第九十五章 真壁の再訪
七月十五日。
池袋のシェアオフィスのドアが開いた。直人が振り返ると、見知らぬ男が立っていた。
いや——見知らぬ男ではない。
真壁透だった。だが、内調時代の真壁とはまるで違う。黒いスーツの代わりに、薄い青の開襟シャツとチノパン。革靴ではなくスニーカー。髪型も変わっている。前髪を横に流していたのが、短く刈り上げられている。眼鏡だけが同じだ。
表情が——軽い。重力から解放されたような顔をしていた。
「鷺宮さん。お元気そうで」
「真壁さん——入ってください。コーヒーでも」
「ありがとうございます。——拘置所のコーヒーは薄かったので、濃いのが飲みたい」
二人は窓際に座った。直人がインスタントコーヒーを淹れた。マグカップを渡すと、真壁は両手で包むように持ち、一口飲んだ。
「美味い。自由の味がする」
「大げさですね」
「大げさじゃないですよ。四ヶ月間、選択の余地がない生活をしていました。何を飲むか、何を食べるか、いつ寝るか。全部決められている。自分で選んだコーヒーを飲むだけで——世界が違って見える」
真壁は窓の外を見た。池袋の雑踏。七月の陽光が、ビルのガラスに反射して眩しい。
「失業中です。公務員を免職されましたから。前科者ですし、再就職は簡単じゃない。——ただ、弁護士の山崎さんが事務所で雇ってくれるという話が進んでいます。法律事務所の調査員として。情報分析の経験があるので、事件調査に活かせると」
「調査は得意でしょうからね」
「ええ。人を監視する側から、人の権利を守る側に。——皮肉なものです。でも考えてみれば、やっていることは同じかもしれない。情報を集め、分析し、構造を読み解く。目的が違うだけで」
真壁はコーヒーを飲み、マグカップをテーブルに置いた。
「鷺宮さん。一つ、お聞きしたいことがあった。——拘置所の中で、ずっと考えていたことがあります」
「何ですか」
「判決文の付言。裁判長が最後に書いた言葉に気づきましたか」
「判決文は読んだが——付言の最後か。正確には覚えていない」
「裁判長はこう書いています。『本判決をもって本件は司法上の結論を得るが、被告人が提起した問題は、民主主義社会において不可避的に存在するものであり、本判決が、この問題に関する今後の議論の——始まりとなることを期待する』」
「始まり——」
「ええ。結論ではなく、始まり。裁判長は答えを出すのではなく、問いを出した。判決は終結ではなく開始だと。——これ、聞き覚えがありませんか」
直人は真壁を見つめた。
「暗号と同じだ」
「そうです。暗号は答えではなく問いだった。空白の第五条は、結論ではなく開始だった。——裁判長が意図的にそう書いたのか、偶然の一致なのかは分かりません。でも結果として——暗号の思想が法廷にまで届いた。空白という概念が、司法の言葉の中に入り込んだ」
真壁は微笑んだ。四ヶ月の拘置所生活を経ても、あるいはそれを経たからこそ、その笑みには静かな確信があった。
「暗号が伝染しているんです、鷺宮さん。百五十年前に石に刻まれた思想が、和紙を通じ、声を通じ、論文を通じ、法廷を通じて——広がっている。設計者が夢見たのは、たぶんこういうことだったんだと思います。暗号そのものが解読されることじゃなく、暗号の思想が社会に浸透すること」




