第5話 書類が揃えば、世界は動く
黒木課長は、珍しく真面目な顔をして資料を手に取った。
「よし……まずは前例の資料を読もうか。」
真田先輩は静かに頷き、僕も手元の報告書を整える。
机の中央には、藤原先輩が残してくれた一冊の古い報告書が置かれていた。
『巻き戻し事例報告書(未承認・管理課却下)――元禄十六年』
ページをめくると、紙の匂いとともに、時代を越えた空気が立ち込める。後年、管理課によって貼られた紙片や書き込みが、幾度も読み返された記録であることを物語っていた。
黒木課長は、書類を追うように目を走らせる。
「えーと……後年の管理課追記か。宝暦年間の反省を踏まえ、影響が最小限と判断された、真面目な庶民を被験者に選定……」
少し言葉を探すように、視線を滑らせる。
「試験的に、火事発生日の前日に一日だけ時間を巻き戻し、行動を観察。結果——成功。被験者は火災の兆候を察知し、即座に消火措置を実施した、か。」
黒木課長は一度言葉を切り、指先で紙を叩いた。
「……なるほどな。」
納得したというより、条件と結果が頭の中で噛み合った、そんな声音だった。
そのまま視線を落とし、読み進める。
「その後、一週間、一ヶ月と期間を段階的に延長したが、特段の問題は確認されず。最終的に三年の巻き戻しを実施……と」
「うまくいってますね。」
思わず、僕は口にした。数字も結果も揃っている。その上、手順も丁寧だ。少なくとも“失敗”と呼ぶ理由は、今の所見当たらなかった。
真田先輩が、ふっと息を吐く。
「段階的で、検証も丁寧……理想的な運用です。」
評価は、そこまでは一致していた。
しかし、その先は結論として処理されているだけだった。
『被験者は介入後、極めて合理的かつ安定した行動を示した。ただし、自発的選択による行動変化は確認されず、世界に有意な影響を与えたとは判断できないため、ここで試験運用を終了とした。』
――成功している。
手順も結果も、文面だけを追えば非の打ちどころはない。
火事は防がれ、人は救われ、混乱も起きていない。
少なくとも「失敗」と切り捨てられる理由は、どこにもなかった。
それなのに、この試験運用は、そこで止められている。
続きを検討する余地も、再実施の記録もない。
それ以上、先は書かれていなかった。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
その沈黙を破ったのは、真田先輩だった。
紙面からゆっくりと目を上げ、一度、言葉を選ぶように間を置いてから、静かに口を開く。
「……この案件がなぜ“失敗扱い“になったのか。分かりますか」
答えを求めるというより、こちらの思考を確かめるような声音だった。
僕と黒木課長は、同時に視線を向ける。
でも、すぐには言葉が出てこない。
真田先輩は、その沈黙を受け止めるように、視線を報告書へ戻したまま、続ける。
「被験者の行動が、性善説に委ねられているんです。」
真田先輩は、報告書から目を離さないまま、続けた。
「特別な決断も、葛藤も必要のない人物。ですから、合理的には動けます。」
そこで、言葉がわずかに途切れる。
「けれど——世界を変えるような選択は、生まれなかった。」
声の調子は変わらない。
だが、その一言だけが、妙に重く落ちた。
「この元禄案件は、“善良な人間が、ただ、善良な行動を取った”それだけの結果しか残らなかったんです。」
なるほど、と息を呑む。
正しかった。
確かに、間違ってはいない。
そして——
それだけだった。
「条件が揃えば、ある程度同じ結果は出せるでしょう。でも、それは誰にでも当てはまるわけじゃありません。」
真田先輩は、そこでようやくこちらに視線を向ける。
「だから、この案件は “前例”には、なりきれなかったんです。」
黒木課長は、しばらく無言で資料を見つめていた。
やがて、書類の端を指で押さえる。
「……前例があること自体は大きい。 だが、このままじゃ、確実に通らん。」
一度、考え込むように視線を落とす。
長くはない。ただ、空気が止まったかのような一瞬。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「あ、そうか」
黒木課長は椅子に預けていた背を起こし、机に手をついた。
「転生と巻き戻しは、そもそもの前提が違うんだ。巻き戻しは、ただの庶民じゃ駄目だ。」
言葉はゆっくり。
だが、一つひとつが理屈として、静かに重なっていく。
「——巻き戻しは、影響力を持つ人物に適用する。その人物は未練や試練を抱えたまま、記憶を携えて保持して時を戻す。つまり、別の選択を“自分で選ばざるを得なかった人間“だ。」
珍しく、真田先輩も小さく頷いた。
「理屈は通りますね。」
「よし……この条件で、組み立て直そう」
黒木課長が立ち上がりかけた、その瞬間。
真田先輩が、静かに腕を上げる。
「では、まずは起案ですね。事前承認伺いが必要です。」
目を丸くした黒木課長にとどめを刺すよう、真田先輩は続けた。
「起案前承認です。」
黒木課長は慌てて手を広げ、椅子の背もたれに体を預けながら後ずさった。その様子は、まるで巨大な岩に押し返された小舟のようだった。
「ええええ!?」
「手順を踏まなければ、後で問題になります。今回の件は公式的には初の試みです。」
黒木課長は少し考えた後、僕を指さした。
「……よし!相川君、担当だ。今回はな、新しい視点が必要だと思う。君に書いてほしい。あっ、真田君サポートお願い。」
「えっ!?」
僕は思わず跳ねた。
「大丈夫。責任は持つから」
黒木課長の声は、どこか心強く、どこか恐ろしい。
「大丈夫。サポートするよ。一緒に頑張ろう。」
真田先輩が、すっと隣に立つ。視線は報告書に残したままだったが、声は静かで、妙に安心感があった。
こうして僕は、人生初の「起案のための起案」を書くことになった。




