第7話「竜王ランキング戦6組・第1回戦 その3」
『初めての対局でいきなり千日手だったかぁ』
『せっかく先手を貰ったのに残念だったな、白鳥ちゃん』
『これは小西川、狙ってたのか?』
『どうだろ。昼食明けの角打ちから流れが変わった感はあるけど』
『とはいえ消費時間はどっちも同じくらいだし、仕切り直しだな』
「むむむむ……」
氷田家のリビングにて、玲がノートパソコンを睨みながら小さく唸り声をあげた。
彼女が観ているのは当然、雪姫のプロ初対局を生中継する配信動画だ。現在は『只今休憩中、再開は15時7分頃』というテロップと共に誰もいない将棋盤が映し出され、視聴者の書き込んだコメントが画面の右から左へと次々流れていく。
『流れは小西川にあり』
『仕切り直しといえ対局の疲労は蓄積されるからな、これ白鳥大丈夫か?』
『それは相手の小西川も変わらんだろ』
『いやぁ、フリクラとはいえプロとして何年も戦ってきた実績はあるからな』
『長時間の対局自体ほとんど経験の無い白鳥じゃ、プロの戦い方というのはさすがに分からんだろうしな』
「ふ、冬路さん!」
我慢の糸が切れたとばかりに思わず声をあげた玲は、リビングと隣接している和室へと駆け付けた。
先程まで将棋盤と駒を使って雪姫の対局を検討していて、現在はスマホで他の対局の様子を確認していた冬路が、妻の呼び掛けに若干の苦笑いを伴って顔を上げる。
「どうしました、玲さん?」
「雪姫ちゃん、大丈夫でしょうか? せっかくの先手番での対局が千日手になっちゃって」
「確かに将棋は先手が有利ですが、そこまで圧倒的なハンデではありませんよ。それに消費時間もほとんど一緒ですから、心理的にもそこまで負担はありません」
「そ、そうですか……」
「彼女は昔から気持ちを切り替えるのには長けてますから、今回も心配はいりませんよ」
「……そうですよね! 雪姫ちゃん、頑張れ~」
両手を握り締めてお祈りしながらリビングへと戻っていく玲の姿を微笑ましそうに眺めつつ、冬路はスマホでの情報収集の作業に戻った。
と、そんな彼の目に、雪姫の配信動画に流れた1つのコメントが飛び込んでくる。
『今日やってる対局で、もう決着したのがあったらしいぞ。塩見三段が勝ったらしい』
「へぇ、あの子が……」
そう呟く冬路の目は、面白い玩具を見つけた子供のような好奇心に満ちていた。
* * *
小西川四段のプロ棋士人生は、お世辞にも順風満帆とはいえなかった。
14歳で奨励会入り、20歳で三段リーグ入り。3期目のリーグ戦で3位となり1つ目の次点を獲得したは良いものの、そこから先がなかなか結果を出せなかった。翌期は5勝13敗と次点取消をギリギリ回避した程度、その次も8勝10敗と勝ち越しすら叶わなかった。
そうして年齢制限が迫り精神的に追い詰められていった25歳のリーグにて、当時昇段が期待されていた有力候補が総崩れした。それ以外も荒れに荒れた結果、11勝7敗という成績ながら3位となったことで2つ目の次点を獲得、フリークラス入りの権利を行使してプロデビューした。
しかし、その後が彼にとってまさに試練だった。
最初の数年間は、棋戦の初戦を突破するのがやっとという成績が続いた。棋戦の予選は基本的にトーナメント方式であり、負ければそれ以上対局することができない。プロになったというのに対局の予定が数ヶ月先まで真っ白という状況も珍しくなく、他の棋士が開く将棋教室を手伝うなどして糊口を凌ぐ日々が続いていく。
そうして再び迫り来る、強制引退までのカウントダウン。首に縄を掛けられ、足元の床が開くのを待つことしかできない死刑囚の心地で日々を過ごしていた小西川の目に飛び込んできたのは、自分が奨励会に入った14歳という年齢でプロデビューを決めた2人の天才の姿だった。
最初にそのニュースを見たとき、小西川の脳裏にはもはや何の感情も浮かばなかった。同期にも後輩にも抜かされ続けることに慣れ切った彼には、自分よりも一回り以上年下の後輩に向ける嫉妬すら残っていなかった。
そんな彼に変化が訪れたのは、その天才の1人である白鳥雪姫のデビュー戦の相手が自分に決まったと知ったときだった。
――今までの対局で、ここまで注目されたものは無かった。
15時7分に始まった対局は、小西川の7六歩で幕を開けた。前局と同じく記者に囲まれての一手に、しかし記者達は1回か2回ほどシャッターを切るだけで即座に雪姫へとカメラを向け直す。
