第七十五章 出雲の声
十二月八日。出雲。
山陰本線の車窓から、鉛色の日本海が見えた。冬の山陰は暗い。空も海も大地も、灰色の階調で塗り分けられている。東京の冬とはまるで違う色彩だ。
出雲市駅に降り立つと、潮の匂いがした。冷たい風が頬を叩く。真琴がマフラーを口元まで引き上げた。
「寒い——」
「夏に来たときは三十五度あったのに。同じ場所とは思えない」
二人は出雲大社を参拝した後、第一部で螺旋を発見した用水路を再訪した。
用水路は冬でも水が流れている。夏よりも水量が多い。冬の雨が山から流れ込んでいるのだろう。直人は橋の上から、水面の下の石を見つめた。コンクリートの下に隠された、螺旋の刻まれた石板。今はもう見えない。だが、そこにある。
用水路の脇に小さな農家があった。直人が夏に来たとき、草刈りをしていた老人の家だ。あのとき声をかけそびれた。今回は——声を聞きに来た。
門の前で声をかけると、老人が出てきた。七十代半ば。日焼けした顔。冬でも農作業をしているのだろう、長靴に泥がついている。
「すみません。この用水路のことを少しお聞きしたいのですが」
「用水路? ああ、何でしょうか。まあ、寒いから上がりなさい」
農家の居間に通された。石油ストーブが赤く燃えている。老婦人がほうじ茶を出してくれた。茶碗は地元の窯のものらしい、厚手の陶器だ。
「この用水路はね、江戸時代からあるんですよ」老人が言った。「何度も改修されとるけど、水路の位置は変わっとらん。昔は——もっと多くの田んぼを潤しとった。今は減反で田んぼが減ったけどね」
「水路の下に古い石が残っていることは、ご存知ですか」
「石? ああ、コンクリートの下に昔の石垣があるのは知っとる。改修のときに、わしの親父が見たと言っとった。立派な石だったと。壊すのはもったいないから、コンクリートで上から蓋をしたんだと」
「石に何か——模様とか、刻印のようなものは」
「さあ、そこまでは聞いとらん。親父はもう死んどるしな」
老婦人が口を添えた。
「あたしの祖母が言っとったけどね。この水路の水は、出雲大社の神さんの水だと。飲めば長生きすると。実際、この辺りの人は長生きが多いよ。あたしも七十三だけど、病気ひとつしたことがない」
「神さんの水——」
「まあ、信じるかどうかは別としてね。でもこの水路がなかったら、この辺りの田んぼは全滅だったよ。戦後の食糧難のとき、この水路のおかげで米が取れた。水がある限り、人は生きていける」
直人はほうじ茶を飲んだ。温かい。冬の出雲で飲むほうじ茶は、東京のコーヒーとは違う温もりがある。
「この地域では、出雲大社をどう思っていますか。地元の方にとって」
老人が少し考えた。
「どう思うか——。あそこは神さんの家だからな。十月になると全国の神さんが集まってくる。神有月だ。他の地方では神無月だけど、出雲では神有月。——でもな、観光客が増えてからは、ちょっと変わったよ。縁結びのパワースポットとか言われてな。昔はそんな軽い場所じゃなかったんだが」
「昔は——」
「怖い場所だったよ。神さんの場所だから。畏れ多い場所。子供の頃、大社の境内でふざけとったら、祖父にひどく叱られた。『ここは遊ぶ場所じゃない。神さんに失礼だ』と。——今はみんな、お気軽にお参りしとるけどな」
直人は用水路のことから、話がずれていったのを感じた。だが——このずれこそが、声なのだ。用水路の話を聞きに来たが、聞こえてきたのは土地そのものの声だった。
農家を辞去した後、直人と真琴は用水路沿いを歩いた。水が流れている。冬の低い太陽が、水面をかすかに光らせている。
「水は——変わりながら、同じものとして残る」直人は呟いた。
「更新と維持」真琴が答えた。「水の分子は常に入れ替わっている。でも水路は同じ場所にある。流れは変わらない。中身は更新されるが、形は維持される」
「国も同じですかね」さっきの老人の声が、直人の耳に残っていた。「ずいぶん変わったけど、変わってないとこは変わっとらん」
出雲大社に戻った。大注連縄の下で、真琴が立ち止まった。
「出雲は結びの神さまですね。縁結び。でも——結ぶためには、まず離れていなければならない」
「断絶が前提の結び」
「はい。断絶がなければ、結ぶ必要もない。結びの意味は、断絶から生まれる。本土と沖縄。更新派と維持派。過去と未来。——設計者が第三の封印を出雲に置いたのは、断絶を認めた上で結び直す、その思想を象徴するためだったのだと思います」
注連縄が風に揺れた。太い藁の束が、左右に捻じられている。二つのものが絡まり合い、一本の縄になる。離れていたものが、結ばれる。
直人は注連縄を見上げながら思った。暗号もまた——結びなのだ。百五十年前と現在を結ぶ縄。設計者と解読者を結ぶ縄。そしてこれから——現在と未来を結ぶ縄になる。




