第八十二章 査読
一月十五日。修復室。
直人は修復台の端にノートパソコンを置き、メールを開いた。保存科学誌の編集部からの通知。
件名:「投稿論文 審査結果のお知らせ」。
直人は息を整えてから、メールを開いた。
『鷺宮直人様
ご投稿いただきました論文「楮・雁皮二重漉き和紙における微細繊維操作の分析——明治初期の情報秘匿技術に関する修復学的考察」について、査読結果をお知らせいたします。
査読者三名の評価は以下の通りです。
査読者A:条件付き採択
査読者B:採択
査読者C:条件付き採択
総合判定:条件付き採択(修正後掲載)
修正条件:
1. 図版7(繊維密度マップ)の解像度を600dpi以上に向上させること。
2. 繊維操作領域と非操作領域の密度差について、統計的検定(t検定またはWilcoxon検定)の結果を追記すること。
3. 査読者Aのコメント(別紙)に対する回答を提出すること。
修正版の提出期限:二月十五日。
掲載予定:三月号。』
直人は査読者Aのコメントを開いた。
長かった。A4で三ページ。文化財科学の専門家が、論文の細部を徹底的に検証している。繊維操作の意図性をどう証明するか。自然劣化によるパターンとの区別をどう担保するか。統計的有意性の閾値設定は適切か。
厳しいが、正当な指摘ばかりだった。
だが、コメントの最後に——一文だけ、査読の範囲を超えた記述があった。
『なお、本論文の結論が示唆する「高度な情報秘匿システム」の存在については、筆者が別途公開しているウェブサイトの内容と明らかに関連している。学術論文としての本稿の価値は、ウェブサイトの主張の真偽とは独立に評価されるべきであるが、読者がこの関連に気づくことは避けられない。筆者には、学術的厳密性を最後まで貫くことを強く期待する。』
査読者Aは——直人のサイト「未完の神器」を読んでいた。読んだ上で、論文を通した。
直人は修正作業に取りかかった。図版の再撮影。統計検定の実施。早川に連絡を取り、データの再処理を依頼した。
修正は一日で完了した。十年間の修復作業で鍛えた集中力が、こういう場面で効いた。改訂版を提出し、掲載号は三月号に確定した。
だが、論文の波紋は掲載前にすでに広がり始めていた。
一月下旬。査読者の一人が——匿名査読の原則に反して——論文の概要を知人の歴史学者に漏らした。直接の連絡ではなく、学会の懇親会での雑談だったらしい。「面白い論文が出るよ。和紙に暗号が仕込まれていたという話」。
酒の席の一言が、学者のネットワークを伝って拡散した。
二月一日。東京大学の日本近代史の教授がSNSに投稿した。
『近日刊行予定の保存科学誌に、極めて興味深い論文が掲載される。明治初期の和紙に、意図的な情報秘匿の痕跡が確認されたという。先日話題になった「未完の神器」サイトの内容に、科学的裏付けが与えられることになる。なお、筆者の鷺宮氏は文化財修復士であり、歴史学者ではない。修復の現場から歴史の常識を覆す発見が出てきたことは、学際的研究の重要性を改めて示している。』
この投稿は二十四時間で一万回以上リポストされた。
直人のサイト「未完の神器」へのアクセスが再び急増し、一日のアクセス数が五十万を超えた。メディアからの取材依頼が殺到した。テレビ局三社、新聞五紙、ウェブメディア十数社。
直人はすべてを断った。早川が代わりに対応し、一律の回答を返した。
「鷺宮は修復士であり、学術論文の執筆者です。論文が正式に掲載されるまでは、学術的なプロセスを尊重し、メディアでのコメントは控えさせていただきます」
修復室で、直人は電話の鳴り続けるスマートフォンをマナーモードにし、手袋を嵌め直した。修復台の上には、江戸時代の掛け軸が待っている。通常業務は止められない。
だが水面下では、もう一つの決定的な動きが進んでいた。
二月八日。早川が修復室に駆け込んできた。普段はメッセージで済ませる男が、直接来た。それだけで——重大なニュースだと分かった。
「先輩。拓本の年代測定結果が出ました」
「結果は」
「放射性炭素年代測定。拓本の障子紙に付着していた石灰岩の微粒子——洞窟壁面由来の粒子っす。それを分離して測定した結果——」
早川はノートPCの画面を直人に向けた。グラフが表示されている。
「西暦一八五〇年プラスマイナス十五年から、一八八〇年プラスマイナス十五年。九十五パーセント信頼区間で、明治初期と完全に一致」
直人は画面を見つめた。
「壁面の文字は——明治初期に刻まれたものだ。拓本がそれを正確に転写している。年代的な裏付けが取れた」
「はい。これで、原本がなくても——拓本の信頼性を独立に証明できます。政府が原本を管理下に置いていても関係ない。拓本と年代測定データがあれば、第三者による検証が可能っす」
直人は手袋を外し、早川のノートPCのデータを確認した。測定はアメリカの放射性炭素年代測定ラボに外注されていた。三条財団が費用を負担している。第三者機関による独立した測定。査読論文の補足データとして、これ以上の信頼性はない。
「追加論文として投稿する。補足データと方法論の詳細を記述して——」
「もう書いてあります」早川がUSBメモリを差し出した。「先輩の名前が筆頭著者。俺が第二著者。方法と結果は全部まとめてあるんで、先輩は結論だけ書いてください」
直人はUSBメモリを受け取った。
「——早川。お前、いつの間にそんなに頼りになった」
「先輩に鍛えられましたから。靴墨の拓本を最初に見たときの俺は、こんなとこまで来るとは思ってなかったっすけどね」
直人は追加データを整理し、補足論文を書き上げて投稿した。タイトルは「摩文仁洞窟壁面由来石灰岩微粒子の放射性炭素年代測定——拓本資料の年代的真正性の検証」。
地味なタイトル。だがこの論文が通れば——暗号の科学的裏付けは、もはや覆せないものになる。




