雷鳴と決断
この国は、変わることを恐れていた。
誰かが声を上げれば、「どうせ無駄だ」と笑われ、
誠実であろうとすれば、「損な生き方だ」と冷めた目を向けられる。
正しさが嘲笑され、希望が諦めに飲み込まれていくこの国で、
それでも“まっすぐに在ろう”とした者がいた。
彼の名は──安西忠道。
どこにでもいるような青年。
けれど、どこにもいないような頑固さと真面目さを持っていた。
これは、そんな男が“未来”に選ばれ、
“過去”に投げ込まれた物語。
人生を賭けてサイコロを振り、
一度きりの選択でこの国の明日を変えようとした、
ある若者の、あまりにも不確かな賭けの記録である。
いつもより少しだけ長引いた閉店作業を終えて、パンの香りを背中に浴びながら、安西忠道(27)は裏口から静かに出た。
夜の街はしとしとと小雨が降っていた。
街灯のひとつが、パチパチと不安定に瞬いている。
その下を歩く忠道の手には、スマホが握られていた。画面には、たった今の出来事が記録されている。
──駅前で、カップルらしき男女が口論していた。
女性の腕を乱暴に掴む男を見た忠道は、思わず間に入った。けれど、次の瞬間、彼はその男に殴られていた。
騒ぎを聞きつけて駆けつけた警官に、男は平然と言った。
「この人が先に手を出したんです」
「なんでこうなるんだよ……」
ため息混じりに呟く忠道の声は、雨に紛れて消えていった。
―――
駅での事情説明を終え、自宅に戻ってきたのは日付が変わる少し前だった。
部屋に入り、濡れたシャツを脱ぐ。
温かいシャワーが冷えた体を包み込むと、ようやく全身から力が抜けていく。
何もかも、うまくいかない。
風呂上がり、コンビニの袋から惣菜パンを取り出し、缶ビールをプシュッと開けた。
気だるい音が部屋に響き、テレビが静かにニュースを伝えている。
『比江島龍作内閣、企業献金を巡り説明責任問われる構図に──』
「またかよ……」
呆れにも似た虚しさが胸をかすめる。
社会への怒りは、もはや習慣のように心に居座っていた。
スマホを手に取ってSNSを何となく眺めていると、見出しが目に飛び込んできた。
『衆議院議員・渡瀬五郎(33)、突然死。国会の若き希望、志半ばで──』
「……若いのに、何があったんだ」
世の中はおかしい。そう思うたび、忠道は何度も区の交流会に足を運んだ。
“政策カフェ”なんて気の利いた名前じゃない。古びた公民館に集まる顔ぶれは、ほとんどが年配者だった。
それでも、自分なりに何かを変えたくて参加してきた。
だが現実は、いつだって同じ場所に戻ってくる。
「……俺が何をしても、何も変わらない」
そう呟いて、缶ビールを飲み干した。
―――
翌日、昨日の騒動の件で交番から呼び出しがあった。
忠道は真面目に、丁寧に、事実を話した。
「……確かに僕が仲裁に入りました。男が女の人を殴っていたので」
「ふうん……でも、向こうの男性は君から殴られたって言ってるんだよね」
「それは昨日も説明しましたが、僕は彼に手を出していません。殴られていた女性に確認してもらえれば分かると思います。それに、防犯カメラにも映っているはずです」
警官はどこか面倒くさそうにメモを取りながら、曖昧な表情を浮かべている。
忠道はその視線に苛立ちを覚えながらも、言葉を飲み込んだ。
説明を終え、交番を出る頃には雨脚が強まっていた。
びしょ濡れのシャツが肌に張り付く。
忠道はつぶやいた。
「……何のための正義だよ」
信号を守っても、道を譲っても、誰かを助けても、いつも損をするのは自分だった。
それでも、間違っていないと信じたかった。
自宅の古びたアパートの前に着いたその時だった。
忠道の目の前に、傘も差さずに立つひとりの男の姿が浮かび上がった。
「……お前は昨日の」
その顔を見た瞬間、背筋が凍りついた。
駅で騒動を起こし、警察に嘘をついた──あの男だった。
「よぉ、偽善者さんよ。よくも余計なことしてくれたな」
「なんでここに……お前のせいで、こっちは警察に呼ばれて──」
「うるせぇ! オレはな、お前みたいな“正義ごっこ”が一番嫌いなんだよ!」
「どうせお前も、あの女を気があっただけだろ?」
男の右手が閃いた。ナイフだ。
「やめ──っ」
忠道の言葉が終わる前に、鋭い痛みが腹部を貫いた。
「……く……そ……」
その場に崩れ落ちる忠道の頭上に、雷鳴が轟いた。
バチィィィィィン!!
眩い閃光が夜空を裂いた。
―――
次に目を開けた時、世界は白一色だった。
重力も風も音もない。
目の前に、黒いスーツを着た男が浮かぶように立っていた。
「……誰だ?」
「君は今、“生と死の間”にいる」
「……は? 何言って──」
「私は“神”と呼ばれる存在だ。君に、一つ提案がある」
「神……?」
安西は、訳の分からなさと恐怖をごまかすように、鼻で笑った。
「はは……夢だろ。だって、オレ、刺されたのに、今は痛くもねぇし……」
「夢でも現実でも構わない。選ぶのは君だ。君には、この国の未来を変える役目を任せたい」
「……俺に? 何でそんな大役、俺なんだよ……」
「君は選ばれた。理由を知るのはまだ先だ。だが、君なら可能性がある」
「未来を変えるって……何をすりゃいいんだよ」
「二つ、条件がある」
男──神は懐から奇妙な光を放つサイコロを取り出す。
「一つは、政治家になって未来を変えること。もう一つは、人生の要所ではこのサイコロで決断すること」
「……政治家? そんな限定する意味がわからない」
「それが、この国を変える唯一の立場だからだ」
「ふざけんな。こんな状況で選べるわけ──」
「今ここでサイコロを振らなければ、君はこのまま死ぬ」
沈黙。安西はゆっくりと唾を飲み込んだ。
「……どうせ夢だろ? じゃあ、好きにさせてもらうよ」
神が何かを言いかけた瞬間、安西はそれを遮るようにサイコロを手に取り、振り上げた。
コロ、コロ、コロ……
止まった目は──「2」
次の瞬間、視界がねじれ、空間がひずみ、雷鳴とともに身体が弾け飛んだ。
白い閃光の中、神の声だけが静かに響いた。
「安西忠道──時を越えて」
* * *
眩しい光に、瞼が耐えきれなかった。
安西は目を細めながら上体を起こす。蝉の声が耳に刺さるほど鳴いていた。
「……暑……?」
扇風機がカラカラと音を立てて回っている。けれど、見慣れた部屋ではない。畳の上、ちゃぶ台、黒電話。
窓の外には、見慣れない──いや、どこか懐かしい──昭和の街並みが広がっていた。
テレビからは白黒の映像が流れている。スーツ姿の政治家が熱弁を振るう映像だった。