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白雪に染まる  作者: ゆうと
四段昇段~デビューまで
8/14

第8話「竜王ランキング戦6組・第1回戦 その4」

 18時40分。

 夕食休憩が明けて対局が再開されてすぐに、雪姫によって50手目となる8六歩が指された。その後に銀を7筋に移動させたことで、小西川の飛車が空いた6筋を突っ切って三段目まで上がり龍と成る。

 しかし雪姫はその龍には手を付けず、先程の銀を更に前進させた。小西川が夕食前に打った歩がと金と成った後も、穴熊の付近に控えていた角を前線に上げるなどして銀の動きをサポートする。


「こりゃ雪姫センセ、7八銀を目指してるんかな?」


 対局室の並ぶフロアとは別の階にある控室にて独り言を漏らすのは、現役の棋士相手に15時という早い時間帯で勝利を収めた奨励会員の塩見だった。食事を摂る休憩室と同じく和室に低いテーブルが並んだその部屋の奥に腰を下ろし、自身のスマホで雪姫の対局を観戦しつつテーブルの将棋盤に駒を並べて検討している。

 つい先程までは同じ部屋に多くの記者の姿もあったのだが、山本九段の投了により黒羽の勝利が決まったことでほぼ全員が部屋を出払っている。ちなみに塩見の対局相手だった岩城田六段は、感想戦が終わって早々に他の対局には目もくれずさっさと帰ってしまっている。


「塩見三段、お話を聞かせてもらえませんか?」


 と、黒羽と山本九段のインタビューにも向かわず部屋に残っていた、他の記者と比べても圧倒的に若手の部類に入る女性記者・三澤が笑顔で問い掛けてきた。向こうに行かなくても良いのかと一瞬思ったが、確か彼女は広瀬という塩見もよく知るベテラン記者とコンビを組んでいるため、インタビューはそちらが担当しているのかもしれない。

 塩見がニコリと笑って「えぇよ」と答えると、三澤はテーブルの盤面とスマホの画面を視界に捉えながら手帳を取り出した。


「ズバリお訊きしますが、現在どちらが優勢でしょうか?」

「まぁ、流れは完全に小西川四段でしょうな」


 塩見の答えに、三澤は意外そうに目を見開いた。雪姫と仲良くしている彼ならば雪姫の肩を持つ、とでも思ったのだろうか。

 塩見は内心クスリと笑みを漏らしながら、盤上を指差しつつ答えを補足する。


「正直なところ、白鳥四段は調子悪いと思います。最初の仕掛けの時点で構想を外した感じがありますし、今の攻めも玉からは遠い。一方小西川四段は、狙い通り龍もと金も作ることできた。この差は大きい思います」

「最初の対局で千日手になったことが影響してるとは思いますか?」

「そら分からしまへん、本人に訊いてみいひんと。ただ――」


 塩見が一旦そこで言葉を区切る。三澤は首を傾げながらも、彼の言葉の続きを待った。


「白鳥四段の夕食、あらエラい気合入っとった」

「あぁ、うな重の松ですもんね。あんな高価なもの、私だってそう簡単に頼めませんよ」

「そら白鳥四段かて(おんな)じどす。つまりそれだけ、彼女はここからの対局に気合を入れてるちゅうことです。――この対局、おそらく長なりますえ」


 楽しみで仕方ないとばかりに、塩見はニヤリと口角を上げた。

 細目であることも相まって、その表情はまさしく狐を連想させるものだった。



 *         *         *



 読みを挟みつつ慎重に手を進めること通算66手目、20時を回った頃に雪姫は目標である7八成銀を指した。その間に一度前線に上げた角を再び自陣に下げ、その間に小西川のと金が彼女の桂馬を討ち取っている。

 そしてその後しばらくは、互いの玉から遠い6~9筋での攻防が続いた。雪姫は先程引いた角を再び上げて馬と成らすも、小西川の攻撃によって自陣に引いた後は穴熊囲いの部品と化している。その後も自陣に駒を引いたり持ち駒を打ったりと、ひたすら後ろに引いて耐え忍ぶ展開が続く。

 一方小西川は97手目に8六角と、それまで自陣で眠っていた角を攻めに参加させてきた。左翼の龍をダイナミックに動かしながら、角を馬に成らせることに成功する。

 そうして100手目を超える頃には、時刻も21時を優に超えていた。配信動画にて表示されるAIの評価値も1500点を超え、先手優勢の判定となっている。


 ――くそっ、さすがに固いな……!


