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それでも貴女は美しい

作者: 真田和慧

淡い陽差しの中で、天使達は一体、何を囁き合っているんだろう。

 くだらない日常の欠片を、あれこれと持ち寄っては、ありきたりな一生を送る人間どもの終焉に、お情け程度の脚色を添える相談でもしているのだろうか?

 あどけないその表情とは裏腹に、天使達の采配は、時として残酷だ。

不幸を嘆き悲しんで幕を終えようとする人間に、中途半端な同情と気紛れな優しさを振りまいて、一縷の光が射したとしても、それが束の間のことだと知った時の、人間どもの落胆と言ったら、それこそ、断崖から真っ逆さまに突き堕とされて惨憺たる思いに浸ると言うのに、天使達は無邪気にも人助けのつもりでいる。

 ある意味、死神に取り憑かれて一生不遇をかこつよりも、天使からウインクされる方が、不幸なのかもしれない。同じ悲劇の末路を辿るなら、なまじ希望の光など見ない方が、落胆しない分、幾らかマシなような気がする。

フレスコ画のレプリカが貼りめぐらされた天井を、俺はまどろみの中で見つめていた。 

昼下がりのファミレス内には、人間達の発する不協和音がこだまする。

様々な声質に混じって、カップのかち合う音やスプーンが床に落ちる音。

そんな中で、エリカの言葉が一番、耳障りで、今の俺には、雑音以外のなにものでもなかった。

俺はぼんやりと、天井を仰いだままでいた。

「ねえ、ねえったら」

「は?」

我に返って、まじまじとエリカを見つめると、彼女は三角の眼をして、こちらを訝しげに見ている。

大体、この女は、人の心を、いとも簡単に支配できるとでも思っているのだろうか。

 多分、きっと、千里眼とかいう特殊能力の持ち主が見れば、この女には真黒い羽が生えているのが見えるかも知れない。

ほの暗い、どこまでも続く底無しの闇に這いつくばって、他人の心に浸食する得体の知れない塊にしか見えないかも知れない。少なくとも今の俺には、カラスのような狡猾さを匂わせた猛禽の化け物が、黄色い嘴を尖らせて、それが癖なのか、斜に構えで彼女独特の言い回しで、不快かつ意味不明な言葉をまくし立てている。

「ちょっと翔太、あんた、人の話聞いてる?」

「だから、なんで恭平が怪しいって思うワケ?」 

 「だってあいつ、最近、あたしが電話しても出ないし、メールしても返信遅いし。メールは五分以内に返信するのが常識でしょう?」

 「そういうお前は、メールしたって、二三日放置ってことザラじゃん、人のこと言えるのかね」

 出たあ。エリカの、お得意。何でも自分が一番じゃないと気が済まないってやつ。そろそろそういう考え改めた方がいいのにって、俺は内心思いながら、

 「あいつだって、直ぐにメールの返信できない事情もあるしさ」

 「事情?一体、どんな事情があるのよ、大体、あいつがそんな忙しいわけないじゃん」

 「忙しいかどうかは、判らないよ。でもさ、あいつが怪しいって言うけど、他になんか根拠があるわけ?」

 「最近、愛してるって言葉、言ってくれないし、エリカが最高って言葉もない」

 「そういうお前は、恭平のこと、いつもぼろくそに言うじゃん、優しい言葉が欲しいなら、まずは自分から相手に言ってあげないと」

 「そんなの、あり得ない!」

 エリカは、柔らかな栗色の長い髪を右手で弄びながら、形のいい鼻をぷくって膨らませると、そう何度も口にした。

 そのうち、枝毛を見つけると、もうそれを探すのに一生懸命で、俺の言葉にも反応しない。

ったく、なんなんだよ、この女は。

 世界は全て自分中心に動いていると、不憫なくらいにそう信じて疑わない、そんな十七歳の彼女に、俺はもう、ただ、呆れるばかりだった。

 彼氏の恭平の様子が怪しいって、俺を呼び出しておいて、本当に勝手なもんだよ。勝手に恭平を怪しむお前だって、俺と交際しておきながら、さっと恭平に乗り換えた口じゃないか。それに、そんな彼氏のことを元彼に相談するお前って一体、どんな神経してるんだよ。元彼に今彼の悪口言って、俺がどんな気持ちになるか、考えたことあるのか?しかも、お前が付き合っている彼氏って、俺の親友だぜ、親友の悪口聞いて、俺が、喜ぶとでも思ってるのかよ。

 俺は、グラスの中で薄まったカルピスソーダーを、忌々しさも手伝って、エリカの言葉を遮るように、わざとズズっと、ストローで音を立てると飲み干した。

 ジュースをストローで飲む男なんて、なんかカッコ悪いな。

 殆ど味のしない液体の甘味だけが、口に残るのを感じながら俺はそう思った。

 エリカに未練がないとは言えないが、さよならの言葉もなければ、付き合おうっていう言葉もなく、ただなんとなく一緒にいる時間を共有するうちに、お互い、これが交際するってこと?みたいな感覚に陥って、俺は勿論、エリカの容姿にほだされて、かなり有頂天になっちまったけど、半ば本気になりかけた途端に、エリカは親友の恭平とくっついちゃって、独り取り残された俺は、状況を把握しきれぬまま、ただ茫然と意味不明な喪失感を抱いて、なんとか悲しみをやり過ごした。失恋したんだという実感が月日とは逆行する形で俺の躰を数日のたうち回って散々、行き場のない苦しみをどうにか自分で処理して、やっと、失恋の傷が癒えかけたと思ったら、このザマだ。

 元カノに、恋愛相談受けている男を、天井の天使達は微笑んでいる。

 お前って、やっぱりお人良しなんだな・・・。

 かも・・・な。

俺はじっと、天井を仰ぎ見る。

 「で、俺にどうしろって言うのさ」

 「だからさ、鈍いなあ、決まってんじゃん、恭平の行動を監視してよ」

 「え?俺が?」

 「そうよ、だって、恭平と同じ大学だし、バイトも同じ、あたしよりも一緒にいる時間が長いんだし、恭平の行動を、他の誰よりも知り尽くしてるでしょう?」

 そう言いながら、エリカは、浮気なんて、まじ、ありえないからと鼻息を荒くする。

 可愛い顔して、本当に悪魔みたいな女だ。

 男が一番嫌うタイプの女なんだよな、束縛する女って。やきもち程度なら可愛いけど、彼女の場合、やきもちを焼く動機が不純だよ。

 そもそも恭平が好きとかいう以前に、男が自分以外の女に興味を持つことじたい、あり得ないって思っているんだから、性質が悪い。

 どんな可憐な花だって、この女の息にかかれば、たちまちへたっちまうだろうなあ。

 種まで啄んで、次の季節を待つこともなく、どんな草花も枯れさせてしまう。要するに、他人に愛情ってものを注げない生き物なのかもしれないって、俺はたまにエリカを見ていると、彼女の十年後の、けして若くないエリカを想像して、ひどく憐れんでしまう。

 こいつって、一生、このまんまなのかな。

 それでも、頭の上の天使達は微笑んでいる。

 大丈夫。生きる術を心得ているのが、女ってものだから。

 そうかも知れない。

 俺には、到底真似のできない芸当だ。

 



「天使」達の残影が脳裏の片隅にちらつくのを感じながら、バイト先での恭平を眼で追ってみた。

 けして、エリカに頼まれたからでも、エリカの為でもない。

 不思議と、エリカのことなんて、頭にない。

ただ、俺自身、最近、恭平が妙な動きをしているのに気付いて気になった。

 それで、エリカの、なんか恭平が怪しいという言葉に恭平の行動を重ねて見ると、改めて、自分でも、ここ数日の恭平がいつもと違うのに気付く。

 それにしても、女の直感っていうのは鋭いものだなあと感心するばかりだ。ただ、エリカに言われなくても、俺は多分、恭平の微妙な変化に気付けたと思う。何せ、小学校からの付き合いだ。何を考えているのか判らない奴が大半を占めている中で、恭平は判りやすい性格をしている。気が置けない間柄で、不思議と同じ場所で出くわす。

 一緒に連れ立って同じ大学を受験したわけでもないのに、キャンパスが同じ。この河合技研でバイトするのも、面接日にばったり出くわして、初めてお互い、バイト先が同じなのを知ったくらいだ。

 好きなものも、関心事も、育った環境も違うが、恭平とはなぜか同じ場所にいることが多い。

 恭平はお調子者のようにおどけて、パートのおばさん連中のアイドルよろしく、実に明るく好青年を演じている。スラリとした体躯に、微妙に大きさの違う眼を少女漫画の主人公みたいに、きらきらさせながら優しく笑い、お前、それ、うけでやってるだろうって突っ込みたくなるような下ネタトークで、欲求不満揃いのパートのおばさん達の好色そうな笑いを誘っていたのが、ある日を境に、生真面目な顔で(こて)を手にして、軽口も叩かず、もくもくとハンダー付けをしている。

 いつもの挨拶みたいに、四十過ぎの坂田さんが、恭平の尻を軽く撫でただけで、真っ赤な顔して本気で戸惑って見せた時には、俺は勿論、坂田さんが一番驚いて、それからは坂田さんも、洒落にもならないとばかりに、奴とは距離を置いている。

 最初は、恭平の相手は坂田さんかなと疑ってみたが、どうにも、恭平のタイプには思えなかった。

 いや、最初は、恭平って案外、女に対する許容範囲にかなり幅があるんだなって驚いたけど、恭平もやはり、自分に興味を持つ相手なら、年上だろうと、何だろうとあまり拘らない主義なのかって俺はそう、勝手に思ったりもした。十九歳の男なら、まあ、恭平に限って言えば、取り敢えず、全てに挑戦したいところなんだろうって。

 俺はそんな恭平みたいに、チャレンジャーでもないし、さほど女に対して貪欲なわけでもないし、人を好きになることは性欲の一歩手前にある未だ開かれざる小部屋のような空間が心のどこかにあって、その小部屋の扉がある日、前触れもなく開いて、ぞくぞくって感じの途方もない耽美な思いに身体中が熱くなるのを感じた時に、その感情に素直に従いたいって俺は思うから、恭平ほど積極的にはなれない。

 だからと言って、恭平が俺よりも一足も二足も速く男になったとしても、俺はちっとも羨ましいとは思わない。

 一緒にスタートラインに立つ必要もないし、友達と競う意味がまったく理解できない俺は、たかが女ごときで、大切な友達を失いたくないっていう気持ちの方が自分の気持ちの大部分を占めている。一見、可愛い小悪魔の代表みたいなエリカを彼女にしている恭平も、内心はいつも心に渇きを感じているに違いない。

 本当はあいつみたいな男こそ、真実の愛とやらに飢えているんだろうな。

 もしかしたら、俺はそんな恭平を見て、心のどこかで安心しているのかもしれない。最初から一緒にスタートラインに立てないと諦めている俺の、ほんのちょっと屈折した奴に対する小さな嫉妬を、俺は無理遣りにも胸に押し込めながら、恭平に缶コーヒーを手渡す。

 丸い壁時計が、休憩時間を指して、鳩が飛び出した。

 俺がエリカのことを口にしようか、一瞬迷っていると、俺の手から缶コーヒーが離れるのと同時に、恭平はもう、体をパートのおばさん達が談笑する方へと向けている。俺が恭平の名前を呼ぶよりも先に、恭平はおばさん達に手招きされて、そちらへと歩み寄って行く。

 なんなんだよ、あいつ。

 俺が訝しんでいると、どこからともなく視線を感じた。

 恭平を見送るのとすれ違いに、こちらに顔を向けている色白の、小奇麗な女性と一瞬、眼が合った。

 俺は咄嗟に、眼を瞬かせてしまった。

 恭平はその女性の隣に割り込むと、楽しそうな顔で、煎餅を頬張った。

 「翔太ちゃん、あんたもこっちで、ほら、お菓子食べなさいよ」

 古株の松本さんが、でっぷりとした躰を揺らしながら、俺に手招きをする。

 俺は折り目正しく礼を言って、松本さんから煎餅を受け取った。

 恭平は適度に、隣の女性との距離を愉しんでいる様子だった。話なんてどうでも良いのだろう、取り敢えず、隣の女性の傍で、明るくお茶目な男の子を演じているのだ。

 女性はそんな恭平に、ただ柔らかそうな唇を緩めるだけで、おばさん達の談笑の輪に交わりながらも、どこか心は、別の所にあるように見えた。黒目がちな大きな瞳は、静かな憂いを湛え、それは工房の白熱灯を受けて、長い睫毛に弾かれた光が、彼女の目元に微かな陰翳を作り出していた。

 「ああ、そうそう、翔太君、この人、今度新しく入ってきた長瀬日向子さん、宜しくね」

 松本さんの紹介を受けて、長瀬さんが遠慮がちにちょこんと会釈をした。

 「長瀬です。宜しくお願いします」

 幾歳なのか、正直、女性の年齢なんて言い当てることなんて出来ないけど、長瀬さんは、雰囲気と声がよく似合っていた。俺も、慌てて口に放り込んだ煎餅を噛み砕くと、

 「川上翔太です。こちらこそ、どうぞ宜しくお願いします」

 口にまだ微かに残った煎餅滓が飛ばないように、口元を抑えてそう挨拶した。

 「こいつ、俺の親友で、大学も同じなんですよ」

 恭平が俺に変わって、そう言った。

 長瀬さんは、恭平の言葉にも、俺にも特段、興味を持った風でもなく、ただお愛想のような優しい笑みを浮かべるだけだった。

 恭平は、長瀬さんの湯呑にお茶を注ぎながら、まだ、彼女の隣で愉しげに自分のことを話し続けている。その度に、黄色い笑い声がどっと沸いた。

 灰色の壁に囲まれた白熱灯の白々とした光の中で、ただ俺はこめかみに伝わる煎餅を奥歯で噛み砕く音だけを聞きながら、芝居を見る観客のような気分で、恭平とおばさん達の遣り取りに、視線を這わせていた。



 ロッカー室で着替えをしていると、恭平が、こちらが気恥かしくなるような顔でにたりと寄って来た。

「な、な、日向子さんって、素敵だろう?」

「ったく、お前、本当におめでたい奴だな」

つい最近、職場で知り合った年上の女性を、よりによってその人の苗字じゃなく、名前で呼ぶ恭平に、俺はいささか違和感を抱いた。

 「俺さ、なんか、バイト来るのが楽しくってさ、毎日でもいいなあ」

 「それよりさ、エリカがお前のこと言ってたぞ」

 「エリカ?」

 しまりのない顔が、途端に引き攣ると、大袈裟なくらいに、苦り切った表情を浮かべた。

 「ああ、そうだ、そうそう、エリカね、すっかり存在忘れてた」

 「お前、そんなこと言っていいのか?」

 「頼む、エリカには内緒な」

 「馬鹿言え、こんなこと、あいつに言えるかよ、どんなどばっちりがあるか、知れないのに。俺はお前と心中する気はないぞ」

 「で、あいつ、何言ってたんだ」

 「メールは五分以内に返信しろって」

 「ああ、面倒くせえ女だな、大体、俺はあいつの彼氏してるつもりねーし」

 「でも、あいつはお前のこと・・・」

 俺はそう言って、次の句を続けられずに口ごもった。

 でも、エリカも、本当はどう思っているんだろう。恭平のことも、俺のことも。なんとなく彼氏っぽくなったような、彼氏にさせられたような、でも、気付いたらあいつは恭平の所に行っちゃって。要するに、自分が一番愛されたいって奴なのかもしれない。

