その14
綺麗に磨かれた廊下を見つめながら歩く。そこに映った猫は若干目を伏せているものの、いつもの様子と大差ない。
私がため息を吐けば、その猫も吐く。それを睨みつけつつ足を止めた。
自分の考えの足りなさに嫌気がさす。いつもそうなのだ。もう少し考えてから喋ればいいのに、と何度も何度も思うのに、思うだけで終わってしまう。
だから前の世界でも…
…あれ?
思考が止まった。そして必死になって考えた。
前の世界で…何だっけ?
考えても思い出せなかった。思い出そうとすると一瞬ぞっとして、そしてすぐに去る。
訳が分からなくなって、早くラディスの部屋に帰ろうと思って顔を上げた。
…ここ、どこでしょう。
お城の中は大体同じ造りをしている。違う物といえば、飾られている調度品だろう。
あたりを見回せば、見たことのない絵画があった。今まで見たものよりも大きい絵がいくつもある。
慌てて戻ろうと後ろを向いたが、知らない道が続くばかりだった。
…私、どうやってここまで来たの?
とにかく誰か知っている人がいないかと歩を進める。しばらく進んだ先に見えた二つの肖像画に、思わず目を奪われた。
そこには綺麗な若い女性が描かれていた。真っ黒な髪をまっすぐ垂らし、真っ白な肌が栄える暗い色のドレスを着た女性は、微笑んでこちらを見ている。
その隣の肖像画にも女性が描かれていて、こちらも白い肌だが、金色の髪が波を打っている。それに合わせるように明るい色のドレスを着ていた。微笑んでいるはずなのにどこか悲しそうに見える。
その二人には会ったことがないはずなのに、なぜか見覚えがあった。懸命に考えると、今度は簡単に思い至った。
この二人はラディスたちに似ているんだ。黒髪の女性はラディスに、金髪の女性はディックとライツに似ている。ああでも、ディックは少ししか似ていなかも。
もしかして、三人の母親だろうか。
しかしそうだとすると、なぜラディスの母親の肖像画まであるのだろうか。ふつう側室の肖像画まで飾るものなのだろうか。
考えるが浮かぶのは疑問ばかりで、なかなか答えには至らない。首を傾げたところで、背後から激しく咳き込む声が聞こえた。
振り返るとそこにはやけに豪華な扉があった。それはわずかに開いていて、その隙間から中を覗き込んだ。
天蓋のある大きなベッド。白衣を着た人たちとメイドさん、それから男の人が忙しそうに走り、ベッドに寝ている人の世話をしているらしい。
また咳をする声が聞こえた。どうやら寝ているその人から聞こえるらしい。
メイドさんの一人が水の入ったコップを持つ。白衣の人に支えられながら上体を起こしたその人は、白髪のおじさんに見えた。
髪が真っ白な割には、顔にも手にも皺が少なかった。おじいさん、と呼ぶにはまだ若い。
じっと見ていると、咳き込んだせいか涙目になっているおじさんと目が合った。驚いて後退ると、おじさんが私を指さしながらメイドさんに何か言った。
これはさっさと帰った方がいいのだろうかと一歩一歩足を引いていると、おじさんに話しかけられていたメイドさんが私の方に寄ってきて扉を開いた。この人は見たことがある。一番最初にお風呂に入れてくれた人たちの中にいたメイドさんだ。
彼女なら私がラディスの飼い猫だってことも知っているだろうし、もしかしたら送ってくれるかもしれない。…と甘いことを考えてみたのだが、メイドさんは私を追い返すどころか抱き上げ、さっさと室内へと戻っていった。
狼狽する私にお構いなしにおじさんのもとまで行き、私を体ごとおじさんに向かせた。
「陛下、こちらがソラ様ですわ」
彼女のセリフを聞いて固まった。おじさんおじさんと言っていたが、彼はラディスのお父さんであり、この国の今の王様だったようだ。
メイドさんが固まったままの私をベッドに降ろすと、今度はおじさん―――もとい、陛下が私を抱き上げて自分のシーツが掛けてある膝の上に乗せた。
「これはまた、珍しいものを手に入れたな。このようなところにどうした?」
言いながら私の頭をなでる。恐る恐る顔を上げると、彼は微笑みながら私を見つめていた。
…あれ、この微笑み…ラディスと同じじゃないか?
思ったその瞬間に、陛下はまた咳き込んだ。私から顔を逸らして口元を手で覆い、体を折り曲げて蹲りながら咳を繰り返す。白衣を着た人が慌てて寄ってきて声をかけた。陛下は制すように片手をあげ、しばらくしてようやく顔を上げた。
あまりにも激しく咳き込むから、心配になって顔を覗き込む。すると彼は少し苦しげではあるけれど微笑んで、また私の頭を撫でた。
「すまないな、驚いたろう。今日は特にひどいのだ」
私は陛下をしばらく見つめ、撫でる手に頭を擦り付けた。すると彼は一瞬驚き、そして嬉しそうに私を抱き上げた。
「なるほど、これはいいな。…お前が傍にいれば、ラディスも苦労だけではなさそうだ」
陛下の物言いに驚き固まる。その間に彼は「さぁもう帰りなさい」と私をメイドさんに渡し、命じて廊下に出させた。
閉まった扉を見つめ、陛下の言葉を反芻する。
あの言い方は、あの言葉は、あの表情は。
まるで、子供を気に掛ける親のようだ。
その後、結局道がわからずにうろうろしていたら、ちょうどよくいつも紙束を抱えてくる青年とあった。彼に着いて行っていると、彼が唐突に振り返り「もしかして迷子だった?」と問われ、ひと声鳴いて返事をした。
今も書類を抱えている青年はしゃがみこんで私を見ると、
「そっか、それじゃあ一緒にラディス様の部屋に行こうか」
と、踵を返した。どうやら今までの道は違う道だったらしい。仕事の邪魔をしてしまったようで申し訳なく思いながらも、今度は道を見失わないように顔を上げた。
「どうした?何か取り忘れでもあったか?」
扉を開くと、青年を見たラディスがわずかに目を見開いて言った。ベッドの方ではまたディックが勉強をしに来ていた。
私は部屋の中に入ると、お礼代わりに青年にすり寄った。私と彼が一緒にいたことが不思議なのか、ラディスの頭にわかりやすく疑問符が浮いている。
「ソラ様が迷っていらしたようなので、ご案内いたしました」
青年がそう頭を下げる。
「そうか。悪かったなロウン、ありがとう」
「いいえ。それでは失礼します」
一礼する彼に、しっぽを二、三回振る。彼は私に微笑んでから部屋を出た。
彼の名前はロウンというのか。と頭に入れながらラディスに寄っていく。彼は傍まで来た私を抱き上げて膝に乗せた。
「いつもなら迷わず帰ってくるというのに、何かあったのか?」
いやぁ、私がドジしただけですよね。
撫でられながらうなだれる。そしてあの、ベッドに寝たきりになっている王様を思い返した。
ラディスはあの人に嫌われていると思っているみたいだけれど、そんな風には見えなかった。会話をしたわけではないから確かなわけではないけれど。
また陛下の部屋に行ってみようかな、と考えたところで、ディックが教科書らしきものを持ってラディスのもとへやってきた。
それを合図とするように、ラディスは私を撫でていた手を止め、私が帰ってくる前にしていたであろう行動に戻った。