 とはいえ、それはあくまで“最善手を指し続けられれば”という条件付きでの話だ。小西川本人としては、雪姫のとにかく耐える姿勢により攻めあぐねている、という自己評価となっている。

 穴熊の特徴は、他の囲いと比べても非常に堅牢であることだ。成立までに手数は掛かるものの、金銀が連結して壁となることで特に横からの攻めに強く、玉が戦場から遠い隅に籠もるため囲いを崩さない限り絶対に王手が掛からない。

 反面、その固さが仇となることもある。玉が囲まれているということは身動きが取れないということであり、持ち駒を打てる場所も制限されることで受けがない状況に陥ることがある。自陣に隙が多いため相手に入玉(相手陣地に玉が侵入すること)される可能性も高く、穴熊側の打開が不可能となり投了するというパターンもよく見られる。

 小西川としてはそれを目指したいところだが、そろそろ持ち時間の残りが気になってくる頃合いで、果たしてどこまで正確な攻めを継続させられるか――


「…………!」


 そんな彼の心理を表すかのように、通算109手目にて6四に持ち駒の歩を打った。雪姫はそれを見て5筋の歩を進めて成銀に迫るも、小西川は更に歩を進めてと金に成らせた。

 しかしその隙に、雪姫の歩が成銀を取った。更に先程のと金も、穴熊に寄せたことで雪姫の金に取られる。その金は龍で取ったものの、結果的には小西川にとって駒損となる遣り取りだった。

 なおその際に龍が雪姫の穴熊に迫る形となったが、先程作った馬が8筋にて雪姫の龍で取られ、それを先程の龍で取り返すために8筋へと移動する羽目になった。するとその隙を突いた雪姫が、先程奪い取ったばかりの角を5五に打ち込んだことで龍は自陣への撤退を余儀なくされる。

 角の投入から始まった小西川の攻めが、ここで一度途切れた。盤上の駒は先手から見て右翼側に偏っており、6~9筋は駒が3つしかないスカスカの状態だ。


 ――いや、戦局は未だにこっちの方が優勢、のはずだ。


 後手陣の守りは確かに固いが、後手の攻めがこちらに迫っているわけではない。だから自分の感覚は正しいはずだ、と小西川は扇子を持つ手にグッと力を込めた。

 とにかくここからが踏ん張り所だ、と小西川が前のめりになる、


 まさにそのタイミングだった。


「白鳥先生、持ち時間が無くなりました。ここからは1分将棋となります」

「――――!」


 記録係の呼び掛けに、雪姫はピクリとも動かず盤面をジッと見据えている。むしろそれを聞いた小西川の方が、傍目に見えるほどの反応をしなかったか心配になるほどだった。

 自分と雪姫との消費時間に、それほど差は無い。つまり彼女の持ち時間が無くなったということは、程なくして自分もそうなることを意味する。


「50秒。1、2、3――」


 記録係の秒読みをBGMに、雪姫はそれまで攻防を繰り広げていた(先手から見ての)左翼側ではなく右翼側に狙いを付けた。1筋の歩を進めて攻め入る彼女に対し、小西川も持ち駒を投入しつつ対応していく。

 それにより、スカスカな左翼とは反比例して右翼の窮屈度合いが急激に増していった。一瞬2筋のマスが全て駒で埋まる“駒柱”と呼ばれる形となったり、それぞれの香車が1筋に集結したりと、如何にこの対局が難解であるかがそれだけでも推し量れる。


「小西川四段、持ち時間が無くなりました。ここからは1分将棋となります」

「――――くっ!」


 もうすぐ22時を迎えようという頃、小西川からしたら駒の取り合いの中で守りを都度補修しつつ攻めの機会を窺っている状況で、彼の持ち時間が無くなり1分将棋に移行した。時計を頻繁に確認していたため予期していたとはいえ、いざそのときが来るとそのもどかしさに思わず顔をしかめてしまう。

 通算147手目、1分将棋で間違えられないプレッシャーの中、小西川が3四桂と攻めに転じた。それまで7筋で静観していた龍も4筋へと移動し、更に桂馬のすぐ後ろに持ち駒から2枚目の桂馬を打ち込み、雪姫の穴熊を崩さんと襲い掛かる。

