男と女
今回の話は本当に長くなりそうです。
優れた知性をもったものは孤独であると言われます。それは事実なのでしょうか。私は違うと考えます。幸せに近づく能力こそが知性であると私は考えているからです_せんせい
ラマヌジャンには妻がいる。しかも、一回り年が違う。それも親に紹介された妻である。
これはそうした二人の男女の物語である。
ラマヌジャンは、ヴェルナーのように最初から魔導士であったわけではない。ラマヌジャンは、トマスや関と同様にヴェルナーから、魔法を教えてもらうことで魔導士としての才能を開花させた人間である。その日、ヴェルナーは優れた数学の才能を持つ男がとある国にいると聞き、魔法を使い、空を移動していた。何か所で話を聞いてみると、その男の家はすぐに分かった。その男は、この国ではある種の英雄的な扱いを受けているらしく有名人であったからだ。
「ここか」
その家はお世辞にも奇麗なものではなく、むしろ、物理的な貧しさが端的に表現されたような家だった。ヴェルナーがその家を訪ねると、一人の女が現れた。女はヴェルナーをまじまじと見ると何の用かと聞いてきた。そこで、ヴェルナーが優れた数学の才能を持つ男を探していて、ここに、その男が住んでいると聞いたと答えた。すると、女は嬉しそうに、その男は息子だと答えた。女は、この時間に息子はとある山の祠で神に祈りを捧げているとヴェルナーに伝える。それを聞いて、ヴェルナーは女が嬉しそうに手を振るさまを背景に、その山に向かった。
その山を登り、祠があると女に教えられた場所まで来ると男が確かに神に祈っていた。しかし、ヴェルナーが見たのは神に祈りを捧げる只の男ではなく、神に近づかんとする男の姿であった。
その男こそがラマヌジャンである。シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンという男である。
ラマヌジャンは、しばらく神に祈った後、目の前にいるはずのヴェルナーに気付くこともなく山を下りようとしたのでヴェルナーが声をかけた。しかし、ラマヌジャンはそれにさえ気づかぬままに山を下りて行った。
「とんでもない男だな」
ヴェルナーは感じていた、男が只の人間ではないことを。
しばらくして、ヴェルナーがラマヌジャンを追いかけるように、彼の実家に着くと女、つまりはラマヌジャンの母親が嬉しそうにヴェルナーを迎え入れた。ヴェルナーがラマヌジャンはどこかと聞くと、母親は部屋にいると答え、今日は部屋から出てこないとも言った。
「それは困るな」
ヴェルナーはそういうとラマヌジャンの部屋を探し始めた。しばらく探すと、それらしい部屋はすぐに見つかった。しかし、ヴェルナーがその部屋の扉を何回かノックしても、その部屋から反応はない。その様子を見ていた、彼の母親がヴェルナーを呼んだ。彼女は、その部屋は間違いなくラマヌジャンの部屋であること、部屋にはラマヌジャンがいるだろうことを教えてくれた。
ヴェルナーは、その言葉を信じ、ラマヌジャンの部屋に入った。部屋は小さいものではあったが、中心に机と椅子、数冊の本がおかれていた。その無造作に置かれた本には何か所ものメモ書きが書かれていた。そして、その椅子に座り、その本を開き、ぶつぶつと言いながら、時に本に向かってペンを動かすラマヌジャンの姿があった。ヴェルナーは何度か挨拶を試みたが何の反応も得られない。まるで、何らかの壁があるのではないかと思うほどだった。
その様子を後ろで見ていたラマヌジャンの母親がヴェルナーに、これがいつものラマヌジャンであることを伝えると、ヴェルナーは驚いていた。
ここまで、ここまで、数学に、神の言葉を聞くために、全てを捧げられる人間がいるのかとヴェルナーは感じ、同時にこの男はどこまで行くのかを見てみたくなった。
ヴェルナーは、ラマヌジャンの母親がラマヌジャンはいつも夕食の時間になると部屋をでて食事を取りにくるという話を聞き、仕方なくそれを待つことにした。
