第九十八章 十月二十三日
十月二十三日。
あの日から——ちょうど一年。
京都御所で五つの星が勾玉の形に並んだ夜から、一年が経っていた。
直人は修復室にいた。夜の八時。通常ならとうに帰宅している時間だが、今夜は修復室にいたかった。
修復台の上には何もない。巻子は収蔵庫に入った。修復の依頼品も片付けてある。空の修復台。空白。
ドアがノックされた。
「入っていいですか」
真琴が入ってきた。手にはコーヒーではなく、日本酒の小瓶を二つ。
「今日は特別な日ですから」
紙コップに注いだ。
「乾杯。——何に?」
「未完に」
「未完に」
紙コップが軽く触れた。辛口。京都の酒。
「直人さん。一年前の今日、私は京都で泣きました。星を見て。時を超えた繋がりの重さに耐えられなくて」
「覚えている」
「今日は泣きません。代わりに聞きたいことがあります。直人さんにとって、この一年は何でしたか」
直人は紙コップの中の透明な液体を見つめた。
「修復だった。自分自身の。修復士として物を修復してきたが、この一年で自分が修復された気がする。壊れていたわけじゃない。でもずれていた。過去にばかり目を向けて、未来を見ていなかった。暗号が未来を見せてくれた」
「私にとっては——帰還でした。祖父の元への。維持派の祖父が最後に更新派の思想に到達した、その到達点に私も到達できた。祖父が死ぬ前に見た景色を、私も見ることができた」
窓の外は暗い。十月の夜空。
「星、見えるかな」
「東京の空では——あ、一つ見えます。明るい星」
「木星だ。一年前は五つの星が勾玉を描いた。今夜は一つだけ。でも——」
「一つで十分ですね」
直人も窓際に立った。二人の肩がかすかに触れた。
「直人さん。空白は——書かなくてよかったのでしょうか」
「書いていないわけじゃない。照屋さんの口伝。真壁さんの文章。サイトに寄せられた言葉。論文。調査報告書。声はたくさん集まった。空白は空白のまま。でも空白の周囲に声が積もっている」
「空白の周囲に声が積もる。それが第五条ですか」
「そうかもしれない。三条さんの口伝の通りだ。書くのではなく語る。語り続ける。そして語りは一人では成り立たない。聞く人間がいて初めて成立する」
「話す人と聞く人。二人いなければ——」
「ああ。だから——俺が語る。あなたが聞く。あなたが語る。俺が聞く。そうやって声を渡し合い続ける。永遠に。未完のまま」
「私たちの第五条」
直人は頷いた。
二人は窓際に並んで立ったまま、木星の光を見つめた。修復室の温度は二十度。湿度は五十五パーセント。空の修復台が、静かに二人を見守っていた。