 しかし雪姫の徹底抗戦により、桂馬2枚は相手の角と引き換えに討ち死にし、龍は立て直しを図るべく元の7筋へと退却する結果に終わった。とはいえ雪姫の大駒は自陣に籠もる馬のみであり、以前小西川が優勢であることは変わらない。


「…………」


 雪姫もそう感じたのか160手目にて5五歩と指し、龍が右翼に攻め込む際の通り道を塞いだ。更に次の手で4四の位置に桂馬を打ち込み、攻めの準備を着々と進めていく。

 その桂馬の狙いが3筋の歩にある、と小西川は感じた。


 ――ここを攻められると、少し具合が悪いか……?


 そう感じた小西川は、その歩のすぐ後ろに銀を上げた。これで桂馬に対する牽制になるはずだ、という思いを込めて。

 すると雪姫は次の手で、1八の位置に歩を打ち込んできた。小西川の玉の真横ではあるが、歩は前方にしか進めないため王手ではない。しかし次の手でと金に成った場合、途端にそれは大将首を狙う刺客となる。

 それならば、と小西川は一旦金を玉の左隣に寄せて守りを固めた。何やら先手玉の周りも穴熊めいた雰囲気を漂わせつつも、雪姫の次の一手は予想通り1九歩成。彼は玉でそれを討ち取り、次の手で元の2八へと戻す。

 すると雪姫は、2四の位置に2枚目の桂馬を投入してきた。桂馬であれば2手もあれば玉に届く場所であり、故に小西川は一旦3筋に玉を引かせてそれを躱す。


「――――!」


 と、空いたその位置に雪姫が歩を打ち込んできた。

 目の前にあるのは、初期位置のまま一度も動いていない桂馬。


 ――今、この桂馬を取られるのはマズい!


 咄嗟にそう判断した小西川は、その桂馬を跳ねて逃がした。

 そうして空いた場所に雪姫が歩を進め、と金と成る。小西川が先程と同様に玉で討ち取って対応すると、雪姫は先程彼が逃がした桂馬を狙うように金を目前へと動かした。

 当然それを無視できない小西川が、銀でそれを取る。それにより雪姫が先程打った2枚目の桂馬で討ち取れる場所に銀が来た形となるが、彼女はそれを無視して3筋に香車を打ち込んだ。


 ――銀を取らない……? どういうことだ?


 雪姫の選択を意外に感じた小西川は、それならばと銀を上げて桂馬の攻撃から逃れた。





 時刻は22時半を過ぎ、対局と感想戦を終えた棋士が続々と控室へやって来た。別に最後の対局が終わるまで残らなければいけない決まりは無く、何ならそのまま帰ってしまっても構わないのだが、早い話が熱戦を繰り広げる雪姫と小西川の対局が気になって検討しに来たのである。

 動画配信を通して対局を見守りながら将棋盤を広げてあれこれ言う棋士の姿が多く見られ、ついでにその様子をカメラに収める記者の姿も多く見られる中、一際記者が集まっているのが、最初に対局を終えた塩見と2番目に対局を終えた黒羽が挟む将棋盤の近くだった。最も長い時間対局を見守っているからという理由もあるし、どちらも雪姫と旧知の仲であるからという理由もある。


「迫ると金を玉で取り、桂馬に狙われる銀を上げて逃がす……」

「小西川四段、これ玉を逃がす選択肢ぃ頭から抜け落ちてるんと違うか?」


 例えばと金がすぐ隣に迫っていた先程の時点で、玉で取るのではなく4九に玉を逃がす選択を取っていた場合、2人による検討の結果では相手の攻めを受けつつ五段目辺りまでは逃げ続けられそうだという結論に達していた。それ以上は対局の進行により検討を中断したが、仮に入玉まで持ち込めば穴熊の雪姫としては相当厳しい結果となっただろう。


「玉を逃がさず攻めたい雪姫ちゃんから見れば、自分の作戦が嵌ったちゅうところかな?」

「つっても、俺からしたら普通に銀を取った方が良い気もするけど」


 確かにそちらの可能性もぜひ検討したいところだが、今は互いに持ち時間を切らした1分将棋の最中だ。2人がこうして話す間にも局面は進み、新たに検討すべきものが次から次へと湧いて出てくる。