 「なあ、あの日向子さんってさ、なんか不思議な魅力ない?」

 「確かに綺麗だとは思うけど、それ以上の感情は湧いてこないよ」

 「そうだろうよ、お前みたいな、疎い男にはさ」

 「ばか、お前みたいな、ガキなんか相手にしてくれるわけないだろう」

 「やっぱそうかな?やっぱり、あの年代は、俺達みたいなテイーンエイジャーは、恋愛の対象として見てくれないのかな?って言うか、俺達、今、売り手市場だぜ」

 「当たり前だろう、あんまり、親しくし過ぎて、逆にがつがつしているって思われて、ドン引かれるぜ。大人の女は、男の裏腹な気持ちに酔うんだぜ」

 「へへ、お前、口ばっかりだぜ、どうせ、デイーンの受け売りだろう。ガっつかれて喜ぶのは、アバンチュールを愉しみたい人妻だけだ、女は目で落とせとか、今時、臭すぎるんだよな、昭和チックな輩の言うことは」

 「お前がチャラすぎるんだよ」

 恭平は、口をへの字に曲げて、大きく首を振る。

 「だけどさ、不思議だって言うのはさ、あんな綺麗な人がどうして、こんなすすけた町工場で働き出したんだろうって。なんか、浮いてるんだなあ。他のパートのおばちゃんとは雰囲気が違うし。なんて言うか、こう、今一つ、俺も踏み込めないんだな。他のおばちゃんみたいに、あっけらかんとした明るさがなくてさ、ちょっと影があるっていうか。パートのおばちゃんって、やっぱり、パートのおばちゃんっていう匂いがするんだ。でも、あの日向子さんには、パートのおばちゃんとは違う匂いがするんだなあ」

 「お前、何言ってんの?」

 「あ、俺、決めた」

 「何を?」

 「だから、日向子さんに恋、まっしぐら。彼女をもっと知りたくなってきた」

 「やめろよ。自分が惨めになるだけだぜ。それに、相手は大人だってこと、忘れるなよ」

 「おっとう、大人を舐めるなって、デイーンの口癖だろう」

 「デイーン、デイーンって、人の親父をなれなれしく呼ぶなよな」

 俺はそう言って、恭平を軽くこずいた。

 あ、痛ってえ。

 恭平が小さく喘いで、宙を仰いだ。もう、頭の中は、日向子さんのことを、妄想し始めている。 

 俺はエリカに、恭平のことをどう伝えたらいいのか、相手がエリカだけあって、卒論を書く以上に、これは厄介だなって思った。

 ただただ、恭平の悪い病気が始まったと思うしかないのか、どうせ、ただのほんの一瞬の青春の名を掠め取っただけの熱病だろうって、この時はそう思うだけで、さして深刻に受け止めることもしなかった。



 真夏の気だるさが宵闇に澱のように漂い、熱気を孕んだアスファルトを舐めるように一陣の風が吹き抜けて行く。オレンジ色の外灯に照らされて、煉瓦造りの喫茶店に明りが灯っているのが見えた。

 閉店時間をとっくに過ぎているというのに、まだ、店内には人気があった。

 いつもの常連客数人が、カウンター越しで親父と話しているのが見えた。

 「ただいま」

 その声と同時に、常連客達が一斉に俺を見ると、口を噤むように微かに眼を泳がす。

 俺は気にする素振りも見せずに、精一杯、笑顔で会釈する。

 「おう、お帰り」

 親父が、コーヒーを淹れているらしく、俯いたままそう言う。顔の表情は読めないけど、照明を受けて、サングラスの淵だけがぎらぎらと光っていた。

 コーヒーの香りが、そこだけを切り取るように空間に広がった。

 「バイトだったのか?」

 板金屋の田嶋さんが、ぎょろっとした眼でそう言う。

 「バイトと勉強、結構、結構」

 「うん、そうだなあ」

 隣でそう言葉を交わし合っているのは、バイク屋の山田さんとすっかり頭が禿げあがってしまった塗装屋の野沢さんだった。三人とも、親父と同級生で、昔は地元でも名の知れた暴走族のメンバーで、野沢さんは当時でも珍しい金髪に染めたリーゼントで、特攻服に身を包んで、改造バイクに跨っていたらしい。

 禿げたのは、髪を染め過ぎたせいだって、自分でも言っているくらい、禿げた頭のてっぺんを撫でながら、これが本当の若毛の至りだなと言って、中年の哀感をたっぷりと漂わせている。

 今では信じられないくらいに、三人とも、どこからみても普通のオヤジだ。その三人に共通するのは、みんな前歯が差し歯だってこと。

 そんな三人から、親父はデイーンと呼ばれている。どっから見ても和風の顔立ちだけど、(ひとし)っていう名前を音読みにするとジン、つまり、ジンをデイーンって呼ばせるかなり強引さはあるけど、まあ、親父ぐらいの世代にとって、矢沢の永ちゃんと、ジャイムスデイーンは「永遠の男の憧れ」らしい。そんな男の憧れに、親父も若い頃から傾倒しているらしく、デイーンになりきった生き方してるし。店の名前も、「エデンの園」ってくらいだから、相当にこのアメリカの映画俳優に入れ込んだんだろうな。俺は店に飾られているすすけたポスターしか見たことないけど、いつの時代も、いい男って普遍的なものだって納得する。男もどこか、何かを秘めているのが格好いいのかな?

それに親父は関東の暴走族の総代を務めたとあって、その顔には凄みがあるけど、サングラスの下には優しい円らな眼がある。寡黙で仏頂面下げてるもんだから、知らない人は親父の雰囲気に気迫されて、店のドアを開けた途端に、閉めちゃうけど。

 でも、大概のお客は殆ど常連さんで、地元の人ばかり。

 俺の後ろでドアが開くと、スカートの裾をひらひらさせながら、弘子さんが首にタオルをかけて、色気のない声で、

 「あら、翔太お帰り、これ、作ったから食べてよ。ねえ、デイーン」

 そう言って、お煮しめの鍋を俺に手渡した。

 「あ、旨そう、いつもすみません、ご馳走様」

 「ふふ、あんたもデイーンも料理が出来るって言っても、あたしのお煮しめには適わないわよ」

 弘子さんは得意気に、長い顔をほころばせて言う。どっから見ても、面倒見のいい土建屋の女房の風情だ。

弘子さんも元レデイースとかで、昔は相当にワルだったって言うけど、そんな面影もない。まあ、確かにお上品な感じはしないけど、世話好きで、人懐っこい笑顔を振りまく。

 多分、親父の年代、つまり、昭和の時代って、時代に抗うってことが流行だったのかもしれない。圧倒的な時代の潮流みたいなうねりがあって。でも、俺達の世代って、反発し合う磁力が個々にあって、小さな渦を散らすだけで、幾つもの台風の眼のような無気力さが漂っているような感じだ。

 無気力と無関心、俺を含めて、なんとなく他人とは深く拘れないような気がする。ともすれば、うざい、キモイって、妙な短縮語で形容されて、人間の感情ってそんな短い言葉で表現しきれないのに。もっと複雑でもっと奥が深くて横の繋がりがある筈なのに、みんなどこか物わかりのいい大人の振りして、何かに熱くなることもできずにいる。

 俺達の世代からすると、頭をリーゼントにして、ポマードの匂いぷんぷんさせて、だらりとした長い学ラン引きずって、ボンタンとかハマトラとか、サーファールックだとか、アイビーだとか、その当時の流行りが滑稽に見えるけど、そこには何通りもの顔があるように思える。でも、今の俺達って、どれもみんな似たような顔で歩いている。同じ顔で同じ服装で、もう、一歳違うだけで理解できない造語で他人を表現して、絵文字で自分の気持ち伝えて。

アニメから飛び出して来たような可愛さや格好良さがあっても、翌日には、記憶にさえない、顔じたいが存在しないような平成人間。

 でも、親父達を見ていると、今はそれぞれに味のあるいい顔をしている。

果たして二十年後の俺達の顔は、シミや皺があっても、味わいなんてものが出ているかどうか?

 恭平やエリカを思い出しながら、俺はそうぼんやりと思った。

 弘子さんが持って来てくれた鍋を台所に運ぶと、居間のちゃぶ台に、白いバラが一輪、飾られていた。

 俺はそれを見て、ああ、そうか、今日は、そう言う日かって思い出した。

 俺には理由は判らない。でも、毎月、十二日には、必ず白いバラを見かける。

 最初は母さんの命日だからだと思っていた。

 でも俺はある時期から、死んだ筈の母親の位牌はおろか、この家には仏壇さえないことに気付いた。

 でも、俺は親父にそれを指摘する勇気がない。お袋のことは、子供心にも、触れてはいけないんだって思った。

ずっと昔、俺はいつも毎回、親父が白い花を買ってくるのが不思議で、「お母ちゃん、白いお花よりも、赤や黄色のお花の方が嬉しいんじゃない、赤とか黄色の方が、心が幸せになるよ」

そんなことを言ったことがあった。

 子供の俺にしてみたら、花は赤や黄色っていう概念があった。白い花は、その姿以上に可憐だった。でも、強烈な色彩があってこそ、花はその生命力を誇示できるんじゃないか。

 親父と親子二人の家に、色ものが不足していたから、余計、白い花が葬式の花のように思えて物悲しかった。可憐だけど、どうにも辛気臭い。

 でも、親父は遠くを見るような眼で、何も語ろうとしなかった。

 広い背中を少し丸めて、暫く花を見つめていた。その横顔が放つ陰翳は、今でもはっきり思い出すことが出来る。

 その時だけ、親父はほんのちょっと、ジェームスデイーンに見えた。

 一体、誰のための花なのか。

 もしかしたら、お袋はどこかで生きていて、親父は今でもお袋を想い続けて、毎月十二日になると白いバラを買ってくるのかと、そう思っている。

 十二日って、親父にとって何の日なんだろう。

 親父はこのままずっと、白いバラの秘密を打ち明けずにいるつもりなんだろうか?

白いバラは、俺とは何の関わりもないのだろうか。

 いじらしいくらいに可憐な花を咲かせている白いバラは、のっぺらぼうの顔のように、無表情だ。

 まるで、顔のない俺達のように。

 

 

 

 弘子さんが作ってくれたお煮しめが、どーんと小さなちゃぶ台に、我が家で唯一の伊万里焼の大皿に載ってセンター張ると、その隣に小松菜の白和え、それにブリの照り焼きと、瞬く間に食卓が賑わい、皮肉にもバラの花が男所帯の侘しさを一層、際立たせているように思えるのは、俺の気持ちがどうにも気鬱なせいだからなのかも知れない。

 でも俺は、そんな自分を絶対に気取られないように、親父の前では何も気にならないように振る舞った。

 「旨そうだな」

 俺はへらへらと笑って、親父に、お疲れ様って、労いの言葉をかける。

 親父も、あー、疲れた。やっぱり、歳だなあ、立ち仕事がきつくなったなあ、なんて妙に、饒舌になる。

 親父はヤンキー気取っている割には、口数の少ない男だけど、滅多に愚痴ったり、弱音とも取られかねない言葉なんて吐かないけど、この時だけはそう呟く。

 「戴きます」

 親父が箸を取って静かに合掌するその様に続いて、俺も合掌。親父がお煮しめを突っついて、初めて俺も食事にありつける。

 いつしか、親父と俺の二人だけの食卓はそうやって、儀式めいた軽い前置きから始まる。

 飯を頬張り、だた無心になって食べる。

 そんな親父の姿に、俺はたまに不思議な感慨を覚える。

 なんでサングラス外さないのかな?

 今でこそ見慣れたものの、未だにリーゼントの髪型で、鶏冠みたいな前髪は、髪の量が減ったのか幾分、昔に較べると小さくなっているんだけど、なんだか二人でご飯食べていると、昔テレビで見たコントに出てくる食卓の風景みたいで、なんか、俺達、ギャグしてるって感じになって、なんて言うか、この風景を外側から見ている自分に気付く。

 昔のスタイルを絶対に変えない親父が不思議で堪らない。

 一体、この人、どんな生き方してきたんだろうって、漠然と思うことがある。

 勿論、親父のことは、店の常連さん達から色々と聞いている。

 親父は喫茶店のマスターやってるけど、元々、実家は明治時代から鳶職の看板掲げていて、曾お爺さん、つまり、親父の祖父って人は一本義な任侠に篤い男だったっていう話も聞く。物心ついた頃に、父親を病気で亡くした親父は、そんな義侠心の塊みたいな爺さんに育てられたせいか、ワルやっていたけど、一度も人を傷つけたことがなくて、喧嘩だって、売りはしないけど、売られた喧嘩はまとめて買ったらしいけど、その喧嘩も、仲間を救う一騎打ちばかりだったって。親父の武勇伝は、地元ならず、関東一円に轟いていたらしい。

 でも、喧嘩した相手と、不思議と仲良くなるらしく、今では昔殴り合ったっていう人がたまにお店に来ることもある。そんな人も、え?って思えるほど、今は普通にサラリーマンして、ちゃんと家族を養っている。

 俺達、なんであんなに、尖がっていたんだろうなあ。

 みんな決まって、そう口にする。

 苦いコーヒーを、ブラックで飲めるようになって、やっとコーヒーの味が判ったように、遠い昔の自分を、残像と共に押し流すようにして、カップにある琥珀色の液体を飲み干して店を出て行く。