しばらくして、夕食の時間になって表れたラマヌジャンの第一声は「初めまして、ラマヌジャンと申します」であった。
ヴェルナーは、ラマヌジャンに魔法について伝え、実際にいくつもの魔法を実践して見せた。その姿に驚きと強い興味をそそられたラマヌジャンはヴェルナーについていくと言い始めた。そのつもりでいたヴェルナーは大いに喜んだが、それを見ていたラマヌジャンの母親は、それについて驚き、少し考えるそぶりをした。
それから、数日後、ヴェルナーはラマヌジャンの家にしばらく泊まりながら、ラマヌジャンに魔法を教えたが、国に帰る日がやってきた。ヴェルナーの帰国にラマヌジャンはついていくつもりであり、ヴェルナーもそれを歓迎していたため、後はしばらく家を留守にすることを彼の母親に納得してもらうだけであった。
「一年ほど、あちらの国で学んできます。しばらく、家を空けることになりますがより我が家に相応しい人間になって帰りたいと思っています、なので・・・」
ラマヌジャンのその言葉を遮るように、彼の母親はこくんと頷くと話し始めた。
「私はお前を、我が家の誇りに思っている。だから、お前が望むようにすることを止めはしない。しかし・・・」
「しかし、なんです」
そう、ラマヌジャンが話すと、ラマヌジャンの背後に一人の少女が現れた。そして、彼の母親はその少女を指さすといった。
「その女を伴侶にし、共に過ごすと約束しなさい」
ヴェルナーはその言葉を、驚きを持って受け取った。それは当然のことであろう。ラマヌジャンより一回りは幼い少女を嫁にしろと彼の母親がいったからだ。
だが、ヴェルナーはそれ以上に驚いたことがあった。ラマヌジャンが大して驚いていなかったからだ。ラマヌジャンは、驚くほど無関心にそれを了承してしまった。そこからは早かった。ヴェルナーの帰国についていく形でラマヌジャンと、その妻はヴェルナーの国に移動した。
ヴェルナーの国への移動中、ラマヌジャンはヴェルナーとの会話に専念していた。それは、これから多くのことを学ぶ相手であるというある種の媚ではなく、単純な学術への興味、知りたいという欲求だった。もちろん、ラマヌジャンの対応は品を欠くようなものではなかったが、強く感じられるその欲求はヴェルナーの強い共感を呼び、議論は白熱していた。
ある程度、議論が落ち着いてきた場面で、ヴェルナーはふと、ラマヌジャンの妻の様子を伺った。長い時間、放置された彼女にヴェルナーは声をかけるようになった。そのたびに彼女は嬉しそうにヴェルナーの呼びかけに答える。しかし、ラマヌジャンは、彼女に声を掛けようとはしなかった。緊張しているのかとヴェルナーは思ったが、ラマヌジャンはエスコートするかのように彼女の手を取って歩き始めた。その様子を見て、安心したヴェルナーだったが、ラマヌジャンと彼女の会話はないままだ。ところどころで声をかける彼女に、ラマヌジャンは何の反応もしない。ラマヌジャンは彼女に興味がなかった。
人に興味がない人間は二種類いる。人と関わる能力が低いために、人と関わりたいが人と関わるとストレスを強く感じるために関われない人間である。そして、もう一つは人と関わること以上に楽しいと思うことを見つけてしまった人間である。
彼らは、人に興味がないわけではない。彼らは、人と関わることが苦手というわけではない。例えるなら、学問というドラッグに支配された人間である。彼らは、人が求める単純な快楽に、日常に飽きてしまった人間なのだ。
「私の話は面白くないですか」
何度も無視されたラマヌジャンの妻は、泣きそうな声を上げてそういった。その声にもラマヌジャンは反応しない。その様子を見て、堪らずヴェルナーがラマヌジャンに妻に反応してやれと伝えると。ラマヌジャンは、妻とヴェルナーの対応が一瞬理解できないような顔をして、しばらく、考えた後で妻に言った。
「すまない。私はこういう人間なのだ」