 ――これについても、後日要検討やな。


 ふと塩見が、周りに目を遣る。他の棋士達も実に興味深そうに盤面を見つめ、あれこれと意見を交わしていた。自分の対局ではないからか、皆一様に楽しそうであり控室は和やかな雰囲気となっていた。

 しかし、塩見は見逃さなかった。

 その楽しそうな目の奥に宿る、獲物を狙う肉食獣のような鋭い光を。


 ――それでこそ、プロの棋士ってもんや。


 そしてそんな光景を見て、塩見も同じように目の奥を光らせた。

 もっとも、狐のように細い目つきのため傍目には分からなかったが。





「ハァ――ハァ――」


 1分将棋となってから、1時間ほどが経過している。普通ならばじっくりと考えたいほどに複雑で厄介な局面を1分で指し続けなければならず、故に自分の手番のみならず相手の手番でも脳を休めずフル回転させている状況は、如何にカツカレーでエネルギーを補給した小西川といえど全力で走り続けているかのような疲労感を覚える。

 チラ、と雪姫の様子を確認する。前のめりになって考えているためよく見える彼女の額には汗1つ掻いておらず、その表情もまるで揺らぎが無い。男である自分よりも体力が無く疲労が蓄積されているはずで、複雑な局面ではあってもピンチなのは変わりないはずなのだが、彼女の姿だけを見るとまるでそれを感じ取ることができない。


「この……っ」


 小西川が、自身の駒台に置かれた持ち駒を確認する。角が1枚、金が1枚の他、10枚もの歩がズラリと並んでいる。

 その潤沢な歩を使って小西川が攻めるのは、雪姫の玉を正面で守っていた2枚の香車だった。前方の香車が発射されたタイミングで歩を2枚使って後方の香車を前に釣り出し、そうして空いた箇所に歩を打ち込んで玉に迫った。

 しかしその攻めは、割り込むように打ち込まれた歩によって中断された。小西川は一旦玉を3筋に逃がすも、即座に雪姫の香車がこちらの陣地に乗り込んで成ってきた。


 ――だったら……!


 ここで小西川は、6筋で休んでいたと金を5筋に動かした。2筋で玉を守っている雪姫が唯一持つ大駒である馬を狙う作戦だ。

 しかし雪姫はここで、4五の位置に桂馬を打ち込んだ。その桂馬を跳ねさせ、小西川の玉を守る金と睨みあう形となる。

 ここで小西川は、1つの決断に迫られた。

 玉を守る金を残すべく、成桂を取るか。

 当初の作戦を継続し、と金で相手馬の隣にいる金を取るか。


「…………くそっ」


 フル回転させ続けている脳内のエンジンが悲鳴をあげるような感覚に、小西川は小声ながら悪態を吐いた。1分将棋が始まったときよりも明らかに回転数が鈍り、脳内に浮かべる将棋盤の映像が読み込みの遅い動画のように時々フリーズを起こす。

 それでも何とか誤魔化しながら悩んだ末に、小西川は成桂を金で取る選択を採った。それにより、馬に迫っていたと金が雪姫の金に討ち取られる。

 しかし金が移動したことで、馬の斜め後ろである3一が金の守備範囲でなくなった。小西川はそこに角を打ち込み、馬を狙う。


「…………」


 雪姫の視線が3一の角に向けられ、次に自身の馬に移り、最後に自身の玉へ移る。

 そうして彼女が指した次の一手は、4一、つまり金の後ろに歩を打つというものだった。小西川が角で馬を取ると、いよいよ大駒を失った後手陣が何とも頼りなく見えてきた。

 結局その角は雪姫の玉によって取られるも、ここに来て小西川の中で行けるかもしれないという気持ちが生まれてくる。一旦玉を4筋に動かし、雪姫がそこから1マス空けて銀を打ち込んだ手により、15時過ぎから指してきたこの対局がとうとう200手を数えた。


 そうして201手目、小西川が5四に桂馬を打ち込んだ。雪姫はそれを見て金を玉に寄せると、小西川は1分将棋となる前に打って以来ずっと働かせていなかった6一の飛車を攻めに参加させてきた。4筋の歩に阻まれて進撃はそこで止まるも、龍と成って彼女の玉を虎視眈々と狙う。

 すると雪姫は、彼の玉を守る金を取りつつ銀で王手を掛けてきた。小西川が玉でそれを取る間に、先程取ったばかりの金を3一に打ち込んで龍に対する守りを固める。


 ――これ、龍で取ったらどうなる……?


