不純物
かなり間が空いてしまいましたが、まだ続きます。ペースは相変らずになりそうですが。
最初は、トマスの話をしなければならないだろう、トマス・ヤングという物語を。
トマスは、常にある考えを中心に生きていた。その考えは誰もが頭に描く、非常に普遍的でかつ致命的な人生の問題であった。
人生は退屈だ。
トマス・ヤングは若くして天才的な才能を持った人間であった。そんな彼が数学という魔境に足を踏み入れるのは必然だったといえるのではないだろうか。この物語はトマス・ヤングの大学時代の物語であり、トマス・ヤングとヴェルナー・ハイゼンベルクの大学時代の物語である。
大学に入学して間もないトマス・ヤングという人間は、既に数学者になることを決めていた。入学してから一年間は、多くの時間を数学書に費やす、それでも交友関係がないわけではない。勘違いしてはならないが、トマス・ヤングは一年の多くを数学に費やす人間ではあるものの、社交性のない人間ではなかった。一定の期間で友とあっては、会話を楽しむ、自分の考えた理屈、思想、野望を語り合う時間も自分に必要な時間だとなんとなく思っていた。
ヴェルナー・ハイゼンベルクに会うまでは。
トマスがヴェルナーと初めて会ったのは、図書館だった。トマスは、ヴェルナーという人間を噂で知っていた。とんでもなく、優秀な人間が物理学専攻にいるという噂があったためだ。トマスにしてみれば、自分を差し置いて優秀とは、と思っていた。
大学の図書館で見たヴェルナーは普通の学生のように見えた。トマスは、その噂の真相を突き止めるため、図書館の机に向かって本を読んでいたヴェルナーに声をかけた。
「ヴェルナー」
声をかけてもヴェルナーからの反応はない。振り向きさえしない。トマスは少し気に入らないなという表情をした後、聞こえなかったのだろうともう一度声をかけた。
「ヴェルナー」
しかし、反応はない。
なんだ、こいつと思いながらトマスはヴェルナーの方に手をやってから、声をかける。
「ヴェルナー」
しかし、反応はない。
怒ったトマスが声をかけようとすると突然ヴェルナーが立ち上がった。
「なんだい」
突然の反応にトマスはうろたえながら、ヴェルナーを見る。
「すまん、驚かせたか。君がヴェルナーだろ。噂は知ってるぜ、優秀な一年が物理学専攻にいるってな」
「はは、君はそれでどうしたいんだ」
「どうしたいって」
「君は、私という人間を見て、話して、そこから何を得たいんだ」
「くっ、面白いな、おまえ。いかれた合理主義者だな」
「嫌いか」
「いや、最高にいかしてる」
それからの二人は狂ったように勉学に励む、それこそ、人生を捧げんとするように、快楽ではない。名誉でさえないのかもしれない。彼らを突き動かしたそれは、ある種の退屈だったのかもしれない。
人生に出会いは幾度となく存在する。しかし、強烈な人生に影響を与えるような出会いは、それほど多くはない。
トマスに僅かにあった社交的な時間は、言ってみるならば不純物である。トマス・ヤングが数学者になるために不要な時間である。もちろん、現実的な話をすれば、上記の主張は間違いだ。どんな奇人と言われる数学者でも人と語り合う時間を大切にするだろうし、自分一人の力で結果を残すことは難しい。
しかし、真に、真に数学に、物理に、化学に、生物に、地学に飲まれるのであれば、本を読み、実験し、結果から予測し数式を眺める。そうした時間こそ、正しく、自然科学を愛する者の時間である。
そして、いつの間にか、人生を歩む中で身につけた人間性という不純物を守るために人は科学者でなくなっていくのだ。
トマスは当たり前に人間性を身につけ、それを守ろうとした。それを守りながら生きることが当たり前になっていた。しかし、ヴェルナーは違った。当たり前に人間性を捨て、当たり前に学問に邁進する。その姿にトマスが心惹かれぬはずがない。いつか、どこかの伝記でしかみたことのない生き方だ。
そして、それを肯定する、人間が現れたのだ。
いつの間にか身につけていた人間性という不純物を醜いと感じるのは当然の反応だった。
人生に出会いは幾度となく存在する。しかし、強烈な人生に影響を与えるような出会いは、それほど多くはない。
二度目になってしまうだろうか。そうだ、トマス・ヤングはある種三つの人生を歩いている。一つはヴェルナーと出会う前、二つ目はヴェルナーにあってから。
そして、三つ目はガウスに出会ってからである。
ヴェルナー・ハイゼンベルグ、トマス・ヤングが仮に、ガウスに出会うことなく、人生を進めていたなら彼らは天才といわれただろう。だが、それは教科書に名前を残し、偉大なる先人となるだけなのだ。
