第七十三章 冬の修復室
十二月一日。
修復室の温度は二十度。湿度は五十五パーセント。いつもと同じ。
だが、修復台の上は空だった。巻子がない修復台は、直人にとって初めての経験だった。十年間、常に何かが——修復を待つ遺物が——この台の上にあった。
直人は空の修復台を見つめた。
空白。
巻子が回収された十月から一ヶ月半。首里城の発掘から二週間。直人は修復室に戻り、通常業務を再開していた。他の依頼品——江戸時代の掛け軸、明治期の地図帳——の修復を進めている。
だが頭の中では、暗号が回り続けていた。
第三部。空白を書く。
空白の第五条。未央印の空白の印面。そして——暗号全体の空白。設計者が「後世の民が書くべし」と宣言した、あの空白。
何を書くのか。
直人には分からなかった。分からないまま、修復台の前に座り続けていた。
ドアがノックされた。
「直人さん。コーヒーです」
真琴の声。
直人はドアを開けた。真琴が立っていた。紙コップのコーヒーを二つ。
「九条さん——真琴さん。書陵部は」
「休職中です。でも、この建物には入れます。元職員の身分証がまだ有効なので」
「それは——問題があるのでは」
「あるかもしれません。でも、コーヒーを届けるだけですから」
真琴は修復室に入り、いつもの場所——窓際の椅子——に座った。直人は修復台の前の椅子に座った。
二人でコーヒーを飲んだ。
「直人さん。——書けそうですか」
「何を」
「空白を」
直人はコーヒーの紙コップを見つめた。
「書けない。何を書くべきか分からない」
「分からないのは——当然だと思います。百五十年間、誰も書けなかった空白です」
「設計者は、後世の民が書くべきだと言った。だが、具体的に何を書けばいいかは示していない。空白は自由だと——祖父は言った。だが自由すぎて、何を書けばいいか分からない」
真琴は窓の外を見た。冬の皇居の森。葉を落とした木々が、灰色の枝を空に伸ばしている。
「直人さん。一つ、提案があります」
「何ですか」
「空白を書こうとしないでください」
直人は真琴を見た。
「書くために、たくさんの人の声を聞きませんか。照屋真栄さんの声を聞いたように。設計者の声を拓本から聞いたように。——空白に何を書くかは、私たち二人で決めることではない。この暗号に関わったすべての人の声を集めて、その声が示す方向に——自然に浮かぶものが、空白の内容です」
「すべての人の声——」
「三条冬美さん。真壁透さん。早川さん。永田先生。比嘉さん。照屋真栄さん。ハートリー教授。——そして、もう声を聞けない人たち。三条実朝。照屋筑登之。川村啓一郎。私の祖父。真壁さんの祖父。摩文仁で亡くなった十九歳の兵士たち」
「声を集める——」
「暗号は、一人の天才が設計したものではないと思います。実朝が設計し、筑登之が守り、川村が改変し、祖父が封じ、三条冬美さんが伝え、真壁さんが分析し、あなたが発見した。百五十年間の、多くの人間の意志の集積です。空白を書くのも——一人ではないはずです」
直人はコーヒーを飲み干した。
「声を集める旅に出よう。もう一度——五つの座標を巡る。今度は物証を探すためではなく、声を聞くために」




