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第八十一章 年越し  

十二月三十一日。

 大晦日の夜。直人は修復室にいた。

 論文の草稿を書いていた。タイトルは「楮・雁皮二重漉き和紙における微細繊維操作の分析——明治初期の情報秘匿技術に関する修復学的考察」。

 地味なタイトルだ。暗号も神器も国家も出てこない。修復士の技術報告として、二重和紙の構造異常を淡々と記述する。だが、論文を読む者が行間を読めば——暗号の存在を科学的に裏づける内容だ。

 窓の外から、除夜の鐘が聞こえてきた。

 百八つの鐘。

 直人はペンを置き、窓を開けた。冷たい空気が修復室に流れ込む。

 鐘の音。遠くの寺院から、一つ、二つ、三つ——

 百八の煩悩を打ち消す鐘。だが直人は、煩悩を打ち消したいとは思わなかった。煩悩は——人間の不完全さだ。不完全さを打ち消したら、人間ではなくなる。

 未完は希望。不完全は人間の証。

 スマートフォンが震えた。真琴からのメッセージ。

『あけましておめでとうございます。——少し早いですが。今年は、空白を書く年になりますね。』

 直人は返信を打った。

『あけましておめでとう。空白を書くかどうかは分からない。でも——空白に向き合う年にはなる。』

 真琴の返信。

『向き合うだけで十分です。空白は急いで埋めるものではないので。——直人さん。来年もよろしくお願いします。』

 直人は返信を打ちかけて、消して、また打った。

『来年も。——いや、来年だけじゃなく。』

 送信してから、直人は少し後悔した。曖昧すぎる。だが——曖昧でいい。明確な言葉にすることが、必ずしも正しいとは限らない。

 真琴の返信は、ハートの絵文字一つだった。

 直人は修復室の窓から、夜空を見上げた。

 東京の空に星はほとんど見えない。だが、星はそこにある。見えなくても、在る。

 百八番目の鐘が鳴り終わった。

 新しい年が、始まった。

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