 その後ろ姿を、親父はただ黙って見送る。

 出て行った男達の背中はもう、娑婆では孤独な戦士のように、もう別人のものだった。

 親父だけが、昔のままなのかな。

 そんな親父だからこそ、いつも親父を慕って誰かしら、店にやってくる。そんな親父のお陰で、俺も、みんなに愛されている。

 幸か不幸か、俺は母親の愛を知らないで育った。でも、不思議と寂しさはない。

 初めから母親を知らないのだから、そんなもの、寂しいかどうかさえも、判らない。

 お袋を恋しがるというよりも、むしろ俺は親父の偉大さに包まれているという確かな安堵感の中に浸って十九年間生きている。

 本当に、男が男に惚れる一瞬が、親父との生活の中で何度となく繰り返されている。

 小さなことには拘らない。つまらないことで、僻んだところで、人間は幸せになれない。

 全てを言葉にしてしまった瞬間、それらがただ、陳腐な音にしか聞こえないように、俺と父親の間には、会話らしい会話は生まれない。

 言葉はない。でも、同じ物を突っつき合っている。間合いに、箸の音が響く。

 飯を旨いっと言って、二人で笑い合って食う。胃の腑が満たされる。幸か不幸かなんて、そんなこと、どうでもいい。

 共に暮らしている。その実感が、連続して俺の中で血となり、肉となっているのだから。 

 「バイト、忙しそうだな」

 親父が、食後の玉露の入った湯呑を手にしながら、そう訊ねてきた。

 「うん、そろそろ新しい絵具が欲しいから」

 俺は、口の中の魚臭さを洗い流すように、玉露を含んだ。

 大学は法学部だけど、絵を描くのが趣味だった。親父は、俺が絵を描くことも、法学部に進んだことにも一切、口をはさまなかった。

でも、俺は自分が絵描きをやりたいのか、法曹の世界に行きたいのか、未だ、自分の道を定めることができないでいる。

 「あまり無理するなよ」

 「大丈夫だよ。ここ何年も、喘息の発作も出てないし」

 俺は喘息持ちで、たまに発作を起こすこともあるけど、喘息との付き合い方も判るようになった。ガキの頃は、みんなに甘えたくて、わざと発作になったような節もある。

 発作になると、弘子さんも野沢さんも田嶋さんも、みんなが心配して駆け付けてくれた。 

 「ああ、でもさ、今度、コーヒーの淹れ方教えてよ。俺もたまには、親父の店、手伝いたいし」

 すると親父は、鼻で笑って、

 「俺が喫茶店やってるからって、お前が店をやる必要はないよ」

 と、言う。

 「まあ、確かにそうだけど・・・」

 確かに、店は親父の人徳で()っているようなもんだし、みんな、店に来る人は親父に会いにコーヒーを飲みに来ているようなものだ。

 それは、自分でも判っているつもり。

 「俺だって、実家の家業は鳶だけど、俺は鳶職を継いじゃあいねえしな。けどよ、俺は、客商売って柄じゃない、だがよ、コーヒー淹れながら、ペラペラ喋るマスターなんて、俺は会ったこともねえ。黙ってコーヒー豆挽いて、コーヒー淹れて、お客の話をただ黙って聞いていればいい。コーヒーが不味いって言って帰って行く客はいても、店主が気にくわないって言って怒る客は独りも居ない。それを愉しいと思うかどうか、人それぞれだ。儲けを考えたら、けしていい商売じゃねえしな。だから、お前はお前で、好きな道を進めばいいさ」

 「うん、判ってる。自分の道を貫け、でしょう」

 でも、自分の生きたいような生き方って、本当は、親父みたいな生き方なんだって、たまに思う。

 本当は、骨が砕ける程に、相手と殴り合いのケンカしてみたいって思うこともある。

 でも、殴り合った後に俺は、そいつと仲直りする仕方も判らないし、人を傷付けずに生きることなんて出来やしない。

 どこかで、自分が傷付くのを恐れている。

いい人って思われていたいっていう甘えがある。

 俺は食卓にちょこんと、その存在を何気にアピールしている白いバラを見て、無性に色を付けてみたい衝動に駆られた。

 若さがある。時間がある。どんなことだって出来る。悲しみの原色さえ、ハッピーな色彩に出来る筈なのに。

 たまに自分に、限界を感じる。この中途半端さが、気色悪い。情けない。不甲斐ない。

自分らしくない。

 悪い人間になるって、本当はすごく勇気のいることなんだってことに、最近気付いた。

 そうやって思うと、やっぱり、エリカって、とてつもなくすごい女なんだなあ。

 そう、エリカのことが脳裏に過った瞬間、俺は、あーっと声を上げてしまった。

 驚いた顔の親父を尻目に、俺は慌てて、カバンの底に入れたままの携帯を取り出してみる。

 案の定、エリカからの怒りのメールが数十件と入っていた。




 翌日、俺は睡眠不足の頭のまま授業に出て、そして河合技研に顔を出した。

 欠伸を噛み殺す度に、こめかみががくがっくと鳴る。エリカの責め苦の言葉が、鮫の歯みたいに、茹だった脳味噌を削ぎ落していく。

 思考能力低下。

 不思議と、エリカの言葉で傷付くのは、心ではなかった。頭に来て、訳も無く苛立ってしまう。あの女の精神構造と俺のそれとは、全く違う。意思の疎通も、お互いの脳味噌の足りなさと、感度の悪い感受性のお陰で、どうにかお互いを傷付けても、悲しみとか失望とかいうものからは程遠い感情を保ててはいるけど、不愉快さが痛烈に俺の全身を掻きむしる。

 俺は、エリカの何なんだ?

俺は、なぜ、エリカに従わないとならないんだ。

 「報告がないじゃん、恭平の行動を監視して、あたしに報告しなさいよ!」

 「だから、報告することなんてないよ」

 「嘘ツキ。本当は報告出来ない事実があるから、報告しないんでしょう?」

 うっ。鋭い・・・。

 「浮気なんて、まじ、あり得ないから」

 「ふーん、お前の中で、あり得ないことなら、最初から、そんなもの存在しないんだから、あり得ないことをあれこれ言ったところで始まらないだろう」

 俺は、エリカを突き放すようにそう言った。

 「もう、何時だと思ってるんだよ。電話切るよ。俺、明日学校だし。お前もだろう」

 「ふん、翔太のバカ」

 そう言って電話を切っても、数分後には、携帯のベルが鳴る。うとうとしたなって思った所で、また起こされる。

 「ねえ。翔太。絶対に、まじで、ありえないんだけど・・」

 勘弁してくれよ。

 俺は、携帯握りしめて、仰け反った。

 今のこいつの心を鎮めるには、本当のことを言った方がいいのか。

俺は、眠気と闘う頭の中で、真面目に考えてみた。

 「あのさ、もし、恭平が本当に浮気していたらどうするの?」

 「まじで、あり得ない。殺す・・・」

 「たかが、浮気されたぐらいで、お前、人殺しちゃうわけ?って、言うか、お前達、本当に付き合ってるのか?」

 俺は、ぐわーん、ぐわーんって鳴る頭の中で、へらへらと笑ってみせた。

 「付き合っているとかそんなの、どうでもいいのよ!あいつが、あたし以外の女のところに行っちゃうってことが、あり得ないの!」

 俺にしてみたら、恭平がたった一人の女を追いかけることじたいあり得ない話。

 耳元で、キーキー、子猿の泣き声みたいに、何かをほざいているエリカの声が、段々と、遠のいて行く。

 気付いた時には、携帯の電源が切れていた。

 エリカから何度も着信があった。

 なんだか気の毒になって、「少しは落ち着いたか?」ってメールしてみたが、返信はない。

 恭平は相変わらず、長瀬さんを意識して、ちらちらと眼で彼女を追っている。

バイト終了の時刻。

恭平はどうにかして、長瀬さんと親しくなろうとあれこれ作戦を考えているらしい。

「今度、一緒にカラオケでもどうです?」

軽薄な乗りで、長瀬さんを誘ってはみるが、長瀬さんは、「行きたいけど、私、全然、歌えないの」そう言って、やんわりと恭平の誘いを交わす。

やっぱり、大人だなあ。

俺は長瀬さんの、そういう心遣いに、素直に好感を抱いた。

「はいはい、ガキはどいた、どいた」

そう言いながら、班長の澤田さんが、長瀬さんの肩を叩くと、

「長瀬さん、家まで送るよ。どう?車、乗ってかない?」

「すみません、有り難いんですけど、私、寄る所があるんで、どうぞ、お気遣いなさらないで、私は大丈夫ですから」

と、本当に済まなそうな顔で言った。

「あ、そう、ふーん」

なのに、澤田さんは、何か言いたげな顔で部屋を出ると、なんだか気づまりな空気だけが充満した。

俺は驚いた顔で、澤田さんの後ろ姿を見送ってから、長瀬さんの様子を窺った。

長瀬さんは、何を勘違いしたのか、俺にも済まなそうな顔で肩を竦めた。

俺は、ただ、そんな彼女を勇気付けたいと無意識に感じたのか、会釈して、彼女の帰宅を促した。

「へへ。澤田さん、フラれてやんの」

恭平は、可笑しそうに笑った。

「お前だって、人の事、笑えないぜ」

「あれは、カラオケだから断られたんだよ」

「飲みに誘ったって、断られるよ」

「しかしなあ、日向子さんって、ぐっと来るよなあ。男の誘いに、ほいほい乗らないってところが、痺れるなあ。あれは、テクだなあ。歳下の男を自分に引き寄せるテクニック」

恭平はそう言って、口の端をだらしなく緩めると、呆けたような顔をした。

「テクニックでもなんでもないよ。あれは、素だよ」

「ス?」

「そう、素だよ。本心から、お前の誘いも、澤田さんの誘いも断ってる。俺には、あまり、人とは関わりたくないようにしか見えないぜ」

「そんなことないよお。だって、日向子さん、俺を見る時の眼が、全然、違うんだ」

「何、ドジなことしてんだろうって、憐れみの眼で見てるんだよ」

「違いますう」

「それより、お前、いい加減、エリカに連絡してやれよ。もう、うるさくってかなわないから」

「え?エリカが?なんでお前に?」

「だからお前のこと、妙に怪しんでるぞ」

「なんで怪しんでるからって、お前のところに連絡するんだよ」

「知らないよ。俺も迷惑なんだからな」

「って言うかさ、エリカって、いつも、翔太、翔太、なんだよなあ。何かっていうと、お前に相談するじゃん、それってどういうこと?」

「知るかよ。そんなあいつのことなんて」

話の矛先がこっちに向く勢いを、俺は慌てて制するように、

「兎に角さ、長瀬さんは駄目だよ。あんな真面目でいい人に、ちょっかい出しちゃ、あの人が可哀想だよ」

そう言いながら、俺は長瀬さんの、ふと見せた悲しそうな顔を思い出した。

おれはその時、直感的に、彼女だけは傷付けてはいけないような気がした。




だから、絶対に、こんなこと許されないって。

長瀬さんを尾行しようとする恭平を、俺は本気で止めた。どこでどんな生活しているかなんて、知ったところでどうなるんだよ。

「だからさ、偶然を装って、お近づきになれるかも知れないだろう。長瀬さんの行動範囲知っておけばさ・・・・」

「ただのストーカーじゃねえか」

「何言ってんだよ、こういうのは、恋を進展させるための常套手段だろう、よく、ドラマでもやってるじゃねえか、まあ、そう堅い事言うなよ」

「今はな、時代が違うんだよ」

俺の話など聞く耳持たずで、恭平は大股で歩き続けた。

忙しない商店街を突き抜け、俺の家とは反対方向へとそのまま進むと、平坦な道の先には区画整理の途中なのか、端から端まで綺麗に見通せる一角があった。つい半年前まで、そこはビジネスホテルがあった場所だった。今はだだっ広い空間が出来て、そのお陰で、最近出来たばかりの城の形をしたラブホテルが、気恥かしくなるほどに、俺の視界に迫っている。

「ありゃりゃ、意外に、棲む環境には適してない界隈にお暮らしの様子・・・」

恭平も、遠くに見える、「白亜のお城でゴージャスな愛を!」と看板を掲げたラブホを不愉快そうに眺めている。

「って、お前の興味はあっちか!」

俺はそう突っ込みを入れた。

いつしか、長瀬さんの後ろ姿が、米粒大くらいになって、俺達はその距離を縮めようと歩調を早めた。

歩きながら、ふと、俺はずっと昔にも、これと同じことをしたのを思い出した。

三年生の頃だったか。茨城だか栃木だかから転校してきた女の子がいた。髪はぼさぼさで、そのくせ、頭のてっぺんは脂でべったりとして、ろくに風呂にも入っていないような薄汚ない感じのするその子は、いつも皺だらけのブラウスと同じ柄のスカートを履いていた。

俺と恭平、その他諸々の奴らが、その子の家に行ってみようって言い出した。多分、言いだしっぺは、この俺だったような気がする。なんかの話のついでに、その子のことが話題になった。ああ、そうだ、クラスの中で誰が一番可愛いかって話から、その子の話になったんだ。

あいつの家、貧乏なんだろうな。

どっかから夜逃げしてきたって話だぜ。

げ?まじで?超悲惨じゃん。

その頃の俺達の間では、ピンポンダッシュが流行っていた。家庭訪問にかこつけて、先生に付いて回って、クラスメートの家を見て回って、面白くない奴の家、気取った奴の家、ガリベンの家、お袋さんがモンスターみたいな強烈なインパクトのある家、そんな奴の家を狙って、フェンス伝いの門扉に付いているチャイムを押して、俺達は猛ダッシュで走り去る。

 だからって、どうこうするわけでもない。ワルガキ達の、暇潰しでしかなかった。だけど、俺はその時、どうしてもその子の家が気になった。

 その子の家の貧しさに興味を抱いたわけではなかった。ただ、その頃の俺は、みんな知っていたかっただけだった。俺はみんなの家を知っていた。だから、その子の家も知っておきたい。ただそれだけの興味だった。

 俺達は、放課後、その子の後を付けた。

 雨ざらしになったような色褪せた赤いランドセルが、湿った草いきれの充満する道に物憂いな表情で揺れていた。

 人通りの少ない路地に入って、そのランドセルが吸い込まれる一角へと飛び込んだ。

 小さな借家だった。

 子供の泣き声がひしめく中をヒステリックな母親の怒声が、ひび割れた勝手口の窓を震撼させるほどに響いてくる。

 その声に重なって、女の子の声が、哀願するように悲鳴を上げる。何かが崩れるような、大きな音と共に、「まったく、もう!」という女の声と同時に何かを叩く音、そして泣き声。なにやら物騒な物音が聞こえたと同時に、木目の合板が剥がれたドアが勢い良く開いたかと思うと、小さな子供が、まるでゴム毬のように転がるように出て来た。

 その場に蹲り、ただじっと地面を睨みつけた後、つと、気配を感じた様子で顔を上げた先に、俺の姿を見つけた彼女の眼が、羞恥心とも、憎悪とも取れる暗い目をじっと向けている。

 憤りを通り越して、物悲しさを湛えた黒目を見据えて、きっと俺を睨むと、彼女はすくっと立ち上がった。そして微動だにできず、その場に立ち尽くしている俺の脇を通り過ぎて行った。

 俺は気迫された。彼女にまとわりついている殺気だった哀愁に、圧倒されてしまった。

 恭平達は、怖れをなしたように後ずさって、驚愕の声を発すると逃げ出したが、独りその場に取り残された俺は、ただ茫然とその場に立ち尽くしたままだった。

 見てはいけないものを見てしまった心苦しさに、俺は吐き気を覚えた。

 その子はその日を境に、学校には来なくなってしまった。

 いつしか彼女は、あの小さな家ごと消えてしまった。

 今にして思えば、あの子はネグレクトされていたのだろう。

 俺はあの日を境に、梅雨時の、噎せるような地面から湧き上って来る土の青臭さを嗅ぐ度に、ふとあの時のあの子の眼を思い出して、後悔する。

 知ってしまうことで苦しくなる自分を、俺はあの日に置き去りにしてしまったままだ。

 本当のことを、知ったところで救われないことを、俺はあの日、あの子の瞳から学んだ。

「なあ、昔、俺らが小学生だった頃、中途から転校してきた女の子がいただろう?」

電信柱に身を潜めて、探偵気取りでいる恭平に、俺はそう訊ねてみた。

「いたっけ?そんな子・・・」

「ああ、いたよ」

「覚えてねえなあ」

恭平は考えることもなく、素っ気なく答えた。

長瀬さんの姿はもう、住宅街の風景に溶け込んでしまったように、忽然と消えて、熱風が、恭平の落胆した溜息をさらって、吹き抜けて行った。俺は、舞い上がる塵をまともに受けて、心のどこかでほっとしながら、夏風に吹かれていた。




