第八十八章 原本返還
三月十五日。
直人が修復室で通常の修復作業——江戸時代の絵図の裏打ち補強——を進めていたとき、真琴から電話が入った。
「直人さん。巻子が戻ります」
直人は手袋を嵌めたまま、受話器を肩で挟んだ。
「戻る? どこに」
「書陵部に。宮内庁が決定しました。二重和紙の巻子を、内閣官房の管理下から書陵部の所管に復帰させると」
「いつ」
「来週です。理由は『文化財としての適切な保存管理のため』。——建前です。本当の理由は論文の影響でしょう。三学会の声明と国会質問で、政府が原本を隠しているという批判が広がった。文化財を金庫にしまい込んでいる政府、というイメージは、選挙前に避けたい」
「選挙——」
「参院選が七月にあります。与党は文教政策を争点にされたくない。巻子を書陵部に戻すことで、『適切に管理している』というポーズを取れる。学術調査についても『慎重に検討する』と言えるようになる」
直人はヘラを置いた。
「学術調査が可能になるということか」
「形式上は。ただし条件が付いています。調査は書陵部の管理下で行うこと。調査結果の公表は書陵部と協議の上で行うこと。——つまり、フリーハンドでの調査ではない」
「監視付きの調査か」
「そうです。書陵部の中に、内調の目が残るでしょう。誰が巻子に触れたか、何を調べたか、すべて記録されます」
直人は窓の外を見た。三月半ばの東京。皇居の森に桜の蕾がふくらみ始めている。ソメイヨシノはまだだが、早咲きの河津桜がちらほらと開いている。ピンクの花びらが、灰色の枝に散らばっている。
「記録されるのは構わない。正式な学術調査なんだから。むしろ記録が残ったほうがいい。調査の透明性が担保される」
「そうですね。——もう一つ、お伝えしたいことがあります」
「何ですか」
「復職の手続きを始めました」
直人は受話器を握り直した。
「書陵部に——戻るのか」
「はい。休職の理由は『個人的事情』でした。復職の理由も同じ形式で出しますが——実質は、巻子の学術調査に書陵部の内部から参加するためです。部外者として調査を申請するよりも、書陵部の職員として内部から動いたほうが、アクセスの自由度が高い」
「真琴さん。書陵部の中に戻るということは——監視の対象に戻るということだ」
「分かっています。でも、監視されることを恐れて行動を止めるのは、維持派の祖父がやったことです。祖父は空白を守るために沈黙した。私は——空白を開くために声を上げます。同じ場所にいても、行為の意味が違う」
一週間後。巻子が書陵部に戻った。
直人は手続き上、修復士として正式な修復依頼を受ける形を取った。修復報告書の更新と、保存状態の再確認。名目は地味だが、巻子を合法的に手に取れる根拠になる。
学術調査の本格的な申請は、真琴が復職後に書陵部内から行う。共同申請者として永田修造、琉球大学の考古学教授、そして三条財団が研究費を提供する。
「直人さんは当然、修復士として参加しますよね」
「当然だ」
「なら——もう一度、あの巻子を開きましょう。今度は正面から。隠すためではなく、開くために」




