第2話 異世界転生、起案中
黒木課長は、信じられないものを見るような顔で、決裁書を見つめていた。
「……いやぁ」
一拍置いて、口元がゆっくりと緩む。
「嬉しいねぇ……実に嬉しい。」
そう言って、机の引き出しから印鑑ケースを取り出した。
「まさかこの私がね。却下印、不採用印、保留印以外を押せる日が来るなんて!」
ぽん、と景気のいい音が鳴る。
決裁課長欄《可》。
それを見た瞬間、真田先輩が身を乗り出した。
「課長、まだです。まだ正式決定じゃありません!!」
「うん?」
「試験運用です。あくまでも。」
その一言で、黒木課長の表情が一瞬だけ引き締まる。
「あぁ……確かにそうだね。」
神妙に頷いた、その直後。
「でもまぁ、百年ぶりの前進だよ?多少は浮かれても許されると思わない?」
そう言って、古びて茶色くなった藁半紙をひらひらと振った。それだけで、この課がどれほど長い間止まっていたのか、十分すぎるほど伝わった。
「思いません。」
真田先輩は即答だった。
「問題は――」
彼は視線を天井へ向ける。
「上が、なんて言うかですね。」
その“上”が何を指しているのか、言うまでもない。神様たちだ。
「だよねぇ……」
黒木課長は椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。
「……その前に、まずは書類だね。」
「ですね。」
「ええと……マニュアルは……」
課長は立ち上がり、部署の奥へと向かった。
部屋の隅に追いやられ、埃を被った棚を探ると、分厚い、閉じ紐で綴られた古いファイルを引きずり出す。
表紙には、こう書かれている。
《転生人事課 業務手順書(最終編集:大正十一年)》
「「「……」」」
「百年前だね」
「……ですね」
黒木課長はページをめくりながら、豪快に笑った。
「いやぁ、そりゃ更新してないよね!百年間、使ってなかったんだから! わはははは!」
「笑ってる場合じゃないですよ。」
「あ、でも改定自体は令和五年にされてるよ。えーと……なになに。まずは伺い文……」
課長は指でなぞるようにしながらマニュアルの続きを読み上げる。
「次に起案書の作成。神様の承認を得てから回議書。その後、審査。問題なければ決裁……」
一同、沈黙。
「……長いですね?」
思わず、僕は口に出していた。
「長いね」
課長も素直に同意する。
「一応、行政機関ですからね。そりゃ長いですよ。」
「そもそも真田君、こんなに文書あったっけ?起案して、神様に直接相談して、決裁。……百年前はもっとシンプルだった気がするんだけど。」
「増えたんですよ。百年分。」
真田先輩が、事務的に言った。
「それから、説明責任です。」
「…神様相手に?」
「神様相手だからこそ、ですよ。」
黒木課長は、がくりと肩を落とした。
「なんでぇぇぇ……!」
そしてそのまま机に突っ伏し、絶望したように叫ぶ。
「世界を救う話なのに、書類が世界を滅ぼしに来てるよ……!」
その背中に、真田先輩は容赦なく追い打ちをかけた。
「それだけじゃありません。転生者本人への説明と同意。
そして、クーリングオフ対応も必要です。」
「ク、ク、ク、クーリングオフゥ!?」
「……そういう時代ですから。」
「そ、そんなぁ……」
「あとはですね…」
「まだあるの!?」
半ば泣き声で叫ぶ課長をよそに、真田先輩は黒木課長が抱えたマニュアルの、さらに次のページをめくった。
「えーと……転生者候補選定理由書……?」
「そうです。」
真田先輩は、無駄に力強く頷く。
「転生させる理由を明文化する書類です。」
「理由?」
「はい。端的に言えば『なぜこの人物でなければならないのか』『代替不可能性』『現世における社会的影響の軽微性』などを記載します。」
「……軽微性?」
「簡単に言うと。その人がいなくなっても問題にならない理由ですね。」
真田先輩は、業務報告のように淡々と答えた。
「そんな理由、文章にできる!?」
黒木課長の声が、完全に裏返る。
「できます。というか、しないといけません。」
即答だった。
「次が転生後適性確認票。宗教観、倫理観、暴力耐性、魔法適応の有無……」
「ちょっと待って!?
魔法適応って、履歴書に書く内容になってきてない?!?」
「はい」
黒木課長は、めくっていたマニュアルをそっと閉じた。
「……相川くん」
不意に名を呼ばれ、僕は背筋を伸ばす。
「はい」
「これ、世界を救う前にーー心が折れない?」
課長のその一言に、世界の危機より先に、この課の事務処理能力のほうが試されている気がしてならなかった。
もしかして転生課って、異世界を救う部署じゃなくて、異世界を救うための書類を量産する部署なのでは?
泣き崩れる黒木課長を横目に、僕はふと思った。
――あれ?
これ、転生より先に、この課が限界を迎えるんじゃないだろうか。
こうして。
百年ぶりに動き出した転生課は、最初の敵として、書類の山と、百年分の制度の壁に立ち向かうことになったのだった。