俺の場合、十九歳の男としては、あまり行動範囲は広くないのかも知れない。横浜にある大学と自宅のある藤沢の往復。遊びはもっぱら横浜界隈で、バイトは地元の藤沢。

そうなると、休みの日は、横浜に出かける必然性がなくなるので、自然と地元をぶらつくことが多くなる。最近は、新しく出来た駅前の文房具店に立ち寄ることが多くなった。

別に何かを買うためではなく、そこにやってくるお客を見るのが楽しかった。

大半は、群れをなしてやって来る制服姿の女子高生達だが、その中に混じって、時折、湘南界隈に棲む有名な作家や、漫画家がやって来たりする。

特別、強烈なオーラを放って人目を惹きつけるとか、そんな雰囲気はない。むしろ日々、閉め切りに追われ、肌は土気色、徹夜明けの眼はどんよりとして、その風采は実に不健康そうだった。明らかに異質で、それこそが一種独特な匂いを放って、人の注意を引く。

どことなく危なそうな感じで、よくよく店主との会話を聞きながら観察してみると、その世界では名の知れた大先生だったりする。

後で家に帰って、ネットのウキペデイアとかで検索して、画像と実物を見較べたりして、密かに愉しむ。

まあ、悪趣味と言えば、悪趣味だな。

俺はなんの気なしに、狭い店内を一巡していた。だが、今日は収穫なしと思ってそのまま出口へと足を向けたその瞬間、見覚えのある女性の横顔を捉えて、凝視してしまった。

長瀬さんだった。

俺は声をかけようかどうしようか、迷ったが、挨拶ぐらいしても構わないだろうと、彼女が会計を済ませた頃合いを見計らって、「こんにちは」と声をかけた。

長瀬さんは、驚いてはみたが、ごく自然な微笑みを浮かべると、

「あらあ、こんにちは」

と、明るい声で答えてくれた。

「俺も、ちょっと文房具買いに・・・」

そう言って、慌てて、奥から適当なノートを一冊掴んでレジカウンターに置くと、会計を済ませて、長瀬さんと肩を並べて店を出た。

「へへ、レポート書くノートを切らしちゃって・・・」

そう言って、ノートが一冊入ったビニール袋を手に提げて、俺は照れ笑いを浮かべた。長瀬さんは、優しく笑って頷いてくれた。

「学生さんですものね」

「はい、一応・・・」

「何を専攻してらっしゃるの?」

「一応、法学部法律学科・・・・」

「すごいのね」

「いえ、そんなことないです」

一通り、社交辞令的な世間話が済んで、俺はその先、どんな話をしたらいいのか思案を巡らせてみた。エリカのような高校生なら、アイドルの話や学校のくだらない事柄や、人の噂話など、てんこもりんな、それこそ内容のない話で俺は饒舌になれたが、長瀬さんを前に、俺はただ口ごもるだけだった。

このまま会話が途切れてしまえば、長瀬さんは俺とは違う道を指し示して、それじゃ、また、そう言って、すげなく俺をこの場所に置き去りにするだろう。

何か、冷たいものでも食べませんか。

俺はそう、口にしようとして、長瀬さんの細い肩に視線を落とした。

柔らかそうな緋色のスカーフが、視界の先で揺れている。日差しに映えて、長瀬さんの白い顔が緋色に染まって見えた。

黒い瞳が静かに動き、眩しそうに眼を細めたり、瞬かせている。

何かを率先して話し出す雰囲気でもなく、長瀬さんは、俺にいろいろと話をして欲しいのかも知れない。

俺はあれこれと、話題になりそうなことを口にしてみた。

「仕事はもう、慣れましたか」

「いえ、まだ全然」

「そうですよね、まだ、始めたばかりですもんね。あ、でも、困ったことがあったら、なんでも言って下さい。俺、こう見えても、あそこではもう、一年働いてますから」

「ありがとう。頼もしいわ」

「ええ、あそこの社長、いい人ですし、職場の人間も、まあ、パートのおばさん達もなにかといろいろありますけどね、でも、ほら、主婦ですからね。普通にしてれば、普通にいいおばさん連中だし・・・」

俺の言葉に、長瀬さんは静かに頷いてみせる。

その反応に、俺は話題を急遽変更。

「あ、俺、絵を描くのが好きなんですよ。で、あの文房具店にもよく行くんです。あその店、けっこう、有名な作家とか、漫画家とかが通ってくるんですよ、知ってましたか?」

「まあ、そうなの?」

「うん、俺、結構、見たな。かなりの歳だったなあ。高校の教科書に載ってる小説書いた作家も来たりして、驚いたよ。でも、普通のお爺ちゃんで、俺、なんだか、ほっとしちゃったんだ。なんだ、普通じゃんって、だから、俺も小説書けるかなって思っちゃて。で、短編で、SFみたいなの書いたんだけど、やっぱ、これがなかなか上手く書けない。普通に見えるお爺ちゃんがすごい小説書けて、普通じゃない俺がなんで小説書けないのかなって、思っちゃいました」

「翔太君、普通じゃないの?」

「他の十九歳の男とは、多分、違うと思うし、世間一般の十九歳とは違うと思いたいんですけど・・・」

俺は恭平を思いつつ、口調を奴に真似て、どこかちゃらい感じでそう言ってみせた。

すると長瀬さんは、含み笑いを浮かべながら、

「私には、翔太君は普通に見えるわよ。そもそも、普通って悪いことじゃないもの。第一、普通って、最上級の幸福を表す一番の言葉だって思うわ。誰かと較べることで普通って言うんじゃなくて、特別って言葉も、他人から見てどうこうって言うんじゃなくて、あくまでも自分という一個人に対してのみ特別だって思えれば良いと思うの。私は普通って言葉がとても羨ましいわよ」

長瀬さんがそう言って、俺をじっと見つめた。

俺も、うんと静かに頷いて、照れ笑いを抑えた。

「あのう、どこかでゆっくりお話でもしませんか?」

会話の流れから、俺はごく自然にそう、誘い文句を口にした。何も唐突だとは思わなかった。だが、長瀬さんはひどく残念そうな顔をして何か言いかけた時、俺はひどい目眩に襲われ、体が硬直していくのを感じた。




気付くと、俺は薄い布団の上で横たわっていた。

全く見覚えのない木目の天井を、俺は暫く見つめていた。

「気分どう?」

「え?」

はっとして、半身を起こすと、長瀬さんの心配そうな顔が眼の前に迫っていた。

俺はどうやら、発作を起こしたらしい。

急に胸苦しさを感じてその場に蹲ったのは覚えているが、どうしてさして親しくもない女性に厄介になろうなんて気になったのかまでは記憶になかった。

「す、すみません。俺、なんか厚かましいことしちゃって」

喘息の発作を起こして、必死でポケットをまさぐって吸引薬を取り出して、遠のく意識の中で、俺は何か余計なことを口走ってしまったのではないかと、そう思っただけで気恥かしくなった。

「良かったわあ、大事にならなくて。私も突然のことだったから怖くなってしまって、救急車を呼ぼうかって言ったら、翔太君、大丈夫です、発作ですから、すぐに治まりますからって。どこかで休めば治まりますからって」

「はあ、俺、そんなこと言いましたか・・・」

「ごめんなさいね、わたしも気が利かないから、結局、こんなむさくるしい所に連れてきちゃって」

「むさくるしいって、ここは?」

俺はそう言いながら、四角い部屋を見回してみた。

台所と四畳半ほどの空間は、確かに、女性の部屋と言うよりも、アトリエのような雰囲気だった。

「私の部屋よ」

そう言って、長瀬さんは苦笑した。

「すみません、本当に」

「ううん、いいのよ、気にしないで」

俺はその言葉が、彼女の真心であることを信じて、ひとまず面目なさそうに項垂れた。

長瀬さんは、隅にある小さな机に向かうと、やりかけていた作業に取り掛かっていた。

俺はその横顔を眺めながら、何をしているのか、訊ねてみた。

「アクセサリーを作ってるの、銀細工の」

「へえ」

そう言って、俺は布団から這い出ると、暫し、彼女の手元を見つめた。

白くて、知的で、いかにも女性的な美しい手だった。

デザイン画が何枚も描かれ、そのイメージに近付けようと、長瀬さんは粘土を伸ばしたり、工具で切り込みをいれたりしている。

俺は彼女がなぜ、文房具店にいたのかが判った。

俺は、彼女が描いたデザイン画を何枚か手にして、驚嘆の溜息をついていた。

「あれ?これって、うお座のマーク」

そう言うと、長瀬さんはにっこりと笑って、

「よく知ってるのね」

と、優しい顔を向けた。

「ええ、俺、うお座だから」

「私もなの」

「へえ、本当?なんか、それだけで嬉しいなあ」

「うお座のロゴって、いいわよね。私、十二星座の中で一番好きなの。この一本のラインがね、二つを結んでいて・・・・」

そう言った長瀬さんの横顔に、俺は見惚れた。長い睫毛からは豊かな感情が溢れ出てきて、それは無防備なほど、俺の胸を高鳴らせた。

「私ね、これでも昔は、銀細工のデザイナーだったのよ」

「わあ、格好いいなあ」

俺は眩しげに、長瀬さんを眺めた。

「あのう、じゃあ、俺、買います。今日のお礼も兼ねて、何か買わせて下さい」

俺はそう言って、真っ直ぐに長瀬さんの顔を見つめた。そして、彼女が今まで作ってきた銀細工を見せて欲しいとせがんだ。

彼女は、丹精込めて作った作品を、快く俺に見せてくれた。

俺はその一つ一つを手に取って眺め、透かし、作品に込められた彼女の思いとやらに触れて見た。彼女はそれらの、彼女の分身である作品について、全てを語ろうとはしなかった。

買い手であるこの俺が、俺自身の感覚とインスピレーションで選ぶだけだった。

俺はその中で、やっぱりこれだって思うものを彼女に示して見せた。

「俺、これ、気に入りました」

うお座のシンボルマークをモチーフにしたペンダントを、俺はしっかりと握りしめた。

俺は、この人と繋がっていたい。

そんな風に思えた一瞬だった。

長瀬さんは、売り主というよりも、むしろ可愛がっていたペットかなにかを手放す時のような、愛着をもった表情で、そのペンダントを譲ってくれた。

なんだか、とっても大切なものを手渡されたような、思いがけなさに、俺は軽い興奮を覚えた。

その瞬間から、俺と長瀬さんの間には、眼には見えないうお座同士の絆が存在するように思えて、心が暖かくなった。




エリカから何度となく、恭平の行動を窺う詮索メールが来るし、恭平は恭平で、相変わらず、長瀬さんに興味津々の様子だった。

俺はエリカには、疑う余地はなしとだけ返信をし、恭平と会っても、長瀬さんのことが口の端に上らないよう、できるだけ彼女の話題を避けた。

バイト先でも、長瀬さんとは親しくなるような素振りを見せることはなかった。

彼女からペンダントを貰ったっていうことが、俺の中では、それだけで特別なことだった。遠くにいる相手を、近くに感じる方法なら、いくらでもある。

近付かない方が、長瀬さんをよく理解できそうな気がしたし、長瀬さんの態度も一貫して変わらない。

それが俺には、とても心地良かった。

ただ、俺は長瀬さんに一つだけ、自分の願いを叶えて欲しいって思うようになり、それを考えると、ちょっと憂鬱になった。

その願いを、彼女にどう伝えればいいのか、俺は思案に暮れた。

バイト先で話す内容でもないし、かと言って、簡単に会えるほど、まだそんなに親しくもない。親しくもないから、俺の頼みごとを、果たして長瀬さんは聞いてくれるだろうか。

俺は悶々とした思いで、過ごした。




俺は決意した。

今日こそ、長瀬さんに頼もう。

そう意気込んで、長瀬さんに俺の望みを託した。

バイトの帰り道、パートのおばちゃん連中の幾つもの視線が一つ、二つと遠のくのを注意深く確認しながら、程良い所で、俺は家路へと急ぐ長瀬さんの後ろ姿に追いついた。

そして俺は長瀬さんに、ピアスを作ってくれるように頼んだのだ。デザインは、自分で考え、それを彼女に手渡した。

「勿論、お金払います。ただ、デザイン料まで払えないんで、これでお願いします」

俺は恐縮して、頭を掻きながら、長瀬さんの反応を窺った。長瀬さんは、俺が書いたピアスのデザイン画を、職人のような眼付きで眺めている。つと、その眼を俺に向けながら、

「いつまでに仕上げればいいのかしら?」

と聞いて来た。

「いえ、あのう、急いでないです、自分用なんで、その・・・」

「自分用?」

そう言って、長瀬さんは視線を俺の耳に這わせると、不思議そうに眺めた。

「翔太君、ピアスよね?」

「ええ、そうです」

「どこに着けるの?それによって、大きさも考えないといけないし・・・」

そう言って、長瀬さんが俺の耳に手を伸ばした。

咄嗟のことで、俺は自分でも驚くほどに、びくついて、長瀬さんの指先に大袈裟なくらい反応してしまった。

「あのう、どこに着けたらいいんですかねえ?」

「翔太君、ピアスって言うけど、君、穴がないわよ」

長瀬さんは、背伸びをしながら、俺の耳をじっと見つめている。

「はい、ピアス未経験です。一度も開けたことないです」

そうなんだ。俺は二十歳までに耳に穴を開けて、ピアスを着けたいって、ずっと思っていたんだ。ただ、自分で耳に穴を開ける勇気もなかったし、第一、きっかけがなかった。 そんなことを長瀬さんに言ったら、この人はどう思うだろうか。

「二週間ぐらい時間貰っていいかしら?」

長瀬さんは、暫くの間、真顔で俺の耳たぶを触り続けていた。




耳たぶが性感帯だってことは、誰かに聞いて知っていた。でも、それはあくまでも、女が感じる部分であって、男には関係ないと思っていた。だけど、長瀬さんに耳たぶを弄られて、俺は体全身が性器と化したような錯覚に陥った。まるで、花粉を落としきった突起物だらけの雄しべのように、俺の中心が硬くなった。

