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第八十九章 交差  

三月二十日。

 直人、真琴、早川の三人は、三条冬美の自宅を訪ねた。

 京都の老舗旅館に隣接する、三条家の本邸。百年以上の歴史を持つ数寄屋造りの家。枯山水の庭。茶室。掛け軸は——直人の師匠の永田が修復したものだという。

 三条冬美は、和室で三人を迎えた。膝は回復しつつあるが、まだ杖を使っている。

「お三方。ようこそ。——お茶をどうぞ」

 茶が出された。京都の一保堂の煎茶。直人は茶碗を手に取った。磁器の薄い碗。おそらく——幕末の京焼。

「三条さん。今日は、一つお聞きしたいことがあります」

「何でしょう」

「実朝のことです。三条実朝という人間について。口伝には、どんなことが伝わっていますか。暗号の設計者としてではなく——一人の人間として」

 三条冬美は茶碗を置き、庭を見つめた。

「実朝は——変わった人間だったと聞いております。政治家としては失敗した人間です。更新派の提案は否決された。同志は離れた。晩年は——孤独だったと」

「孤独——」

「だが、孤独の中で——暗号を作った。否決された提案を、別の形で未来に残す方法を考えた。それは政治家の仕事ではなく、職人の仕事です。一文字ずつ石に刻み、繊維の一本一本を操作し、座標を計算し、星図を読んだ。十年以上かけて」

「十年——」

「実朝が暗号の制作に着手したのは明治三年頃。完成は明治十三年頃と推定されています。十年間、一人で作業を続けた。協力者はいましたが、全体像を知っているのは実朝だけだった」

 三条冬美は直人を見た。

「修復士と似ていませんか」

 直人はどきりとした。

「修復室で一人、過去の遺物に向き合い、繊維の一本一本を扱い、何年もかけて仕上げる。——実朝も、そうだったのだと思います。孤独な職人として、未来のための作品を作り続けた」

「実朝は——修復士だったのかもしれません」

「修復ではなく、創造でしょう。だが——未来に渡すための創造。自分のためではなく、見知らぬ未来の誰かのために作る。その点では——修復と創造は、同じ行為なのかもしれません」

 三条冬美は微笑んだ。

「実朝は生涯独身でした。子供はいませんでした。だが——」

「歌」直人が言った。

「ええ。『未だ成らぬ国の器を抱きしめて児らに渡さむ富士の白雪』。血の繋がった子供ではなく——未来のすべての子供たちに渡す。実朝にとって、日本のすべての次の世代が、自分の子供だったのだと思います」

 真琴が小さく息を呑んだ。

「三条さん。もう一つだけ」

「何でしょう」

「百五十年の口伝の中で——空白の第五条について、何か言い伝えはありませんか。第五条に何を書くべきか。あるいは、何を書くべきでないか」

 三条冬美は長い間、沈黙した。庭の松の枝が、風に揺れている。

「口伝には——一つだけ、第五条に関する言葉があります」

「何ですか」

「『第五条は書かれるべきではない。第五条は語られるべきである』」

 書くのではなく、語る。

 直人は茶碗を置いた。

 石に刻むのでも、紙に書くのでもなく——声にする。口伝として。人から人へ。

 照屋家の口伝がそうだったように。真壁家の口伝がそうだったように。三条家の口伝がそうだったように。

 第五条は——文書ではなく、口伝として存在すべきなのだ。

 書かれた言葉は固定される。固定された言葉は、時代とともに古びる。だが口伝は——語るたびに、語る人間の声で更新される。同じ内容でも、語る人間が変われば、声が変わる。声が変われば、意味が変わる。

 口伝は——永遠に未完のまま、生き続ける。

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