ヴェルナーはしっかりとラマヌジャンのその言葉を飲み込んだ。何の偽りもない、その言葉はヴェルナーには羨ましく、妻には不可解に聞こえた。その言葉を聞いてから、妻は考え込むように黙り込んだ。ヴェルナーは、その様子を心配そうに見つめたが、ラマヌジャンは、自分のスタイルを変えるつもりはないようだった。
ヴェルナーの国に着いた二人は一緒に行動こそするが、妻がラマヌジャンについていくだけでラマヌジャンの興味はそこにはない。より具体的には、ラマヌジャンは、エスコートはするが妻としゃべらない。
ヴェルナーの国に着いて、ヴェルナーから話を聞きにヴェルナーの研究室に行く以外は、ラマヌジャンはほとんど部屋を出なくなった。それは自分の研究をするためであった。魔法や数学の研究、ラマヌジャンは、一日のほとんどの時間をそれに費やした。しかし、ラマヌジャンといえど集中力を切らす瞬間はある。そうしたタイミングでラマヌジャンは食事をとった。そして、このタイミングを逃さず、食事中にラマヌジャンの妻はラマヌジャンに話しかけた。それでも、ラマヌジャンの反応はない。
それから、何年か経った。ラマヌジャンとその妻は帰国し、二人で生活を始めていた。そのころにはラマヌジャンは、魔導士であり、高名な数学家になっていた。しかし、ラマヌジャンとその妻は相変わらずであった。
全てが変わったのは、ラマヌジャンが大きな敗北をした夜のことだった。あまり大きく感情を出さないラマヌジャンが雄たけびのような声を上げた。その声に驚いたように妻がラマヌジャンの部屋の戸を叩くと、泣き顔のラマヌジャンが戸を開けて現れた。ラマヌジャンはしばらく、妻の顔を見つめ、抱き着いた。
それは何年も共に過ごした二人にとって、最も近づいた時ではなかった。しかし、それは
間違いなく二人が初めて近づいた瞬間であった。
この時、ラマヌジャンは初めて人と別れることが怖くなった。その敗北は積み上げられてきたものが方向違いであることを示していた。数学という暗い闇の中を自分の積み上げてきたものを頼りに進み続けてきたラマヌジャンにとって、それは絶望である。今更、道を変えることはできない。込み上げてくる恐怖は、彼のすべてを否定する。しかし、小さな肯定が、彼にはあった。
「大丈夫です、あなたはまだ進めます」
そこには、根拠などない。彼女にとっても、泣いている夫を慰めるための一言であっただろう。
世界は呼吸を始めた。
目の前にあった一つの道がいくつも、いくつも分岐していくかのようにラマヌジャンは感じていた。その時、ラマヌジャンは悟った。自分の人生には、彼女が必要であること。それは確かに感情の通っていない理性だったかもしれない。
しかし、愛にとって始まりなど些細な問題である。
それから、ラマヌジャンは魔法や数学に熱中する時以外は妻と行動するようになり、なにより、会話をするようになった。全ては劇的な変化を遂げる。ラマヌジャンの妻はよく笑うようになった。それにつられるようにラマヌジャンもよく笑うようになった。ラマヌジャンは妻を通して多くの世界を知るようになる。それは、何かに没頭すべきである才能を霧散させてしまうもののように多くの人々は心配したが、むしろ、以前よりも意欲的にラマヌジャンは数学に、魔法にのめり込んだ。そして、夜は、時には昼にラマヌジャンは妻と世界を楽しんだ。
もう、道を間違えることを怖がる必要はなくなったからだ。間違えたのなら、ここに帰ってくればいい。妻のいるここに帰ってくればいいのだ。
これは、ハッピーエンドの物語ではない。彼女は慣習によって、自由を奪われたからこそ、ラマヌジャンしか選べなかったからだ。それは、典型的なラブストリーならば、バッドエンドなのかもしれない。しかし、彼に、彼女に、『この物語はバッドエンドですか』と聞けば、彼らは声を合わせてこういうのだ。
「そうかもしれない、しかし、私たちはハッピーエンドだと確信している」