長瀬さんに触れられた俺の右の耳たぶはまだ、恍惚とした感触の余韻を覚えている。

くすぐったいような甘酸っぱさと、もっと触れて欲しいって思う安らぎとまどろみの狭間で、俺は束の間、夢を見ていた。

早くピアスが出来上がるのを、心待ちにする日が続いた。

長瀬さんから、約束通り、ピアスを受け取る日が来た。

俺は、意を決して、長瀬さんのアパートに出向いた。

長瀬さんは、自信作を見せるようにして、俺に小さな小箱を差し出した。

中には、俺がデザインしたシンプルなボタン型のピアスが一つ入っていた。表面には、赤と青の色で、SとHのイニシャルを合体させたロゴが入っている。

翔太と日向子・・だ。

俺は、その小箱を受け取ると、座敷に正座をして、長瀬さんに右手に提げたビニール袋を差し出した。

「あのう、これ買って来たんで、宜しくお願いします」

「何?」

長瀬さんは、きっとコンビニで飲み物か何かが入っているんだろうって顔を綻ばせて、ビニールの中を覗き込んだ。

「まあ、ピアッサー・・・」

「はい。それで俺の耳に穴、開けてください、大丈夫です。消毒薬もちゃんと買ってきましたから」

長瀬さんは、一瞬、眉間に皺を寄せて、じっと袋を見つめた。

そんな長瀬さんを見ていて、俺は、ピアスに穴を開けさせることが、それほどまでに人に罪悪感を与えるものなのだろうかと不安な心持ちになった。

「あのう、駄目ですか?」

俺は、絞り出すような声で、訊ねた。

長瀬さんは、唇を噛みしめながら、小さく首を振って見せた。

「ほら、病院でよく、血液検査するのに、耳をパチンってするじゃないですか。っつうか、あのう、お医者さんごっこすると思って・・いや、お医者さんごっこじゃなくて、ナースになったつもり・・・っていうか、変だな、俺、何、言っちゃってるんだか、つまり、そのう、長瀬さんに穴、開けて貰いたいんです」

自分の思いを口にすればするほど、なぜか厭らしい響きになる。長瀬さんは、そんな俺を、軽蔑するでもなく、おおらかな表情で見ていた。そして、ピアッサーのパッケージを開けると、俺の顎に長い指を立てた。そして、俺の右反面を左に向けて両手で支え、ゆっくりと耳たぶを撫でた。

消毒薬を浸した脱脂綿で、俺の耳たぶは、何度も優しく愛撫を受けた。

傍らにある手鏡を俺に持たせて、どの位置がいい?と聞きながら、長瀬さんがマーカーで目印を入れる。

耳たぶの上、丁度尖った軟骨の下に、青いインクが滲んだ。

長瀬さんの吐息が、耳朶にかかる。俺は息がかからないように、小さく呼吸をしていた。

長瀬さんが、ピアッサーに手をかけた。

さあ、儀式が始まる。

俺の、人生「初ピアス」・・・・。

俺はゆっくりと眼を閉じ、全てを長瀬さんに委ねた。

ひんやりとしたピアッサーの感触が、小動物のあま嚙みに感じた。

俺は思った。

日常で繰り返される、なんの変哲もないピアスに穴を開けるという行為。だけれども、今の俺は、普通でありきたりな日常を切り取った風景の中で、ごく普通に繰り広げられる無数の男と女の交わりよりも、きっと隠微でそして崇高で濃密で、そして切ないほどに抒情的な肉体の痛みを感じながら、この美しい女性と交わっているんだと。

躰の奥底から湧き上る歓喜と陶酔が、今、この俺の躰に電流を走らせている。

この耳たぶは、俺の処女膜だ。

俺は一生、この痛みを海馬のどこかに留めておくに違いない。

夏の匂いを嗅ぐ度に・・・・。

いつまでも、忘れることのできない女性の面影と共に・・・・。





いつものようにバイトに向かうと、そこに流れる雰囲気が微妙に変わっているのに気付いた。

河合技研という極めて家族的な小さい町工場で、パートのおばさん達の、我関せずと背中を向けながら、いつも他人に低俗な関心を寄せているのが透けて見えるようで、むしろそんな態度が棘のように肌にまとわりついて、ひどく居心地が悪い。

休憩時間も、誰かが芸能人の不倫を持ち出して、そこはみんな、亭主持ちとあって、人の旦那に手を出すなんて、主婦を敵に回して、みたいなことを囁き合っている。

なんだろう。

俺は微かな違和感をずっと抱いていた。

だが、それもすぐに明白となった。

ロッカー室で着替えを済ませた時、俺の足元に紙屑が落ちているのに気付いた。

紙屑という表現は変だった。書き損じた紙切れと言った方がいいかも知れない。

俺はそれを、なんとはなしに読んでみた。

途端、自分の眼を疑った。

「長瀬日向子は、前科者です」

ワープロで打ち出された字に、俺は血の気が引くのを覚えたのと同時に、激昂した。

こんなことをする奴の検討は付いていた。

澤田だ。澤田に違いない。

長瀬さんにつきまとっていたかと思えば、最近は、ことあるごとに、長瀬さん独りを執拗に貶めるような嫌味を言う。

「人付き合い悪いよねえ、ま、仕方がないか、あんまり自由に出歩けないらしいから」

「ほら、あんまり人には言えないワケでもあるのかねえ」

「綺麗な顔して、お高く止まって。で、ああいう女はさ、途端に切れて、グサってやっちゃうタイプだよねえ」

バートのおばさん連中の輪に混じって、そんなことを言っていた澤田を、俺は何度か見たことがあった。

長瀬さんが、前科者?

事の真偽は別として、どうして澤田が、長瀬さんのことを前科者などと言うのだろう。

澤田はこの会社の一介の従業員に過ぎない。

なのに、奴はどうして長瀬さんの個人的な事

情を知ることができたんだろう。

澤田に社員の個人情報を漏らした共犯者がいるってことか?

俺はそれとなく、犯人探しを始めた。

長瀬さんは、陰を潜めて、ただじっと耐えながら仕事をしている。俺はそんな長瀬さんをなんとしてでも守りたいと躍起になった。

恭平でさえ、長瀬さんと距離を置いている。

奴も奴なりに、気を使って、社内の空気を読んでいるらしい。不条理ではあるが、これが現実だった。

大人の世界は、俺達ほどには複雑に出来てない。表向きの言葉の裏側が、本音であることの方が多い。実に明快な世界じゃないか。

だから、その人が白と言えば、本当はその人は黒だって言いたいんだということが推測できる。

疑ってかかれば、みんなが犯人のように思えた。

社長だろうか?

いや、会社の信用にかかわってくることを、わざわざ社長が、自分の会社に不利益になるようなことを振れ回るだろうか?

と、すると・・・。

「澤田に個人情報漏らしたのは、夏川のババアだよ」

俺と同様、犯人探しをしていたらしく、恭平がそう言った。

なんで、判ったんだっていう俺の質問を、得意げになって話した。

「俺さ、見ちゃったんだよ。二人があの、お城のようなラブホに入って行くとこ」

「え?」

「俺、前々から、澤田のこと怪しいって思ってさ、いろいろ探り入れてたんだ。だってさ、長瀬さんのこと狙ってただろう、あのいけ好かねえオヤジからさ、長瀬さんを守ろうって、俺は俺で考えてたんだぜ」

「だけど、あの夏川さんが?」

俺は素直に驚いた。

小さな零細企業そのままに、夏川さんはパートのおばさん連中の中でも地味な存在で、どう見ても不倫って言葉が一番似合わないタイプの女性に見えた。いつも化粧気のない顔で、長い髪を後ろでひっつめた陰気な感じの真面目そうな事務員。愛想もなく、ただもくもくと帳簿に向き合っているような色気のない中年女性と、癖のある中年男とが何を間違ったか、関係を持ったなんて、考えただけでも虫唾が走った。

「だけど、またどうして、夏川さんが、澤田に長瀬さんのこと言ったんだろう?」

「そこなんだよな。俺は幾つか、考えて見たんだ」

そう言って、恭平は、妄想癖を大いに膨らませたとあって、こう話し続けた。

「もしかしたら、二人の関係を、長瀬さんに知られちゃったのかも知れない。あの二人がよく使うラブホって、長瀬さんの家の方角だろう、当然、長瀬さんに目撃される可能性が出てくる」

「なるほどね、澤田はバツイチの四十男だけど、夏川さんは亭主持ちだ。旦那に告げ口でもされたらと思って、澤田に泣きついて、長瀬さんを職場から追い出そうっていうシナリオを作ったのかもしれないな」

「大いにあり得るな」

「絶対に、犯人は澤田と夏川だよ」

「だが、証拠がない・・・」

恭平の断言しきった言葉に、俺は愕然とし、自分の非力を痛感した。

が、俺はとても重要なことを思い出し、「あっ」と声を上げると、ポケットに丸めて押し込んだ、あの紙切れをまさぐった。

そしてそれを恭平に見せながら、

「おい、これ見ろよ、これが、この会社の事務所のОA機器から打ち出されていたか、追跡することは可能だと思わないか?」

「うん、うん、出来るよ」

俺の言葉に恭平が、相槌を打つ。

事務所が閉まる時刻がもうとっくに過ぎているというのに、俺と恭平は事務机にへばりついていた。

経理は社長の奥さんが担当しているが、パソコンを叩いている姿を俺も恭平も見たことがない。事務所にはパソコンが一台あるだけで、しかも夏川さんだけしか使わない。六十間近の社長も、ワープロはおろか、携帯電話さえ使いこなせないのだ。

俺と恭平は、澤田がたまに使う事務机の上のワープロを見遣った。

俺達は確信があった。

恭平が電源を入れてみる。パソコンと違って、古いタイプのワープロ機能には、パスワードを入力する必要がない。

恭平は、早打ちの名手とあって、俺が手渡した紙切れの文字の通り、

「長瀬日向子は前科者です」と打ち出してみた。

印字された文字は、一眼で、同じ機種のワープロで書かれたものだってことが判った。

俺はワープロのインクカートリッジを外すと、セロハンのインクリボンを引っ張った・

ほどなくして、「長瀬日向子は前科者です」と印字した跡がくっきりと残っているのを見つけた。

「おい、あったぞ、確かにこのワープロで、長瀬さんの中傷メモを作ったんだ」

そこには、俺が目にしていない別の文章も印字された痕跡があった。

「長瀬日向子は、不倫相手を殺害しようとして、殺人未遂で執行猶予三年・・・・」

セロハンのインクリボンから、白く剥げた文字を追うように、夢中になって読んでいると、俺を肘で小突く恭平の眼が泳いでいた。

気付けば、事務所の戸口に、澤田が毒々しい顔をして立っていた。

「なに?お前ら、あの長瀬って女のこと、もっと知りたいの?ん?どんなエッチするのかなあとか、好きな体位とか?あの女、相当変態だよ。言っておくけど、お前達みたいなガキの手になんて負えるような女じゃないよ。止めとけよ、あんな女。あれは、悪女、だって男を、刃物で刺しちゃったんだからさ、ブスってね」

そう言いながら、澤田が出歯の口元を卑しそうに歪めた。

「澤田さん、こんなことして許されるとでも思ってるんですか?」

俺は、澤田に向かってそう吠えた。

「あーあ、厭だね、尻の蒼い子猿は」

そう言いながら、澤田は、俺を埃かなにかのように、眼の前で、大袈裟に手で払う仕草をしてみせた。

「あんまりですよ。例え、犯罪者であっても、ちゃんと罪を償おうって、真面目に生きている人だっているんですよ。それなのに、そんな人の人生に水を差すようなことして、あんた、それでも自分が情けないとは思わないんですか?」

「ふふ、お前さあ、何言ってるの?格好つけるんじゃねえよ。ガキがまあ、生意気なことほざいて。いいか?殺人者に人権もクソもないんだよ。大体、俺はな、社長が親切ごかしで、前科者の世話をすることじたい、反対なんだよ。そのせいで、こっちの給料もかなり低く抑えられちゃってよ。真面目に生きたって、報われないのは、俺も同じなんだよ」

「だからって、夏川さんと不倫しているのを、長瀬さんに知られて、嫌がらせのつもりで、こんな中傷ビラばらまく必要が、どこにあるんですか?」

恭平の言葉に、澤田は目をひん剥くと、怒りに歯ぎしりをした。

「何だと!てめえ、もう一遍、言ってみろ。俺が不倫だと?ガキの癖に、誰に口聞いてると思ってんだ!」

そう言い終わらぬうちに、澤田が恭平の胸ぐらを掴みかけた。俺は怒りに打ち震えながら、襲いかかる澤田の襟首を掴むと、猛烈な一撃を浴びせた。

澤田の肉の薄い頬と、俺の拳が擦り合って、骨が砕けるような感触がした。

やばい、これ以上やったら、洒落じゃ済まなくなる。

そう頭のどこかで思いつつ、俺は怒りに任せて、澤田を殴り続けた。




全治二週間。

澤田は鼻の骨を折る重傷を負った。だが、俺を傷害で訴えるつもりはないと言ってきた。

事情を知った河合技研の社長さんの取りなしで、俺はなんとか、少年Aにはならずに済んだ。

親父は何度も澤田と社長さんに、頭を下げていた。

なんで、謝る必要があるんだよ。

俺は悔しさで、唇を噛みしめた。

こんな奴、土下座しろって言われたって、謝るもんか。

店の常連客も、俺が初めて人を、それも自分の父親と同じ年代の四十過ぎの大人を殴ったってことが、よほど衝撃的だったらしい。

「へえ、あの翔太がね」

田嶋さんは、心底驚いた様子でいる。

「いやあ、今まで、大人し過ぎたんだよ、喧嘩できるようになったってことは、あいつは男になったってことよ」

山田さんが、腕を組んでしんみりと言う。

大人達の眼が、俺に一斉に向けられる。

その好奇な、何か本音を言いたげなその眼は、俺が傷害で豚箱行きになってもなんら不思議ではないとでも言いたげだ。

やっぱ、「血は争えない」とでも言いたげだ。

「俺、悪くないよ、もういい子でいるつもりなんかないから」

「おっと、遅すぎる反抗かあ?」

「って、理由なき反抗でしょう」

「いあ、あの映画は痺れたなあ」

「ジェームスデイーンは、いいなあ」

じゃれ合って、漫才を始める山田さなんと野沢さんに、俺は仕返しのつもりで、呆れた一瞥をくれてやった。

「翔太、理由はなんであれ、お前は間違ってるぞ」

親父はそう、静かに言い放った。

「俺は間違ってなんかないよ。悪いのはあいつだ」

「例えそうであってもだ、男ってものは、拳を握ってぐっと堪えることが必要なんだ。それが、大切な人のためなら、尚更だ」

「そんなの、結局、自分が可愛いだけだよ。結局、父さんだって、俺が面倒起こしたら、困るんだろう。だから喧嘩するなって言うんだろう?」

正義のために、初めて誰かのために喧嘩したんだ。

どうして、デイーンは、そんな俺を男として認めてくれないんだよ?

