第3話 前例なし、前途はあり
管理課へ行く途中、壁の案内掲示板が目に入る。
《異世界均衡維持局・部署一覧》
「真田先輩。さっき言ってた管理課とか、予算課って……?」
「ああ。転生人事課以外にも色々あるんだよ。」
歩きながら、真田先輩が教えてくれる。
「調査課は世界崩壊リスクの調査。予算課はお金。付与課は……まあ、チート配分だね。」
「じゃあ、管理課は?」
真田先輩は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……規則に厳しい。それだけで、十分だよ」
それだけで、十分だった。
「着いたよ。ここだ。」
真田先輩が、無駄のない動きでドアを開ける。
《管理課》
異世界均衡維持局全体を統括する部署。
今回は転生を伴わないため、ここに相談することになった。
――が。
「前例がありません」
管理課の職員は、感情の起伏を一切感じさせない声で言った。
「規程にも記載がなく、想定外の運用です。」
「でも、転生してないんですよ!?」
黒木課長が食い下がる。
「“していないからこそ”問題です。」
それ以上、言葉は続かなかった。
正論だけがその場に残り、三人は来た道を引き返すことになった。
⸻
「……仕方ないね。」
転生課に戻るなり、黒木課長は肩を落とした。しかし、その足取りには“仕方なさ”が一切含まれていなかった。
「過去に似た事例がないか、探すしかないか。」
「そうですね。」
真田先輩は頷いた。
黒木課長は一度だけ深く息を吐くと、すぐに顔を上げた。
「真田君はマニュアルと制度をもう一度精査して。どこかに使えそうな余地が残ってないか。相川君は――書庫に行って、過去の事例を探してきて!」
「はい」
こうして僕は、書庫送りになった。
(前例がない……か)
それは、何もなかったという意味じゃない。
百年分の時間が積もった場所なら、“前例にならなかった紙”が、どこかに一枚くらい残っているはずだ。
僕は、そう信じることにして書庫へと向かった。
———
書庫は、静かだった。
空調の音すら仕事をしていないかのようで、時間だけが、ここに取り残されている気がした。
視界いっぱいに並ぶのは、綴り紐で閉じられた古い紙束、ファイル、ファイル、ファイル。
そして――明らかに時代錯誤な巻物。
(……紙媒体どころか、巻物?)
ここにあるのは――
使われなかったもの、使われなくなったもの。
そして、前例にならなかった紙の山だ。
事例集を探して棚の奥を覗いたとき、
書類に埋もれている人物が目に入った。
周囲はすべて時代に取り残されているのに、
その人だけは、不思議と凛として見えた。
百年間止まっていた転生課の中で、
その人だけが、静かに自分の時間を生きている。
棚の前に立ったまま、僕は事例集を一冊引き抜いた。
「ええと……これかな?」
表紙に手をかけた、その瞬間。
「……それ、まだ使うのか。」
低く、乾いた声がした。
「え?」
顔を上げると、男と目が合った。
書類の山越しに向けられた視線は、驚くほど静かだった。
「あぁ……」
短く息を吐き、男は名乗る。
「藤原だ。よろしく。」
(この人が……)
「はじめまして。今日から配属になりました、相川 透です。」
藤原先輩は返事の代わりに、書庫全体を一度だけ見渡した。
「ここは転生課の書庫だ。」
淡々とした口調で、古風な形の眼鏡を指で押し上げる。
「使われなかったものだけが、残っている。」
そう言って、棚の奥——
触れられることすらなく、時間だけが積もっていく場所へ、短く視線を落とした。
「百年間、仕事が進んでないことも——聞いたか。」
「……はい。」
「昔はよかった。」
ぽつりと落とされた言葉には、懐かしさとも諦めともつかない響きがあった。
「監視カメラのない時代だ。……神隠しは、画期的だった。」
沈黙が、過去の気配だけを残して広がる。
「今は……誰も信じない。」
それで、この話は終わりだと言わんばかりに、視線が戻る。だが、その手は止まったままだった。
「……いくつだ、君」
その問いと同時に、藤原先輩は一瞬だけ顔を上げた。
「えーと……24、だったと思います」
「……若いな」
(何が“若い”のか、正直分からなかった)
視線はすぐに書類へ戻り。それ以上、言葉は続かなかった。それでも、ほんの一瞬だけ向けられたその目は、
僕を“今”として見ていなかった気がした。
その一言だけで、僕と藤原先輩は、同じ時間を生きていないのだと理解した。
それでも——。
「でも、その頃は……間違ってはいなかったんですよね」
言い切ることができず、語尾を落とす。ほんの一瞬、言葉を探してから、続けた。
「人を“消す”やり方でも」
藤原先輩は、わずかに目を伏せた。否定も肯定もせず、過去を確かめるような沈黙。
「……あれは、確かに最適解だった。」
そして、静かに続ける。
「だが今は無理だ。」
そこで、言葉が途切れた。
「神より、カメラの方が信じられている。」
胸の奥が、ひやりと冷えた。その言葉が意味しているのは、技術の問題じゃない。“信じられるもの”が、完全に入れ替わってしまったという事実だ。
一瞬、躊躇ってから、僕は口を開いた。
「あの……今は問題が起これば、神の力で世界を巻き戻している。だから均衡は保たれてるんですよね」
言葉を探すように、僕は続けた。
「実は、その“巻き戻し”を使った、巻き戻し案が出まして……。」
藤原先輩は、すぐには答えなかった。
「……そうか」
藤原先輩は、僕を一瞬だけ見つめたまま、何も言わなかった。やがて、その視線を静かに外し、手元の書類へと戻す。まるで、その話題自体を、そっと棚に戻すかのように。
「君は、それを“使える”と思えるんだな。」
その沈黙が使えるかどうかを考えた末のものなのか、それとも、考える必要すらないと言う意味なのか、その言葉の意味を、その時の僕はまだ理解できなかった。
「相川君〜?」
遠くから、黒木課長の声が響く。
「資料、なにか見つかった〜?」
「あ、はい。今行きます」
僕は慌てて書類を抱え、藤原先輩に軽く頭を下げた。
「それでは……失礼します。」
藤原先輩は、返事をしなかった。ただ、書類から視線を上げることもなく、そこにいた。
(……前例はない)
それでも。
百年止まっていたこの課は、
今日、確かに少しだけ、動こうとしている。
そう感じながら、
僕は重い扉を閉めた。




