第九十九章 未完
十月二十四日。早朝。
直人は修復室に一人でいた。窓の外が白み始めている。東京の空が、紺から群青に、群青から藍に変わっていく。
修復台の上に、直人はすべてを並べた。
八枚の障子紙——靴墨の拓本。摩文仁の洞窟の壁面を転写した百五十年前の声。
照屋真栄が毛筆で書き下ろした口伝の和紙。
真壁が拘置所で書いた十枚の文章のコピー。
ハートリー教授の手紙。
三条冬美が提供した口伝の書き起こし。
サイトに寄せられたコメントの中から直人が選んだ百八の言葉を印刷した紙。
そして——照屋真栄から預かった黒い勾玉。
修復台の上に、すべてが並んでいる。物証と声。紙と記憶。石と光。
ここにあるのは百五十年分の声だ。設計者の声。守り手の声。解読者の声。そして市民の声。すべてが一つの問いに向かって収束している。
この国は何か。この国の始まりは何か。この国は——完成しているか。
答えは明白だ。完成していない。
完成していないことは絶望ではない。希望だ。
直人は修復台の引き出しから、一枚の白い和紙を取り出した。楮紙。無地。何も書かれていない。
この和紙に第五条を書くことはしない。
直人は白い和紙を、拓本と口伝と手紙とコメントの束の上に重ねた。すべての声の上に、空白の紙を載せた。
空白は蓋ではない。空白は——次のページだ。
次の世代の誰かが、この白い紙に声を載せる。その声は直人の声でも真琴の声でもない。まだ生まれていない誰かの声だ。
直人は束を丁寧に揃え、桐箱に収めた。蓋の裏に、修復士の筆で記した。
『修復とは、過去を未来に渡す行為である。
本箱の内容物は、すべて未完である。
未完は欠損ではない。未完は設計である。
この箱を開ける者へ——
あなたの声を、加えてください。
空白は、あなたのものです。
鷺宮直人 修復士
令和七年十月二十四日』
直人は桐箱の蓋を閉じた。
窓の外が明るくなっていた。十月の朝日が、修復室の窓から差し込んでいる。光が修復台を照らし、桐箱の表面が金色に光った。
直人は手袋を外した。
十年間、毎日嵌めてきた白い手袋。修復士の手袋。遺物に触れるための手袋。
素手で桐箱に触れた。桐の木の温もりが手のひらに伝わった。
百五十年前の声。照屋家の口伝。真壁の文章。真琴の確信。永田の教え。早川の解析。三条の伝承。ハートリーの洞察。そしてまだ聞こえない——未来の声。
すべてがこの箱の中にある。すべてが未完のまま。
直人は立ち上がり、修復室のドアを開けた。
廊下に朝日が射している。宮内庁の建物の長い廊下。この廊下を毎朝歩いて修復室に来た。今日もまた。明日も。明後日も。
修復は終わらない。修復は——続く。
直人は廊下を歩き始めた。
背後で、修復室のドアが静かに閉まった。桐箱は修復台の上に残された。白い手袋がその横に置かれている。
朝の光が手袋の上に落ちた。
白い手袋。白い和紙。白い空白。
すべてが白い。すべてが——始まりの色だ。
了。
『未完の神器』
第一部 天孫コード
第二部 失われた勅印
第三部 空白の勅書
全九十九章
空白は、あなたのものです。