「どうせ、俺なんか、服役囚の息子だから、心配なんだろう?」

「ええ?」

俺の吐き捨てるような言葉に、山田さん達は目を剥いて驚いた。でも、それよりも先に、デイーンの一撃が俺の頬に食い込んだ。

再び、男達の驚嘆の溜息。

束の間、真空管のような静けさが漂った。

「畜生!俺はもう、いい子でなんかいるもんか!誰からも愛されるなんて、そんないい子の振りなんか出来ないよ。俺は俺の道を行くんだ!」

「おい!翔太!」

「おいおい、あいつ、本当のこと知ってたんだあ」

「って、そこで認めちゃ駄目だろう」

そんな声が、店先に洩れるのが聞こえた。

段々と後ろ手に見えるエデンの園が、陸の孤島のように夕闇に浮かんで遠ざかると、俺は木の葉のような心細さで、暮れかけた街の、海原に似た闇を漂流していた。




「おう、翔太、どうした?シケた面して」

 背中越しに、どすの効いた野太い声を聞いた俺は、ぼんやりとした顔でその声の主を見遣った。

 街灯を背に、黒い人影は俺を見て、懐かしそうに笑いかけている。大柄で恰幅のいいその男は、ダーツと渾名された親父の悪友だった。いつも二言目には、「お前の親父とは、因縁浅からぬ仲さ」というのが口癖。

 「岩崎さん」

 俺は、そう口にした瞬間、もう、半べそをかいていた。

 「おう、ちょっと付き合えや」

 岩崎さんは不思議そうに俺を見たけど、あれこれと詮索するような言葉を口にはしなかった。元々、親父とは敵対関係にあった族の頭で、例によって、親父とぼこぼこに殴り合って、いつしか、無二の親友になった間柄だった。だから、親父と、岩崎さんは、妙に雰囲気が似ている。

 岩崎さんは、俺を、奥さんが経営するスナックへと案内してくれた。岩崎さんは解体業を営んでいる社長さんだった。まだ仕事帰りらしく、胸に、岩崎組と赤く刺繍の入った灰色の作業着を窮屈そうに着ていた。

 人気のない店内で、小さなミラーボールだけがくるくると回っている。

 「お前、また、背が伸びたなあ。この間会った時より伸びたなあ」

 岩崎さんは、相好を崩して俺を見た。

 人たらしと言われるだけあって、俺はこの人の前だと、つい何でもぺらぺら話ちまいそうだ。

 「腹、空いてるだろう?今、うちのになんか作らせてるから、食ってけや」

 「はい、すみません」

 俺が、ボックス席に岩崎さんと向かい合ってもじもじしていると、ノースリーブ姿の奥さんが、皿うどんを二つ盆に載せて厨房から出て来た。

 相変わらず、おっぱいの大きい女性だった。

 俺は眼のやり場に困った。若い女の子の胸の膨らみは、成長期だから大きくて当たり前だって思えて、さして意識せずにいられた。

でも、中年女性の胸の膨らみは、母性の象徴で、俺は見ているだけで落ち着かない。

 「あらあ、翔太ちゃん、いい男になったわねえ」

岩崎さんも、奥さんも、俺にしきりに、皿うどんを食べろと勧めてくれた。きゃっきゃと笑う度に、奥さんの大きな胸が揺れた。

不覚にも、皿うどんを食べて噎せる俺に、奥さんが屈み込んで俺の背中を叩く。

その度に、両眼に迫る胸の谷間で、妄想の中の俺は窒息しそうだった。

そんな俺を、岩崎さんは煙草を吸いながら、面白そうに笑って見ているだけだった。

空腹も満たされ、ひと心地着いた所で、岩崎さんは、さあ、何があったのか、言ってみろといわんばかりに、優しく微笑みながら俺を見ている。

ミラーボールに反射した光が、岩崎さんの後ろで、赤や緑色のステンドグラスの小窓を形作っている。

「俺、今日、初めて、デイーンに殴られたんです」

「ほう」

「俺、知ってるんです。デイーンが、俺の本当の親父じゃないってこと」

岩崎さんが、一瞬、表情を曇らせた。俺は岩崎さんの幾分、垂れ気味の眼を、恨めしい思いで見ながら、

「俺、知ってるんです。俺の本当の親父は、刑務所にいるって」

デイーンとは血が繋がっていないっていうのは、もうとっくの昔に知っていた。でも、本当の父親が、服役しているのは、つい半年前まで知らなかった。

俺は喘息の薬を探して、うっかり薬箱だと思って開けた煎餅の空き箱から、隙間なく詰まった手紙の束を見つけた。

その手紙にはどれも、桜の検閲スタンプが押してあった。だてに法学部の学生していない俺は、それが塀の中からの郵便物だってことも知っていた。

直感的に、それは俺に関係する人からのだって思った。でも、手紙の内容は、怖くて読めないまま、俺はその手紙を元に戻した。そして、ずっと知らない振りをしてきた。

でも、できることなら、知らない振りをし通すつもりでいた。なのに、俺は、デイーンを傷付けるようなことを言ってしまったのだ。

「そうか・・・」

岩崎さんは、眼を瞬かせながら、灰皿の中で暫く煙草を揉み消していた。

「お前、自分の親父がどうして、務所暮らしなのか、その経緯は知ってるのか?」

その言葉に、体が強張った。

殺人・・・。

刑期の長さを考えても、それくらいは想像が付いた。

「人を助けたんだよ」

「え?」

「人を助けようとして、逆に相手を死なせちまったんだよ」

岩崎さんの眼が、遠くを見るように小さな光を宿していた。

「当時、交際していた女性、つまり、お前の母親を助けようとして、男に殴りかかったんだが、男が倒れた場所が、運悪く縁石の上でな、後ろにそのまま倒れて、後頭部を打ち付けて、殆ど即死だった」

「そんな・・・理不尽な・・・」

「そうさ、お前の親父は、愛してる女を守ろうとして男を殴った。だけど、思い余って、相手を死なせてしまった。正当防衛だと主張したが、運悪くな、お前の親父には、鑑別所にいた履歴があった。だが、相手の男はごく普通のサラリーマンだった。どう考えても、お前の親父の方が、分が悪い。それでも殺人罪の一歩手前の、傷害致死ってことで判決が下った。不条理にも、お前の親父さんは、ずっと臭い飯を食っている。面会に行ったデイーンに、お前の親父は泣いて、自分のしたことを悔いたそうだ。悔しい、悔しいってな。頼むから、あいつを俺の代わりに守ってくれってな。お前を産んだお袋さんは、元々、デイーンの事が好きだったんだ。だけど、智宏がお前のお袋さんに惚れているのを知って、あいつ、格好付けて、自分から身を引いたんだよ。でもな、本当は、お前のお袋さんにぞっこん惚れているから、智宏が刑務所に入ってから、ずっとお前を自分の子供として育てているんだぞ。こんな世知辛い時代によ、親友のため、惚れた女のためって、どうしてそこまで仁義に篤い生き方するのか、俺にも判らねえがな、でもよ、損得しか考えられないなんて、面白くねえやな、人間ってよ、どっかで損して、どっかで得しているもんだろう。お前のこと、本気で守ってるんだぜ。あいつは何も言わない。だけど、あいつ自体が、言葉なんだよ。俺はあいつを見てると、そう思うよ。それによ、例え、お前の親父が、服役しているとしてもよ、デイーンみたいな真っ直ぐな生き方してる男が、こいつのためならって、一肌も二肌も脱いだ男なんだぜ、デイーンによ、そう思わせるような男ってのも、すげえ奴だって思えないか?」

岩崎さんの話に、俺はもう、頬に伝う涙を拭うことさえ忘れていた。

俺の脳裏に、走馬灯のように、デイーンとの思い出が甦る。喘息の発作で、真っ青になった俺を抱えて、狂ったように走り回って、町医者へと掛け込んでくれたり、クワガタを取りに行って、蛇に咬まれそうになった思い出。キャンプで、星を眺めながら、テントの中で一緒に嗅いだ夏の夜の涼やかな風の匂い。旨いと言っては、笑い合いながら無心で飯を食う、あの何気ない日常。デイーンの背中は広かった。デイーンの手の大きさ、温もりを、俺はどれほど頼もしいと思ったことか。デイーンを心底、カッコいい男だって今でも思っている。今だからこそ、親父の偉大さが身に沁みて、痛烈な一撃を喰らったような遣り切れなさを感じる。

親父の愛情が、俺には息苦しいほどだ。

デイーンが、俺の母さんを心底愛してくれていたなんて。

デイーンが、俺の本当の親父のために、自分の生き方を貫いてくれているなんて、そんなの、俺には重たすぎるよ。

 俺はどう、デイーンに恩返しすればいいんだよ。俺は、デイーンみたいに、でっかい器の男になんて到底、なれそうにもない。

デイーン、あんたがあまりにも、でっかすぎるよ。



 岩崎さんの話を聞いて、家路までの足取りは重かった。「エデンの園」の明りはまだ灯っていた。躊躇いつつ、ドアを開けると、親父がいつものように、カウターに立っていた。

 「ただいま・・・・」

 「おう、お帰り」

 親父はいつもと変わらない口調で、俺を出迎えてくれた。

 「さっきはすみませんでした」

 俺がすごすごと、上目遣いで謝るのを親父は見るでもなく、「コーヒー、淹れてやるから、飲んでいけ」と言って、ポットを胸元の位置で構えると、座れと、俺を顎で促した。

 ゆっくりとお湯を注ぎ、注いだ端からふわっと芳醇な香りが立ち上って来る。

 マイセンの白いカップに並々と注がれたコーヒーを、俺は英国紳士風にソーサーごと持って一口含んだ。

 苦み走った味が、口一杯に広がった。

 「岩崎さんから、俺の本当の父親と母さんのこと聞いたよ」

 「そうか・・・」

 親父は、半ば覚悟していた様子で、別段、驚きもしなかった。もう前から、心の準備ができていたという感じだ。

 「親父、初めてだね、俺のこと、殴ったの、今まで、俺がどんなに悪いことしても、怒らなかったのに・・・」

 俺はそう言って、はにかんだ。けして親父を責めるつもりでそう言ったわけではない。

 親父は、真顔になった。

 「お前が悪さをするって言ったって、それは所詮、子供の悪戯に過ぎなかった。どれも笑って済ませられることばかりだった。だから俺は、叱ることもしなかった。お前はちゃんと、事の善悪を見定めて、ガキの癖に、こっちが不憫に思うほど、大人達の眼を気にして、周囲に気を使って優しい子供でいようとした。お前は、薄々、気付いていたんだろうな。自分の居場所はここしかない。俺に捨てられたら、自分は生きていけない。小さいお前の眼は、そんなふうに俺に訴えているように見えたんだ。だから、俺は、お前が人を傷つけない限り、お前を叱りつけるようなことはしまいと、黙ってお前を見守ることに徹した。お前は、本当に、素直で心根の優しいいい男に育ったよ。バイト先での出来事だって、お前はちっとも悪くない。お前は正しい。だけど、そうとも言えないのが、法治国家の現実だ。確かに、お前が面倒なことに巻き込まれるなんて、まっぴら御免だ。でもな、俺は、お前を失いたくんだ。もう、懲り懲りなんだよ、大切な人と、ガラス越しでしか話せないなんて、そんなの、もう二度と味わいたくない・・・・」

 「父さん・・・」

 俺は込みあげる嗚咽を飲み込むのに必死になった。

 「あの白いバラもな、せめてもの懺悔の気持ちだったんだ。でもな、もう、それも終わりだ・・・・」

 親父はそうきっぱりと言い放って、

 「お前もあと数カ月で二十歳だ。あいつも、もう充分に償ってきた。犯した罪を、なかったことには出来ないが、いつまでもそのことに拘っている必要はない。だってそうだろう?俺達は生きているんだから。俺達は前を向いて、歩くしか他に道はないんだからな」

 静かにそう言って、二杯目のコーヒーを注いだ。

 薄明かりに、親父のその横顔が、老いを漂わせながらも、若き日の「デイーン」を彷彿とさせて唇を微かに震わせていた。

 

 


風向きのせいか、どことなく磯の匂いがする庭内を俺は、案内されるままに歩いた。

岩崎さんにお袋のことを訊ねると、岩崎さんは、知り合いの探偵に頼んで、母親の消息を調べてくれた。で、興信所からの報告書を渡され、母親が横須賀にいることを教えられた。

お袋は、俺を産むと刑務所送りになった父親のことと、育児の不安から神経を病み、長いことずっと精神病院に入院していた。今は回復の兆しも見え、自立するための施設に入所していると言う。

デイーンとは幼馴染で、絵を描くのが好きな物静かな女性だったよ。

気の毒になあ、親父さんが借金の保証人になったとかで、それまでやっていた事業も傾いちまったらしく、それで、高校の卒業を待たずに、川崎辺りの飲み屋で働き出したとか。

岩崎さんが、記憶の糸を手繰り寄せる口調で、言っていた。

智宏は智宏で、佳代子さんのために、真面目に大工の仕事に就いてな、朝だって早いって言うのに、佳代子さんを危ない目に遭わせられないって言って、ボデイーガードみてえに、毎晩、佳代子さんを家に送り届けて。で、翌朝には必ず、出勤して仕事をこなす。そんな智宏を、親方も気に入ってくれて、いつかは独立させようって、そう算段していた筈だった。二人でいつか必ず所帯を持つんだって、智宏の奴、そんなことを仲間内に言っていたらしいよ。あいつ、幸せだったんだろうなあ。そんな時よ、店を引けた佳代子さんに、ご執心の酔っ払いが、いきなり佳代子さんに襲い掛かってきて、それを見咎めた智宏が、その酔っ払いと揉み合ううちに、思い余って・・・。




「あちらの女性が、橋本佳代子さんですよ」

看護士がそう言って、俺を近くまで促した。

「橋本さん、あらあ、何を描いてらっしゃるの?」

看護士の言葉に、母は無表情な顔を向けるだけだった。

白く透き通るような肌が、夏の陽差しを受けて少し赤らんでいた。薄桃色のブラウスが若やいだ雰囲気を醸し出しているが、薄い胸元には、幸薄い女の一生が凝縮されていた。

少し猫背ぎみなのか、椅子に腰かけたその姿は、壊れそうなくらいに繊細で小さかった。

母は、遠くに見える相模湾を、暗い闇の如く、群青色に塗り潰していた。

「まあ、海を描いてらっしゃるのねえ」

看護士が、まるで幼稚園児にでも話すような口調で、母親と話しているのが堪らなく痛々しい。

俺は、母親から筆を取ると、

「ここ、赤色入れてみませんか?」

そう言いながら、パレットに赤と黄色の絵具を落として見せた。母親は途端に、眉間に皺を寄せ、明らかに不愉快な表情を浮かべたが、俺はそんなの、お構いなしで、

「ほら、見ていてください」

そう言って、母の手を取ると、キャンパスに赤色の絵具を走らせた。そして、その上に黄色を重ねてみた。

暗い闇に、光が満ちた。

海が悲しみの中で、呼吸し始めたようだ。

悲しみの原色さえも、幸福な色を滲ませている。

「うん、これだ。生きてるって感じがするでしょう・・・」

俺はそう言って、じっと母親の眼を見つめていた。母親の眼は、驚嘆とも、怒りとも判別のつかない色を浮かべている。ただ、瞳の奥底に、遠くに見える海よりももっと深い闇が広がっているように見えて、俺の胸は苦しくなった。

