7話:肝心な事を忘れていました
(平和だ…)
昌哉が帰国した次の日。
学生に課せられた義務を全うするべく、結衣は学校で勉学に勤しんでいた。
いつもと変わらない日常に安堵し、昨日が異常だったのだと思い知らされるのであった。
昌哉の腕の中で眠ってしまった結衣が目を覚ましたのは、完全に陽が沈んでいた時間だった。
リビングの灯りは常夜灯のみで、家の中は静まり返って結衣の耳に届くのは気持ちよさそうな昌哉の寝息だけが聞こえる。
寝起きの頭でとりあえず昌哉を起こさなければと思い、身体を揺すって起床を促す。
すると何度か瞼が痙攣してゆっくりと目を開けた昌哉は結衣の姿を認めると、へにゃりと笑った。
大人の威厳も何も無い、一体いくつの子供だと問いただしたくなるような気の抜けた表情。
それでも結衣の名前を呼ぶ声は、低く掠れていて鼓動が跳ね上がる。
「おはよう」
「なっ!」
おはようという時間帯ではないが、それよりも挨拶と一緒に頬へ口付けされたことに驚く。
空港でのことといい、寝起きの行動といい、海外の習慣に毒されている昌哉に対して、結衣はうろたえるだけで何も言い返せない。
救いは部屋が暗いことで、きっと明るければ顔が赤く染まっていく様を間近で観察されたに違いない。
「へ、部屋の灯りつけるから離してほしいんだけどっ!」
「んー。もうちょっとだけ充電させて」
「昌哉君っ!」
充電って何だと突っ込みたかったが返事が怖くて聞けず、お腹に回された腕を引き離そうとしながら結衣は叫ぶ。
どれだけ力を入れてもびくともしない腕は微かに震え、昌哉は結衣の肩口に顔を埋め喉を鳴らして笑っていた。
「な、何で笑うの? 笑う要素なんてどこにもないでしょ?」
「だって結衣が必死すぎて」
「必死にもなります! 部屋は暗いし、この体勢のままどれだけ時間が経ったと思ってるのよ…」
「俺は別に何時間でもこのままで構わないけど。結衣がそこまでいうなら離してあげる」
「どれだけ上から目線ですか」
何故昌哉の腕の中から抜け出すだけに、こんなにも精神的な疲労を感じなければいけないのか。
ノロノロとした動作で昌哉から解放されると結衣は灯りをつけて、ダイニングを覗くが両親達の姿は無い。
首を傾げながらリビングに戻ると、昌哉が小さなメモを手にしていた。
「皆なら外に食べに行ったみたいだ」
「え?」
「気持ちよさそうに寝てたから起こさなかった、ってさ」
「だからって子供を置いて、自分たちだけで食べ行くなんて…」
「とりあえず外食か出前の資金は置いていってくれたみたいだけど、どうする?」
「今から出るの面倒だから出前にする。昌哉君だって帰って来たばかりで疲れてるみたいだし」
そういって電話機とメニューを持ってきた結衣と何を食べるか決め、出前が届くまでの間も届いてからも、夕食を食べ終わって両親達が帰って来るまでずっと昌哉は結衣を構い倒した。
(あれはもう愛玩動物を愛でるそれと同じような気がする)
スキンシップ過剰を通り越して、それはもうベタベタのベッタリだった。
帰り際も物足りなさそうな顔をして、結衣が恥ずかしがるようなことを要求してくる始末。
(ここは日本であってイギリスじゃないのよっ! それなのにっ!!)
思わず昨夜のことを思い出してしまい、慌てて頭を左右に振って脳内から追い出す。
(今は授業中、昨日のことは思い出しちゃ駄目よ私!)
手に持ったシャープペンシルを握り締め、雑念を振り払い黒板を注視することに努めた。
「ただいま…」
気を抜くと昌哉とのやり取りを思い出してしまいそうになり、一層授業に集中した結衣は週の始めだというのに疲れた声音で帰宅を告げる。
いつもなら返ってくるはずの千秋の声はなく、代わりにリビングから賑やかな声が聞こえた。
扉を開けてみると、千秋のほかに昌哉と百合の姿が目に入り、炬燵の上には数冊の雑誌と何枚かのプリントが無造作に広げられていた
「あら、おかえり」
「結衣ちゃん、おかえりなさい」
「ただいま。何してるの?」
結衣は鞄を床に置くとグルグルと巻いたマフラーとダッフルコートを脱ぐと昌哉が手招きしてから結衣を呼び、隣へ座るようにと促してきた。
昨日のことがあるので、出来れば激しく遠慮したい結衣は視線を彷徨わせた後、困った顔を昌哉に向けた。
「結衣。ここにおいで」
有無を言わさない笑顔で再度促され、思わず隣に座りそうになるが昌哉から視線を外して千秋の隣へと座る。
「結衣」
「は、い…」
「聞こえなかった?」
「えっと…」
「こ こ に お い で」
一語ずつ区切って告げられ、助けを求めて隣の千秋を見たが、ニヤニヤと笑って目で早く行けと促してさえいる。
味方がいないことを悟った結衣は、項垂れながら昌哉の隣へと移動して腰を下ろした。
「おかえり」
「ただいま…。で、何してるの?」
「どのマンションにするか検討してたところ。結衣はどれがいい?」
「マンション?」
結衣が帰宅するまでに、昌哉は数件の不動産屋を廻り希望に合う物件を探してきた。
しかし何のことか分からないと結衣は首を傾ける。
「春から俺と結衣が暮らすマンション。忘れてたとかいうなよ」
若干、呆れが混じった声で告げられた内容に結衣は目を見開く。
(わ、わ、わすれてたあぁーっ!)
昌哉の帰国ということで頭がいっぱいになっていたため、結衣は日本に残る条件をすっかり忘れていた。