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第九十章 四月の修復室  

四月一日。

 桜が咲いていた。

 宮内庁の敷地内にある桜が、修復室の窓から見えた。

 直人は修復台の前に座っていた。台の上に、巻子がある。

 二重和紙の巻子。書陵部に返還され、改めて修復依頼が出された巻子。直人のもとに、再び戻ってきた。

 直人は手袋を嵌め、巻子に手を触れた。

 半年前、最初にこの巻子に触れたときの感触を覚えている。修復台に広げ、裏打ちの下に異常な凹凸を感じたあの瞬間。

 今、直人の手は——あの時とは違う情報を読み取っている。

 繊維の一本一本が語る声。百五十年前の漉き手の呼吸。墨の匂い。紙の温度。

 修復士は物から声を聞く。この巻子は——百五十年分の声を宿している。

 ドアがノックされた。

「直人さん。コーヒーです」

 真琴が入ってきた。紺のスーツ。一つ結びの髪。書陵部に復職した真琴は、再びいつもの姿に戻っていた。

 だが——目が違う。以前の真琴は、義務感で仕事をしていた。今の真琴は、意志で仕事をしている。

「書陵部への復帰、順調ですか」

「はい。——監視の目はありますが。誰が監視しているかも、だいたい分かっています」

「大丈夫?」

「大丈夫です。監視されているのは私だけではなく、巻子そのものです。誰がいつ巻子に触れたか、すべて記録されている。——でも、記録されることを恐れる必要はありません。正式な学術調査の一環ですから」

 真琴はコーヒーの紙コップを修復台の横に置いた。

「修復は——順調ですか」

「ああ。巻子の修復は、あと三週間で完了する。表層の楮紙の補修と、裏打ちの補強。技術的にはこれまでの仕事と変わらない」

「でも——意味が違う」

「ああ。この巻子を修復することは、百五十年前の暗号を未来に渡す行為だ。物理的な修復と、思想的な継承が——同時に行われている」

 真琴は窓際に立ち、桜を見つめた。

「直人さん。第五条のこと——三条さんの口伝。『書かれるべきではない。語られるべきである』。あの言葉について、考えました」

「何を考えた」

「私たちは——第五条を書こうとしてきました。空白を埋めようとしてきた。でも、設計者は最初から——書くことを求めていなかったのかもしれない。語ることを求めていた」

「語ること——」

「照屋真栄さんが口伝を語ってくれたように。真壁さんが維持派の思想を語ってくれたように。伊勢の管理人さんが遷宮の話をしてくれたように。——声は、文字よりも柔らかい。声は空気に消えるけれど、聞いた人間の中に残る。文字は石に刻まれるけれど、時間とともに風化する」

 真琴は振り返った。

「第五条は——語り続けることです。何を語るかは、時代ごとに変わる。語る人間が変われば、内容も変わる。でも『語り続ける』という行為そのものが——第五条の内容です」

 直人は修復台の上の巻子を見つめた。

 百五十年前の紙。百五十年前の墨。百五十年前の声。

 そしてこれから——何百年後かの誰かが、この巻子を手に取る。修復され、守られ、渡されてきた巻子を。そのとき、その人間は——自分の声で、第五条を語るだろう。

 直人は手袋を外し、コーヒーを飲んだ。

 窓の外の桜が、風に散っている。花びらが舞い、地面に落ち、積もっていく。

 散ることは終わりではない。散った花びらは土に還り、木の養分となり、来年の桜を咲かせる。

 未完は終わりではない。未完は——循環だ。

 修復台の上の巻子が、静かに呼吸しているように見えた。

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