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第九十七章 修復完了  

九月一日。

 朝の光が修復室に入ってきた。九月の太陽は、七月の酷暑とは違う角度で射す。白い光が修復台の表面を斜めに横切り、巻子の軸を照らしていた。

 直人は手袋を嵌め、修復台の前に座った。

 巻子の最後の工程。裏打ちの糊が完全に乾いたことを確認し、巻き直しを行う。絹の紐を新調し、結び方は書陵部の標準仕様に従う。

 直人は巻子を手に取った。何度触れた紙だろう。最初に触れたのは昨年の六月。裏打ちの下に異常な凹凸を感じた瞬間。あの感触が——すべての始まりだった。

 今、紙は安定している。楮紙の表層は補修され、虫食いの穴は埋められ、折れ線は伸ばされている。裏層の雁皮紙は新しい和紙で補強され、繊維操作の領域は保護層で覆われている。二層の間に眠る金箔の神代文字は——そのままだ。修復士は物を加えることも減らすこともしない。整えるだけだ。

 巻き直し。軸に紙を巻いていく。力加減は均一に。弛みがあってはならないが、締めすぎてもいけない。紙が呼吸できる余裕を残す。

 十五分で巻き直しが完了した。新しい絹の紐で結ぶ。結び方は「総角結び」。平安時代から伝わる文書の結び方だ。

 修復台の上に、完成した巻子が横たわっている。

 直人は手袋を嵌めたまま、巻子を見つめた。

 十五ヶ月前、初めてこの紙に触れたとき、直人は修復士だった。今も修復士だ。だが——十五ヶ月前の修復士と今の修復士は、同じ人間だろうか。

 ドアが開いた。

 調査チームの全員が、修復室に集まった。永田修造が最初に入ってきた。杖をつきながら。膝の具合は良くないが、この日だけは来ると決めていた。

 早川が続いた。ノートPCを抱えている。いつもと同じ。だが目の下の隈が消えている。論文の完成後、早川は久しぶりに規則正しい生活を取り戻したらしい。

 真琴が入ってきた。紺のスーツ。一つ結び。書陵部の職員としての姿。手には書類を持っている。巻子の目録登録に必要な書式だ。

 琉球大学の教授。東京大学の教授。二人とも表情が晴れやかだ。

 モニターに三条冬美の顔が映った。京都の自宅から。杖は——もう使っていないようだ。リハビリが順調に進んだのだろう。

「全員集まりましたね」直人が言った。

 修復台の上の巻子を、全員が見つめた。

「修復完了です。物理的な修復は——今日で終わります」

 永田が修復台に近づき、巻子に目を凝らした。老いた目。だが修復士の目は、年齢で衰えない。

「立派な仕事だ」永田が言った。そして少し間を置いて、付け加えた。「いや——立派な旅だった」

「先生」

「修復士は物を修復するが、物を修復する過程で自分自身も修復される。お前は——修復されたよ、直人。この一年で。壊れていたわけじゃない。ずれていたのが整った。修復士は、自分で自分を修復することはできん。修復対象との対話を通じて、初めて自分のずれに気づく。——この巻子が、お前を修復したんだ」

 直人は何も言えなかった。師匠の言葉が、胸の奥に落ちていくのを感じた。

 真琴が修復台の横に立った。

「巻子は書陵部の所蔵品として正式に登録されます。目録番号QS-2025-0847。温湿度管理された収蔵庫に保管されます。でも——閲覧は可能です。学術調査の申請があれば、誰でも巻子を見ることができます。もう金庫の中で眠らせはしません」

 直人は巻子を丁寧に桐箱に収めた。最後に、修復完了の記録票を書いた。

 修復士の名前。鷺宮直人。修復開始日。令和七年六月十日。修復完了日。令和八年九月一日。修復内容の概要。表層楮紙の補修、裏打ち補強、巻軸研磨、絹紐交換。

 そして備考欄に、一行だけ書き足した。

『本巻子は修復完了後も未完である。未完は本巻子の本質であり、欠損ではない。』

 永田がその一行を読み、微笑んだ。

「それでいい。——それが、お前の修復だ」

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