終わることのない話の種を手に入れるというだけなんです_せんせい