 それまで回転数は落ちるものの何とかスムーズに動いていた脳内のエンジンが、いよいよ嫌な音をたてて軋み始めていくのが分かった。何かに引っ掛かるように時々止まりかけ、その度に脳内将棋盤の映像にノイズが走り見えなくなる。


 ――大事なところなんだ、動け!


 無意識の内に拳を握り締め、腿を何回も強く叩く小西川。

 そんな彼の姿を、まったく動かない表情で見つめる雪姫。視界の端でそれを捉えた彼の目には、まるで自分の心を見透かそうとしているかのような、それでいて自分がどう動くのか試しているようにも見えた。


「50秒、1、2、3――」


 そして機械的な声色で淡々と秒読みをする記録係。


「――――っ」


 そうして小西川が指したのは、雪姫の桂馬を取りつつ飛車を後ろに下げる、というものだった。





「評価値が互角になった!」

「あちゃぁ……。小西川くん、金を取れなかったかぁ」


 そしてその瞬間、控室では悲鳴にも似た声があがった。その声に含まれている感情は、落胆と高揚で半々といったところだろうか。

 よく『将棋は減点方式のゲームである』と称されることがある。ミスの仕方によって点数の減り幅に違いがあり、最後に致命的なミスをした者が負ける、という考え方である。

 その考え方に則れば、小西川のミスは互角になったというだけで致命的なものではない。ここから間違えなければ、逆に雪姫が致命的なミスを犯して勝利を収めることも普通に有り得るだろう。


「で、黒羽先生(センセ)はどうお考えどすか?」

「…………」


 周りが騒がしいとはいえ将棋盤を挟むだけの距離で聞こえていないはずが無いというのに、黒羽は塩見からの問い掛けに何も答えなかった。

 彼の視界にあるのは、雪姫と小西川の対局を再現した盤面だけだった。





 龍を引いた直後の一手、雪姫は4筋に香車を打って龍を5筋に追いやると、3筋の香車で玉の眼前まで迫り王手とする。

 それ自体は銀で取って対応すると、今度は玉の斜め後ろに角を打って再び王手としてきた。小西川が玉を4筋に逃がすと、それによって空いた道の先にいた5筋の飛車に標的を変えてそれを仕留めた。そして小西川がもう1枚の龍でそれを討ち取る、とここに来て大駒が相次いでやられる派手な展開となった。

 それを示すように、小西川の駒台が大渋滞となっている。先程奪った角も合わせて2枚の角に金・銀・桂馬・香車に歩が10枚という混雑っぷりで、ちょっと触っただけで途端に台から零れ落ちそうだ。


「――――ちっ!」


 持ち駒は常に相手からちゃんと見えている必要があるため、スペースが無いからといって重ねて置くことはできない。仮に台から落ちても即座に違反とはならないが、1秒でも時間が惜しい小西川にとって駒台に駒を置く瞬間が地味なストレスになっている。

 それだけ小西川の持ち駒が多いことからも分かる通り、先程の攻防もあって盤上に置かれた駒の数がみるみる減っていく。今も雪姫が桂馬を跳ねて王手とする際、そこにいた銀が巻き込まれて姿を消している。

 とはいえ桂馬による王手のため、豊富な持ち駒を投入して受けることはできない。桂馬を取るか玉を逃がすかしか選択肢が無く、小西川は玉を5筋に逃がして対処した。それにより一時は1筋にまで移動していた玉が、長い時間を掛けて初期位置に戻ってくる形となる。


 そうして数えること218手目、雪姫が指した一手は6七歩打。

 歩は前に1マスしか進めないため、当然ながらこれは王手ではない。しかし右翼側からの攻撃から逃れようとする小西川の玉に対し、将来的にと金に成ることも視野に入れたこの歩の存在がどうにも気に掛かる。


 ――これは、どう対処すべきだ……?