科学者として、膨大な時間を学問に費やすのは当然の話だろう。そして、確かに、それ以外の時間は科学者を志すものにとっては不純物である。
科学者、数学者を目指すものにとっては、まず目指すべきなのは最先端という世界だろう。
そこに至る前でさえ多くの挫折者が出てくる。だが、最先端にたどり着くことは誰もができる。膨大な時間をその学問に費やせばだ。
科学は、数学は、人類の言葉である。当たり前の話だ、当然、如何に高度な学問といえど、それは人の言葉で語られ、人の言葉で書かれる。
最先端、つまりは時代の頂点までたどり着くことは難しいことではない。いや、厳密に言うのなら、簡単ではないがたどり着くことはできる。
基礎的な、身体的な能力において頂点に立つことは誰しもできることではない。そこには、才能が必要であるだろう。しかし、学問の世界はそうではない。膨大な時間をかけて、一つの学問に邁進すれば、ひたすらなトライアンドエラーを繰り返し、正しいものが何かを知ろうとする姿勢さえ崩すことなく進むことができるなら、最先端という世界を理解することは難しいことではない。
ガウスに出会う、少し前、トマスは学会に顔を出すという目的で学会の参加を教授に促され、世界に触れる機会に高揚する自分を抑えるためにヴェルナーの元に向かっていた。ヴェルナーはいつものように図書館で本を広げていた。
「よう、ヴェルナー」
「・・・」
「相変らずだな、ヴェルナー」
そういうとトマスはヴェルナーの肩に手をやった。
「なんだ、トマスか。どうした、分からないことがあるのか」
「は、あっても、お前には聞かないだろ」
「ふ、そうだな。で、要件はなんだ」
「自慢しに来た。先に学会デヴューだ」
「ふーん」
「なんだ、そんな反応かよ」
「俺たちの目的はそこではないだろ」
「ははは、お前ならそういうだろうな」
「その言葉を聞きに来たのか」
「そうだ、そうだったというのが正しいな。急に怖くなった。道は間違っていない。方向は正しいはずだ。しかし、この道を進んでいいのか、怖くなった」
「お前にしては、素直だな」
「お前は怖くないのか」
「怖いな、考えるだけで頭がおかしくなりそうだ。だが、この道を進んでいく以外の生き方を俺は知らない」
「・・・・!そうだな、そうだ。先に世界を見てくる、ヴェルナー」
「いい気晴らしになった」
そして、話はトマスがガウスに出会った時に移ることになる。学会で発表しているガウスをトマスはしっかりと見ていた。自分と同年齢の男が、自分よりも早く世界に自分を発信している。その事実を簡単に受け入れられるほど、トマスは強くはなかった。学会後、トマスは早速、ガウスに声をかえた。
「ガウスさん、少し時間いいですか」
「ん、失礼ですがどなたでしょうか」
自分のことを説明しながら、トマスは強い嫉妬をした。ガウスをトマスは知っている。しかし、トマスをガウスは知らない。そんな当たり前の事実がトマスの頭には響いていた。
二人は、近くのカフェで話をすることになった。
ガウスにトマスは聞きたかった、どうすれば、どうすれば、お前のいるところまでいけるのかと。それを察するようにガウスは言った。
「あなたが、ここまで来るのは無理ですね」
「は、なんだ、なんだと」
「あなたは、道は一本だと思っているでしょう、そう思っている限り、あなたはここまで来ることはできないと思います」
「どういうことだよ」
「言ったとおりです。あなたは、先人たちが築き上げた道を進みことにしか興味がない」
「それが間違っているってのか」
「間違ってはいない。多くの科学者がたどり着く世界は、そこまででだからです」
「ほう、お前は違うと」
「はい、私は天才なので」
「大した自信だな」
「分かりませんか、最先端にたどり着くことは終わりではない。始まりなのです。そこが科学者としてのスタートとなる。そこで、多くの科学者は求められる、結果を。時間がない、しかし結果を出さねば。そうした時に多くの人間が歩む道など決まっている」
「・・・」
「人が歩いたことのある、舗装された道、そうした道の僅かに先。道の先まで来てしまえれば、誰でもできる、そんな道を広げる」
「じゃあ、お前はどんな道を見ている」
「私は道をつなげることです。発見とは、革新とは、単純に、膨大な概念の出会いに過ぎないんです。一つの学問にとらわれ、概念との出会いを拒否している限り革新は起こりえない」
「な」
「世界を変えるのは、人ではない。変革とは概念と概念の出会いなんですよ」
純粋な者は脆い。生物であれ、物質であれ、人であれ、純粋な者は脆い。純粋なものに僅かに混じり合う不純物によって、世界は無限に等しい多様性を作り上げているんです。この世で最も純粋なものは概念です。では、概念にも不純物を加えましょう。それが、我々の仕事です_せんせい