どんな思いで、この人は生きて来たんだろう。

悲しみや苦しみや絶望が、すべて形になったのがこの眼の前の女性だとしたら、それはあまりにも愛おしすぎる。

俺は震えた。母親の瞳の色に怯えた。

母親の顔が一瞬、強張り、彼女の脳裏で何かが交錯したのだろうか。

はあと小さく息を吐くと、しきりに、「トモヒロ」と呼んで、俺の首に、細い腕を絡めると、ものすごい力でしがみついてきた。

薄い、枯れ葉のような躰だった。

俺は戸惑った。

ぶらりと下がった両腕を、この場合、どうしたらいいのかと、母親の躰を抱きしめてやるべきなのか、そんなことを考えながら、すっかり困惑しきっていた。

母親のコシを失った長い髪が、鼻先を掠めた。あるかなしかの体臭がする。

柔らかな甘い匂いとは全く異質の、生身の人間の匂いがして、俺を混乱させる。

この人の腹から出たって言われても、心のどこかでそれを否定する自分がいて、俺はまたパニックを起こす。すとんと抜け落ちた俺と眼の前の人との間にあった日々の残骸をかき集めたくらいでは、埋まることのない空白の季節。俺は大人になり、そして母親は年老いた。俺の中では、母親はもう、既に劣化した存在になっていた。

それでもこの人は、俺の中に、嘗て愛した男の面影を見て、何度も何度も、うわごとのように、俺の実父の名を呼び続けている。

違うよ。母さん、僕は、翔太だよ。貴女の息子の翔太だよ。

独りの女の生きざまが、人生そのものが、どんと体ごと、俺の胸に飛び込んできた、生まれて初めて味わう衝撃だった。

俺は、その命を、受け止めることに、躊躇いにも似た痛みを覚えた。

母親の胎内から生まれて来た筈の俺の命が、今、そっくりそのまま、俺の胸に丸ごと飛び込んできた瞬間・・。

ああ、なんて愛しいくらいに切ないんだ。

俺は叫んでいた。

心の奥底で、愛しい人を呼んでいた。

母さん!



 

長瀬さんは、もう河合技研に姿を現さなくなった。俺は責任を感じて、何度も彼女のアパートに足を向けた。

電話をかけた。

何度も、会って話がしたいと、留守電にメッセージを残した。

俺が澤田さんを殴ったことで、却って事を大きくしてしまったに違いない。

どうしても彼女に謝らなければならないと思った。

アパートの呼び鈴を押しても、長瀬さんの姿はなかった。今日は会えるまでは帰らないと決め、アパートの軒下で、彼女の帰りを待っていた。

小一時間ほどすると、路地の向こうから、白いブラウスが眩しいほど際立って、夏の陽を反射させながら歩いてくる長瀬さんを見つけた。俺よりも先に、目敏くこちらへ視線を向けている長瀬さんは、一瞬、立ち止まると後ずさった。

「あ、ちょっと待って」

膝を抱えてぼんやりと呆けていた俺は、立ち上がるとふいな目眩に襲われた。

あまりの蒸し暑さで半ば、脱水症状。

長瀬さんも、そんな俺の異変に気付いたのか、遠ざかる距離を再び縮めると、心配そうな顔で駆け寄ってきた。

「翔太君、しっかりして、ちょっと大丈夫?」

「すみません、冷たい水を一杯・・・」

「もう、無茶苦茶な人ね、キミって子は」

長瀬さんが、ビニール袋に氷を詰めた即席氷枕を作ると、俺の首筋を冷やしながら、そう言う。

「すみません。ただ、俺、ちゃんと謝りたくて」

俺は恐縮しながら、キンキンに冷えたコーラを一気に喉に流し込むと、ゲップを必死で抑えた。圧縮された炭酸が逆流して、鼻に抜けると、眉間に強烈なパンチを食らったような痺れを感じた。

結局、俺は、耐えきれずに小さなゲップを吐き出した。

長瀬さんは、そんな俺の様子を微笑ましそうに見ている。

俺はその笑顔に潜む孤独を察すると、胸が痛んだ。

暫く、厭な沈黙が流れた。何をどう話していいか判らず、俺は手持無沙汰も手伝って、ただ、グラスに残った氷を頬張っては、がりがりと音を立てた。

「もう、河合技研は辞めたんですか?」

「実はね、今日は保護司の先生の所へ面会に行っていたの」

「保護司・・・・」

「そうよ。翔太君、法学部だから判るでしょう?」

「ええ、まあ・・・」

俺は曖昧に笑って、長瀬さんの顔を見つめた。

「前科者っていう噂、あれ、本当よ」

長瀬さんは、観念しきった様子でそう切り出した。でも、俺は顔色一つ変えることなく、彼女の瞳を見つめていた。

例え、長瀬さんが前科者だからって、それが何だって言うんだ。

俺はそう、心の中で反発した。

「私ね、不倫相手の男性を刺したの。奥さんの居る人を好きになって。よくある話でしょう、普通に、どこにでも転がっているような男と女の話。でも、相手の男の脇腹に包丁突き立てたその瞬間から、私の中の日常が一気に、歪んでしまった。私はその瞬間から、愛している男はおろか、自由も、それまで築いてきた信用さえも失ってしまったのよ。馬鹿な女でしょう」

長瀬さんの顔が、みるみる紅潮していく。

俺はじっとただ黙って、彼女の顔を見つめてた。

だから?

「そんな眼で見ないでよう、馬鹿な女だって笑えばいいでしょう?ほんのちょっと、男の気持ちを確かめたかっただけなのよ、死んでやるって包丁を喉に当てて、死ぬ振りしたら、あの人は奥さんじゃなく、私を選んでくれるんじゃないかって、本気だったから、愛してたから、彼の本心を確かめたかっただけなのよ。だから彼が私から必死で包丁を取り上げようとした時、とても嬉しくなって、私、ますます図に乗って、もっと彼を苦しめようって思っちゃって。本当に首を切りつけたのよ。ねえ、その時の傷跡よ」

そう言って、長瀬さんは、いつも首に撒いているスカーフをするりと取ると、引き攣れたような紫色の切り傷を見せた。

「感情が高ぶってね、もっと彼を困らせようって包丁を突き立てたらね、彼の方から包丁の刃を押し当てると、そのまま体重をかけて来たの。笑っていたわ、彼。私を嘲笑ったまま、その場にへたりこんで。奥さんには、最初から最後まで散々、詰られた。色恋沙汰はね、結局、惚れた方が悪いって相場が決まってるのよ。どんなに真剣に愛しても、見境なく、自分を見失ってしまうほどに相手にのめり込む程に深く相手を愛しても、法廷に晒されれば、常軌を逸した行為って括られるだけで、私がどれほど苦しんだか、どんなに孤独だったかなんて、そんなこと、誰も問わない。ただ、殺意があったかどうか、その一点にだけ、男と女の真理を求めて。

殺しても、殺しても、殺し足りないくらいに憎い男。でも、愛しているからこそ、湧き上がる自然な感情よね?好きだから憎いのよ。でも、どんなに憎くても、殺したくても、殺してもいいなんて道理はないのに。私ったら、本当に、馬鹿よ。あの日、私は一瞬にして全てを失ってしまったんだから。私だけじゃない。私に拘る全ての人達の人生を、一瞬にしてあの日、私は変えてしまったんだから」

「長瀬さん、もう、お願いです。もう、これ以上、自分を責めないでください。もう、充分でしょう、貴女が一番、苦しんだんだから、もう、これ以上、自分を責めないで」

「貴方みたいな、温室育ちの世間ズレしてない子供に何が判るの?」

「俺は判りますよ。長瀬さんの気持ちが、痛いくらいに判りますよ」

「いいわよ。同情しないでよ、これ以上、惨めな気持ちにさせないで。貴方みたいな純情な男の子と居ると、なんだかこっちがとても汚ない穢れた生き物みたいに思えて切なくなるから」

「そんな、長瀬さんは、穢れてなんかない!汚なくなんかないです」

「私みたいな女は、陽の当たる世界では暮らせないのよ。自分が惨めになるだけ。結局、再出発したくても、前科者ですっていう見えない文字が貼りついてるの。それで、問題が起きる度に、大切な人を失うのが辛いし、迷惑かけたくないの。もう、誰も、二度と傷付けたくないの。私、このまま消えて無くなりたい!」

「長瀬さんは、美しい。例えなんであれ、どんな生き方してきたって、長瀬さんは、長瀬さんだ、貴女は美しい!それでも貴女は美しいんです。僕の本当の父親も、殺人で服役してます。母さんは、精神を病んで、まだ病院の施設にいます。でも、僕はそんな二人を嫌いじゃない。二人供、美しいんです!、可哀想なくらいに、痛いくらいに、美しいんです。俺が二人を美しって思えなければ、俺自身の存在自体が、虚しく思えちゃうじゃないですか!人間って、そんなに立派に生きる必要があるんですか?無様に生きちゃいけないんですか?格好いいきれいな生き方ってなんですか?いいじゃないですか、貴女は貴女で、苦しくっても、辛くても、生きてるじゃないですか!生きるってそういうことでしょう?貴女は美しいんです、それでも美しいですよ!惨めなんかじゃないです!」

俺の告白に、長瀬さんは口元を覆って、涙を一杯溜めながら、俺の胸に飛び込んできた。

細い身体が、小刻みに震えている。

どれだけの孤独と歳月が、この人の心を、凍てつかせたんだろう。

俺も少し前までは、傷を舐め合うような生き方は惨めだって思った。

でも、傷を舐め合うことで、強く生きられる人もいるし、世の中の大半は、そうやって自立の名の元に甘え合っている。だけど稀に、傷さえも隠すことなく、全てを受け入れて、じっと耐えたまま逞しく生きている人だっている。そういう、本物の強さを持って、前を向いて歩いて欲しい。

「この銀細工、素敵ですね」

貝殻を思わせるようなアクセサリーを手にしていると、長瀬さんは、

「いつか、娘にあげたいって思って、ずっと作り続けているのよ」

と、言った。

「娘?」

「ええ、私、三歳になる娘がいるの。でも、その娘とはもう、会えないのよ」

長瀬さんは、そう押し黙ったまま、小さな貝殻を模した銀細工に込めた淡い夢をぎゅっと握り潰すようにして、俺から銀細工を拾い上げた。

俺は、もう、それ以上、彼女の口から何も聞き出すような真似はできなかった。




河合技研に立ち寄り、バイトを辞めることを社長に告げると、俺は一様に、お世話になった皆さんにお礼を言って回った。

パートのおばちゃん連中は、澤田さんに気を使っているのか、あまり俺の眼を見ようとはしなかった。それでも、口ぐちに頑張ってねとか、元気でねとか言う言葉をかけ、すぐに休めた手を動かした。

澤田さんは、俺に不快な一瞥を寄越したが、俺は正々堂々と澤田さんの前に立って、「お世話になりました」と頭を下げた。

それでも澤田さんは、口をきいてはくれなかった。

でもいつか、澤田さんも自分の懐の狭さに気付く日が来ればいいと、俺は心の中でそう願った。

帰り際、松本さんに呼び止められた。

松本さんは、大きな躰を揺らしながら、俺を社員用通路へと腕を引っ張ると、

「これ、あんたのでしょう?」

そう言って、手の上にペンダントを広げて見せた。

俺は、あっと声を上げると、松本さんはこくりと頷いた。

「事務所に落ちてたの、見つけたのよ。あんたが付けていたの、覚えていたから。良かった。返せて」

と、サイのような円らな眼で、松本さんは俺を見上げている。

「長瀬さんのことね、みんな、同情はしてるのよ」

いつもは冗談ばかり言って、若い男の尻を触って喜んでいるような、どこにでもいる主婦が、神妙な顔を向けながら、

「ほら、うちの社長、前科ある人とか、少年院に居たとかいう、そういう人達の世話をするの好きだから、ここにはね、そういう人達が、今までにも何人も来たのよ。長瀬さんが初めてじゃないの。他にもいたのよ。だから、あたしも、前科のある人とかって言っても、最初は怖かったけど、一緒に働くうちに、ああ、普通なんだよなって思えるようになったのよ」

そう言う松本さんの丸顔を、俺は新鮮な心持ちで見つめていた。

「だからね、あたし達でさえも、いつだって犯罪者になれちゃうのよ」

そう言って、松本さんが俺の手をぐっと掴んだ。

「翔太君・・・元気でね・・・」

「はい・・・」

松本さんは、名残惜しそうな眼差しを残して、工房へと戻って行った。

きっと、言いたいことはもっと別にあったんだと思う。でも、言ったところで、説教にしか聞こえないと思ったに違いない。

そう、罪を犯した人達はみんな、普通の人達なんだ。普通に俺達の隣で普通に生活している人達なんだ。だから、罪を犯した人が特別でもなく、罪を犯さないで普通に生活している俺達は、ただ、運がいいだけなんだ。

俺だって、あの時、澤田さんが運悪く死んでしまったら、今頃、こんな所にはいられない。

単調な日常生活の中で、ほんのちょっと何かが狂った人と、そうじゃない人の、ただそれだけの違い。

俺達が生きているこの世界は、そういういくつもの偶然の連続が繰り広げられている。

どんな人と出会い、どんな場所へ行くか、どんな道に進むか・・・・。

俺はただ、運よく、出会う人に恵まれているだけなのかもしれない。

俺は長瀬さんから貰ったペンダントをぎゅっと握りしめると、挑むように前を見据えた。

あれ?