 スーツに皺が寄るのを気にする余裕も無く、小西川は額を流れる汗を袖で乱暴に拭った。本当なら今すぐにでもスーツを脱いで全身の汗を拭きたいところだが、ネット中継されているこの状況でそんなことができるはずも無いし、そもそもそんなことをしている時間など存在しない。

 チラリ、と雪姫を見遣る。若干前のめりになって盤面を覗き込む彼女の額には汗1つ滲んでおらず、その表情にも長時間の対局による疲労は微塵も見られない。仮にここが対局場ではなく落ち着いた雰囲気の喫茶店だったとしても、何ら違和感無く溶け込んでいることだろう。


「50秒、1、2、3――」


 記録係の秒読みが聞こえてくるが、すぐ傍にいるとは思えないほどに小さなものだった。いや、実際に声が小さいのではなく、おそらく小西川の耳が音を拾うのもやっとの状態なのだろう。

 そんなボロボロの状態で、彼は力を振り絞るようにして腕を伸ばした。

 その腕を伸ばした先にあったのは、5筋の龍。

 彼はその龍を、7筋へと移動した。





「――――逆転した!」


 控室にて、声があがった。

 その声の主が棋士なのか記者なのか、それを気にする者はいなかった。

 皆、中継映像に釘付けとなっていた。

 もちろん、黒羽と塩見も。





 220手目、2九飛打で王手。小西川はこれを、玉の隣に香車を打つことで受ける。

 222手目、6八銀打で王手。小西川はこれを、玉の正面にいる金で取る。

 224手目、先程の飛車が香車を取って王手。小西川はこれを、玉で取る。


 雪姫による3連続王手を凌ぐ小西川だが、先程よりも明らかに危険度が高くなっているのが肌感覚で分かった。この段階になって、彼は自分がやらかしたことに気が付いた。


 ――どこまでのミスだ!? まだ逆転の芽はあるか!?


 まだ踏ん張れるレベルのミスなのか、それとも致命的なレベルのミスなのか。踏ん張れたとして、雪姫のミスが期待できる状況なのか、それとも――最後まで読み切っているのか。

 そんな様々な思いが脳内を駆け巡る中、雪姫の指した226手目は6八歩成。小西川の玉は先程の遣り取りで4筋に移動しているため、この手自体は王手ではない。


 ――来る! 受けなければ!


 しかし先程の雪姫による攻めで無意識に恐怖心が芽生えたか、小西川の脳は1分で反転攻勢に出る考えが思い浮かばなかった。

 結果、彼は5八に金を打ち込んでと金を受ける選択を採った。





「――これ、詰んでるよな」

「そうやな。9手か」


 その瞬間、黒羽がポツリと呟き、塩見が笑みを浮かべて答えた。2人が互いに視線を向けることは無く、どちらも盤面に固定されている。


「……お、おい、もうすぐ終わるぞ」

「カメラ! 準備しろ!」

「お、落ち着いてください! 我々の指示に従って!」


 ようやく訪れた終局の気配に、記者が途端に色めき始めた。今すぐにでも控室を飛び出してしまいそうな彼らに、連盟職員が慌てた様子で引き留めつつ呼び掛ける。

 そんな騒がしい雰囲気の中、三澤が2人に顔を寄せて尋ねる。


「えっと、白鳥四段が間違える可能性は?」

「あらへん」


 きっぱりと断言する塩見に、三澤は視線を黒羽へと移す。

 黒羽はスマホの動画に映る雪姫を見つめながら、若干吐き捨てるような口調で答えた。


「――このレベルの詰め将棋を、アイツが間違えるわけないですよ」





 228手目、4八歩打。


「…………」


 雪姫の差し手をジッと見つめていた小西川の体から、フッと力が抜けた。

 重力に逆らうこともできずにブラリと垂れ下がった手を動かし、先程打った金でそれを取る。

 しかし即座に、雪姫が3九の位置に金を打って再び王手とした。


「…………」


 スッ、と小西川の背筋が伸びた。

 対局途中の盗み見るような目つきではなく、まっすぐ雪姫を見つめる。

 校章の刺繍が左胸にあしらわれた学生服を身に纏う、生徒会長でも務めているかのような優等生然とした少女。

 そんな彼女の姿に、奨励会に入った頃の自分が重なって見えた。


 ――あのときの俺も、高校を卒業するまでは学校の制服を着てたっけ。


 そんなどうでもいいことを思い出し、小西川は思わずフッと笑みを漏らした。

 雪姫がほんの僅かに首を傾げているような気がしたが、今の彼にとってはそれこそどうでもいいことだった。


「――――負けました」


 深々と頭を下げ、小西川がそう宣言した。

 時刻は、23時半を過ぎていた。

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