第4話 未承認案件
あれから数日後——
転生人事課内には、今日も紙を捲る乾いた音だけが響いていた。
エアコンの風は弱く、この部屋だけ時間の流れを忘れている。
机の上には、分厚い規程集と黄ばんだ資料の束が積まれ、それらは無言のまま、しかし確実にこちらを圧迫していた。
「……ないね」
黒木課長が、心底疲れ切った声で言った。
背もたれに体重を預け、天井を仰ぐ。その目は、もう焦点が合っていなかった。
「こちらも確認済みです。」
真田先輩は淡々と、分厚い規定集を閉じた。その動作は正確で、迷いがない。ただ、ほんのわずかに疲労が滲んでいた。
「注釈、但し書き、※印。すべて確認しました。」
「脚注の脚注は?」
「そんなものは存在しません。」
一切の間を置かない即答だった。
希望という概念は、この制度には最初から実装されていないらしい。
「くそぉ……!」
黒木課長は、苛立ちを隠すこともなく机に突っ伏した。
「制度ってさ……“抜け道”があるから人類はここまで来たんじゃないの!?」
(この人、本当に行政職なんだよな……?)
内心でそう呟きつつ、僕は視線を手元の資料に戻す。この数日、書庫に籠もって過去事例を洗い続けた。
索引を辿り、脚注を追い、関係しそうな案件は片っ端から確認した。転生しない救済。記憶を保持したまま“戻す”だけの処置。
——そんな都合のいい前例は、見当たらない。
「……やはり、前例は見つかりませんね。」
断言は避けた。
まだ、すべてを見切ったとは言い切れなかったからだ。
「ほんと、ないね……。現行制度、完璧すぎるのも考えものだ。」
黒木課長のそれは、半分本気で半分は完全な愚痴だった。
沈黙が落ちる。
紙が擦れる音だけが、やけに大きく響いた。
その重さに耐えきれず、胸の奥に引っかかっていた疑問が、ふっと口をついた。
「あの…… 変なこと言ってたらすみません。神隠しは、時代的に使えなくなったんですよね?」
二人の視線が、同時にこちらへ向く。
「でも、長い歴史の中で……神隠しが“うまくいかなかった時期”って、なかったんですか?」
真田先輩は、すぐには答えなかった。
視線を落とし、指先で規程集の背をなぞる。何度も見返したはずの頁を、もう一度確かめるような仕草だった。
やがて、その手が止まる。
「——神隠し制度が本格化したのは、長和年間。平安だ。当時としては非常に優秀な制度だった。」
低く、落ち着いた声。
淡々としているのに、それだけで空気が一段重くなる。
真田先輩は、規程集から指を離した。
「考案者は、藤原さんだよ。」
(……そうか、と胸の奥で静かに腑に落ちた)
驚きはあった。だが、不思議と違和感はない。
あの人が見てきた時代の数を思えば、むしろ当然の名前だった。
「だが、順調に見えた制度にも綻びは出る。最初に大きな問題になったのは——宝暦年間。」
「宝暦!?」
黒木課長の声が、思わず裏返った。
「…つい最近じゃないか」
「江戸中期ですね」
僕が補足すると、真田先輩は小さく頷いた。
「当時、“影響力のある人間を異世界に送れば、世界の均衡が安定するのではないか”という仮説が立てられました。」
嫌な予感が、じわりと広がる。
「……やったんだね?」
黒木課長の声には、聞きたくない現実を確かめる響きがあった。
「当時としては、前向きな実証実験でした。」
感情のこもらない、報告書の一文をそのまま読み上げるような声だった。
対象は、学者で、発明家で、奇人。
名前を出さなくても、誰のことか察しはつく。
結果は———失敗。
失踪は噂を呼び、噂は憶測を生み、現世の日本——江戸の世は、かえって不安定になった。
「この件を受けて、基準が改定されました。 “消えても影響の少ない人間のみ対象”と」
「なるほど……」
黒木課長が、妙に納得した声を出した。
「……黒木課長は、ご存じなかったのですね」
「……それ、責めてる?」
「事実を述べただけです」
真田先輩は淡々と続ける。
「課長が転生課に異動されたのは、その後ですから」
そして——
「大正末期から昭和初期にかけて、制度は完全に破綻しました。」
新聞、戸籍、徴兵記録。
人が一人消えるだけで、“事件”になる時代。
それ以降——
神隠しは、正式に使用不能と判断された。
重たい沈黙が落ちた、その時。
「その通りだ。」
低い声が割って入る。
振り向くと、藤原先輩が立っていた。
いつ来たのか、足音すら覚えていない。
彼は、一冊の古い資料を机に置いた。
『巻き戻し事例報告書(未承認・管理課却下)――元禄十六年』
「神隠しの代替として、一度だけ試された案件だ。」
課長と真田先輩が、同時に息を呑む。
「「そんなものが……」」
「成功……したんですか?」
自分でも驚くほど、自然に声が出た。
「失敗とも、成功とも言えない。」
藤原先輩は、わずかに視線を伏せた。
まるで、思い出す必要のない時間に、触れてしまったかのように。
「世界は壊れなかった。だが、再現性がなかった。」
短い言葉だったが、そこには積み重なった年月の重さがあった。成功とも失敗とも断じきれない結果を、ただ抱え続けてきた者の声音だった。
藤原先輩は、無言のまま資料をこちらへ差し出し、踵を返した。
その背中は、幾つもの時代を背負ったまま、書庫の奥へと溶けていった。