弦チャリのエンジンを軽く吹かしながら、恭平がこちらに向かって来るのが見えた。

「よお」

恭平の方から声をかけてきた。

にたりと笑った口の端で、白い八重歯がのぞく。俺は、その八重歯を久々に見た。

「バイト辞めるんで、挨拶してきた」

「ふーん、そうか。辞めるのか」

「ああ、辞める。勉強しないと」

そう言うと、恭平は眩しそうに眼を細めて、俺に何か言いたげな顔をした。

「長瀬さん、元気かな?」

「え?」

恭平が、日向子さんではなく、ナガセさんと、苗字で呼ぶのに驚いた。恭平の中で、彼女に対する隔たりでもできたのだろうか。

「元気・・・だといいよね」

「何かあるって思っていたけど、だからこそ、俺、軽い感じで仲良くなりたかったんだけどさあ、深刻ぶったら、却って、彼女を傷つけるんじゃないかって思ってさ」

恭平はヘルメットを脱ぐと、軽くウエーブのかかった髪を手櫛で撫でつけた。茶髪だった髪が、黒に戻っていた。

「あの人、子供がいるんだってさ。澤田がさ、長瀬さんのこと、パートのおばちゃん達にペラペラ喋ってたよ」

「そうなんだ、澤田がね・・・」

「施設に居るんだってさ、母親が犯罪者だからって、育てることが出来ないだろうからって、無理やり彼女から子供引き離したって、そんな話だった・・」

恭平の話を聞いて、俺はふと、長瀬さんと一緒に歩いた時のことを思い出した。

初めて長瀬さんから、散歩に出ようって誘われて、静かな街並みを歩いた事があった。

ポブラ並木の続く坂道を登りきった辺りで、子供のはしゃぐ声が風に乗って聞こえてきた。

長瀬さんは、自分の背丈ほどのフェンスの隙間からじっと、まるで誰かを探すような眼で園内を見ていた。

教会が運営している養護施設だった。

俺はその時、さして詮索するつもりもなかったけど、今にして思えば、俺を誘ったのは、独りでいるよりも、誰かと一緒に園内を見ている方が、怪しまれずに済むと考えたのかもしれない。それこそ、歳の離れたカップルが散歩の途中で、園内の様子を眺めているとでも思われようとして、必死でわが子を探していたんだと思う。

「母親だもん、子供と一緒に暮らしたいだろうな」

俺はそう、呟いた。そしてそう呟いた刹那、はっとした。

「なあ、恭平、エリカ・・・」

「な、なんだよ、今、長瀬さんの話してるじゃん、エリカがなんで出てくるんだよ」

「違うよ、エリカ、あいつの家、確か、幼稚園経営してなかったか?」

「ああ!そうだよ、あいつんち、すげえ、金持ちで、いくつも学校経営してるって」

「って、言うかさ、坂の上に、ほら、なんとかっていうキリスト教みたいな名前の施設があるじゃん、あれって、エリカんちのじゃねえか?」

「そうだよ、あいつ、超アクマだけどさ、家ではアーメンって真面目くさった顔でやってるって、言ってたなあ」

「おい、恭平、ここは、エリカに脱いでもらおうぜ」

「あいつが?無理っぽいよ」

「っていうか、お前、エリカの奴隷になれ」

「無理、死んでも無理!」

「恭平、お前、一度は長瀬さんを、日向子さんって呼んでたじゃねえか、あの時の彼女に対する思いは、嘘だったってのか?」

俺は、恭平の胸ぐらを冗談めかして掴んだが、どこか口調が、デイーンみたいになっているのに気付いた。




俺と恭平の懇願に、エリカは腕を組みながら斜に構えて俺達を見つめている。

「ふーん」

「ふーん、じゃなくてさあ」

エリカは柔らかそうな白い頬を、優越感で膨らませながら、

「確かに、坂の上にあるセントマリアあすなろホームは、エリカのお爺ちゃまが経営してるけど」

と、その言葉に、俺と恭平は顔を見合わせて喜ぶ。そんな俺達を、エリカの漆黒の瞳が、切っ先を向ける様な鋭さと、訝しげな色を宿しながら、

「あのホームは、事情があって親と一緒に暮らせない子供達の唯一の砦よ。そこんとこ、あんた達は、土足でずかずかと、入り込むつもり?」

遊び半分で、なまじ子供の心を傷つけたら、ただじゃおかない。

エリカは居丈高な表情で、俺達を見つめる。

こんなエリカを、俺は見たことがない。

こいつ、本当は、根っこには人間らしい血の通った優しさがあるのかも。

「冷やかしとか言うんじゃないよ」

俺はそれまでへらへらした態度を改めて、エリカに媚びたりへつらったりした口調を止めにした。こいつとは、きちんと向き合って、自分の思いを伝えたい。こいつなら、理解してくれそうな気がした。

「バイト先で知り合った女性のお子さんが、あすなろの家にいるんだ。その人、事情があって、お子さんとは会えないから、せめて一度でいいから、親子の対面を果たさせてあげたくて・・・」

「その人が、そう言ってるの?」

「いやあ、あのう」

「その人が、自分の子供に会いたいって言ってるの?」

俺は口ごもった。

「だったら、止めときな。大きなお世話でしかないから」

ぴしゃりと言って、エリカは立ち去ろうとする。

「ちょっと待てよ」

「エリカ、お前ってやっぱ、薄情だよな」

恭平の言葉に、エリカはきっとした眼を向けながら、

「あんたねえ、何もしないでいることだって、優しさなんだよ」

そう言い残して、エリカはファミレスから出て行った。




数日後、俺は長瀬さんに、最後のデートの約束を取り付けた。

彼女はどこか別な所に引っ越すと言った。

長瀬さんも、きちんとさようならを言いたいと言ってくれた。

俺は彼女を車に乗せると、ドライブにでも行こうって、気安く彼女を外へと誘うことに成功した。

彼女を車の助手席に乗せれば、もう、後はこっちの思うまま。

電話口でのエリカの声が、思い出される。

あの時、初めて、エリカの声が天使の歌声に聞こえた。

「渚ちゃんって言うの。お母さんが、刑務所に行ってしまって、身寄りがないから、ホームで預かってるけど。児童福祉課の人がこの間来てね、渚ちゃん、里子に出されるんだって。子供のいない大学教授のご夫婦が、渚ちゃんを引き取りたいって。シスターと話してるの聞いちゃった。ホームには、高校生とか大学生とか、福祉科を専攻している学生が、ボランテイアで来るから、もし渚ちゃんに会いたいなら、ニセの身分証作って用意しておくから」

そう言われて、俺はすぐにあすなろの家へと、他の学生ボランテイアに紛れて入り込んだ。

渚ちゃんは、ぽつねんと、陽だまりの中で、クマの人形をしきりに撫でていた。

俺が、「こんにちは」と声をかけると、渚ちゃんは、音に敏感に反応して、その声の主を額の辺りで探すように、小さな頭をこちらに向けた。

「こんにちは」

優しい旋律が、風の囁きのように聞こえた。

俺は振り向きざまにこちらを見た小さい少女が、盲目だってことを知って、衝撃を受けた。俺は腰を屈め、渚ちゃんをじっと見つめていた。すると、渚ちゃんが、小さいもみじのような手を俺の鼻先で広げ、俺の顔を触りまくった。

「私、渚。お兄ちゃん、お名前は?」

「かわかみ、しょうた」

そう言うと、渚ちゃんは、小さな前歯を剝き出して、子供らしい笑顔を見せる。瞑ったままの瞼が、痙攣したように揺れている。

神様が唯一、穢れを見せないようにって、この子から光を奪ったんだろう。

俺はそう思った。

それでも、窓から差し込む優しい光が、小さな命を包み込んでいた。




俺は無言のまま、長瀬さんには行き先も言わなかった。でも、ポプラ並木の続く長い坂を登りきった辺りで、助手席の長瀬さんの顔色が変わった。戸惑いの中に、理性では収拾の付かない感情が、湧いてくるのを彼女は必死で抑えているようだった。

あすなろの家は、その日、子供達のために慰労会が催されていた。庭内では、派手な衣装をつけた大道芸人やピエロが、子供達の笑いを誘っている。

ホームのあちこちで、しかつめらしい顔のシスターが、黒い修道女服の長い裾を引きずりながら、胸に手を組んだ姿勢で歩いている。

俺は長瀬さんに、ピンクのストライプ柄のエプロンと、エリカが作った偽の身分証を渡すと、車から降りるように促した。

「翔太君、これは一体?」

非難めいた眼で俺を見たけど、俺はもう、自分が悪者になっても構わないって思った。

俺は乱暴に彼女の手を引っ張って、ホームへと駈け出した。

長瀬さん、貴女には、後悔して欲しくないんだ。子供の時の渚ちゃんの姿を、感触を、匂いを、けして忘れないで欲しい。

賑わいの中で、恭平とエリカが俺達に気付いて、手招きをしている。

長瀬さんは、一瞬、時間が停まったようにその場に立ち尽くしていた。

恭平の膝の辺りに、渚ちゃんの黒いおかっぱ頭が見えた。

無邪気に「それ行け、アンパンマン」の音楽に合わせて、きゃっ、きゃっと、小さな躰を大きく揺らしている。

俺は、自分の肩越しで頑なになっている長瀬さんを振り返ると、長瀬さんは、戸惑いの色を浮かべて、なおも俺を恨めしそうに見ていた。

俺は、微笑んだ。

怨まれてもいい。

俺は、微笑み続けた。

長瀬さんは、唇を噛みしめた。身じろぎもせずに、その場に立ち尽くしたままだ。

恭平とエリカが、渚ちゃんの手を引いて、こちらへと歩いてくる。

長瀬さんの顔の表情が、だんだんと崩れていく。愛娘を恋しいと思う気持ちと、それに対する拒絶が、彼女の中で鬩ぎ合っている。

渚ちゃんが、虚空に手を伸ばす。それを、俺は受け止めた。

淡いブルーのスモック姿の渚ちゃんは、陽だまりの匂いがした。

「こんにちは」

「ああ、お兄ちゃん」

「今日は、お兄ちゃんのお友達も一緒だよ」

俺はそう言って、長瀬さんの腕を思いっきり引っ張った。彼女は俺の力に抗うこともなく、渚ちゃんの顔の高さまで、屈みこんだ。

すると渚ちゃんは、小さな前歯を悪戯っぽく覗かせながら、長瀬さんの顔を撫で始めた。

長瀬さんは、洗礼を浴びるように、じっと渚ちゃんに身を委ねている。

その眼が、濡れてきらきらと輝いていた。

「いい匂い・・・」

「え?」

「いい匂いがする。おかあちゃんみたいな匂いがする」

そう言って、渚ちゃんが両手をいっぱいに広げると、何を思ったのか、長瀬さんの首にしがみついた。

長瀬さんは、呆気に取られた顔をしたが、瞬間、封印していた母性が堰を切ったように溢れ出しらしく、渚ちゃんをぎゅっと抱きしめた。

そして、ずっと渚ちゃんのために作り続けて来たペンダントを首から外すと、渚ちゃんの項に手を回した。そして、渚ちゃんの小さな手を取ると、そのペンダントと自分の手に重ね合わせた。

「これ、なあに?」

「これはね、お守りよ、お母さん魚と子供のお魚さんがね、ずっと離れずに一緒にいられますようにって・・・・」

「渚と同じだね、お魚さん」

その言葉に、長瀬さんはもう、涙で声を震わせている。うお座のペンダントに込められた願いが、小さな胸に夏の日差しを受けて神々しく輝いた。

「ずっと大切にしてね」

「うん、ありがとう」

渚ちゃんはそう言って、ペンダントのひんやりとした感触をいつまでも確かめている。

互いに互いをしっかりと見失わないように、強い愛と絆で結ばれたうお座のシンボルマーク。

渚って名前は、そんなギリシャ神話が生まれた海に因んで名付けられたんだろう。

パン、バン、バーン!

爆竹の音が響いて、空いっぱいに、色とりどりの風船が放たれた。

子供達の歓喜が、一斉に湧き上がった。

エリカが、初めて頬にえくぼを作って、あどけなく笑った。

恭平は、眼を丸くして、少年の顔で空を見上げていた。

俺は渚ちゃんをひょいっと肩に乗せた。

「渚ちゃん、ほらあ、今、お空に、沢山、お花が咲いたよ」

「ええ?お空にも、お花が咲くの?」

「うん、咲くんだよ。赤や黄色や白や青の綺麗なお花がね、神様が一度だけ咲かせてくれるんだよ」

「わあ、お花、きれい。みんなきれい」

渚ちゃんの眼には、俺達が見ることのできない、誰も見た事のない美しい花が、澄み切った空一杯に咲き誇っているのが見えているに違いない。

俺達は、舞い上がる風船が、小さくなるのを、ただ見上げているだけだった。




長瀬さんは、アパートを引き払って、この街を出て行った。

彼女の抜け殻のような、がらんどうとなった部屋で、俺は彼女の残影を見つめていた。

俺は、長瀬さんに恋をしていたんだろうか?

長瀬さんと俺の間には、男と女の関係なんてなかった。でも、それ以上に、俺は彼女から大切なものを得たような気がした。彼女を思い出す度に、胸に甘酸っぱいものが湧き上がって、どこというわけではないけど、体の中心が痛み出す。

耳たぶが疼く。

長瀬さんにピアスの穴を開けて貰った時に感じた、あの甘美な痛みと陶酔。

この耳たぶは、俺の処女膜だ。

その処女膜はずっと覚えている。

思い出す度に、優しい気持ちになれる女性と、俺は出会ったんだということを。




夕映えの街並みに、「エデンの園」が、小さな明りを灯している。

閉店までまだ時間があると言うのに、珍しく客の姿がなかった。

親父は、俺を見ると、いつものように、俯いたままで、コーヒーを淹れている。

「ねえ、父さん」

俺はそう言って、カウンターに腰をかけた。

ジェームスデイーンには似ても似つかないけど、ジェームスデイーンよりカッコいい男を、俺はまじまじと見つめた。

「ねえ、父さん、一つだけ、聞いてもいい?」

「おう?」

「あのさあ、母さんって、どんな人だったの?」

すると親父は、ポットのお湯を注ぐ手を止めることなく、

「いい女だったよ」

「ふーん」

俺の反応が、親父には意外だったのか、親父はふと、遠くを見る様な眼をして、

「俺が生涯で一人、愛した女性だった」

そう、言葉を噛みしめるように言って、むっつりとコーヒーをカップに注いだ。

芳醇な香りが、照れ臭くなるようなセリフさえも、気障にしてしまう。

俺は、思わず吹き出した。

もう、可笑しくて、涙が出そう。

失恋の後味には、苦み走った香りは、慰めの言葉以上に俺の五感を刺激した。

ありがとう。デイーン。

血の繋がりのない俺を、ずっと優しく、男の強さと温かさで見守ってくれて。

あんたが心底惚れた女性は、潮風を受けながら、時折、俺を思い出したように優しい微笑みを浮かべてくれる。

俺は何度となく、そんな母親の微笑みを見るたびに、無償の愛とやらを考えてみる。

けして若くも、美しくもない、老いさらばえてゆくだけの女性を、俺はこの手で受け止めてあげるだけの器があるのかどうなのかって。

でも、デイーンは、そんなお袋を、今でも愛してくれているんだね。

ありがとう。

聞いたよ。母さんの入院費も、デイーンが援助してくれているって。

遠くで優しく見守る愛もあるってこと、父さんは教えてくれた。

お袋を、愛してくれてありがとう。

俺を愛してくれてありがとう。

だから俺も、父さんみたいに、いつか愛する人に出会えたら、その人が例えどんな生き方をしていても、もし辛い過去を背負っていたとしても、その人の苦しみも悲しみも、全部受け止められるような、そんなでかい器の男になるよ。

そして、俺は、その人を抱きしめて、こう言ってやるよ。

それでも、貴女は美しい!

と。そう言って、二度と手離したりはしないよ。

右の耳たぶの少しかさぶたになった傷跡が、最近、やけに疼き出す。

ポケットにしまい込んだ、あのペンダントを取り出して、俺は握りしめた。

そう、二度と手離したりはしない。

今もこの瞬間、どこかで逞しく生きているであろう、自分と強い絆で結ばれた愛しき命達を・・・。



                  完



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