続いての雪姫の手は、飛車先の歩を突く8四歩。つまり前局とまったく同じ立ち上がりであり、そうなると戦型も先程と同じく角換わりか、と観ている人々がそんな予測を立てる。
しかし3手目、小西川の手が触れたのは、飛車だった。
「振り飛車――!」
記者の1人が、思わずといった感じに声を漏らした。7八飛の一手に、記者達のシャッターを切る頻度が明らかに高くなる。
将棋の戦法は様々あるが、それらは“居飛車”と“振り飛車”に大別される。攻撃で最強の駒と称される飛車を初期位置の右翼に使うのが居飛車であり、左翼に振って使うのが振り飛車だ。
とはいえプロの世界においては居飛車を指す方が圧倒的に多く、AIによる評価値も振り飛車に対しては厳しく採点される傾向にある。飛車を振るのに1手多く使う、大駒の利きが居飛車の方が効率的、という辺りにその原因があるのかもしれない。だからなのか、近年は特に振り飛車を採用するケースが少なくなり、普段から振り飛車を好んで指す“振り飛車党”と呼ばれるプロも数えるほどしか居なくなってしまった。
だからこそ、振り飛車党でもない小西川が振り飛車を指してきたことに記者はどよめいたのである。ちなみに今回の戦型は、振り飛車の中でも飛車を左から3番目の筋に移動させる“三間飛車”である。
「…………」
飛車を動かしたことで雪姫も多少の驚きはあったかもしれないが、彼女はそれを見て即座に周りの駒で守りながら玉を(自身から見て)左翼に逃がし始めた。玉を隅に逃がして周りを駒で囲う、三間飛車における対抗形として定跡ともいえる“居飛車穴熊”という戦型だ。一方小西川も、三間飛車の定跡に従って玉を飛車が空いた右翼へと進ませる。
20手目にて、香車が空けた穴に雪姫の玉が潜り込んだ。その次の手で2二銀と指すことで、玉が香車・桂馬・銀と歩2枚によって囲まれる。これに金2枚が囲いに加わるのが、居飛車穴熊の基本形だ。
しかし雪姫はここで一旦囲いの形成を中断し、先手の飛車を起点とした攻めの準備への対応を始めた。30手目にて6四歩と先手の6筋の歩先を突いて先に仕掛けてくるが、小西川はそれを取らず6筋の銀を5六へと上げる。雪姫は金1枚を囲いに合流させながら様子を見て、その銀が4五へ行ったのを見てから6筋の歩を取った。これが今回の対局を通して初の駒取りとなる。
ここからしばらく、互いの飛車が至近距離で牽制し合う展開が続いた。互いに読みを入れつつ指していくため、進行も緩やかになっていく。
その間に小西川は先程の銀を三段目まで上げ、成銀を作ることに成功した。いつでも後手の銀と交換できる状況であり、この点においては雪姫に対して優位に立っている、と彼自身は分析する。
――ここなら……!
そうして49手目、7二歩打。明らかにと金を作る気満々の一手であり、つまりは明確な開戦の意思表明とも取れる。
「…………」
それを感じ取ったのか、雪姫が腕を組んで長考の姿勢に入った。
小西川が、チラリと自身が持ち込んだ時計へと視線を向ける。時刻は17時を少し回った頃、そろそろ夕食のメニューを連盟職員が聞きに来る時間帯である。
午前中の対局と同じような状況、しかし今度はそれとは逆の立場だ。もしかしたら相手は(自分と同じように)夕食休憩を挟んでくるかもしれない、という考えが彼の頭を過ぎる。
それから程なくして、午前中のときとは別の職員が幾つものメニュー表を持って入室してきた。午前中と同じように、上座である小西川から先にそれを渡される。
「……カツカレーで」
しかし小西川はそれにほとんど目を通すことなく、昼食とまったく同じメニューを選んだ。よほど気に入って同じ物を食べたくなったから、というよりは、少しでも将棋以外のことを考えるリソースを省きたいという理由によるものだった。
職員は一瞬虚を突かれたような表情を浮かべるも、即座に気を取り直して下座の雪姫へと遠慮がちに声を掛けてメニュー表を渡す。彼女は盤面から視線を外さないままそれを受け取り、メニュー表をそのまま横から割り込ませるような形でそれに目を通す。
一方小西川は、既に夕食のことなど頭から抜け落ちたかのように盤面に注目していた。当然ながら、夕食を頼もうとしている雪姫のことなど視界からも思考からも除外している。
そんな彼にとって、彼女の次の台詞は完全に不意打ちだった。
「――うな重、松で」
「…………えっ?」
時刻は18時を回り、夕食休憩の時間となった。昼食と同じように対局者が続々と休憩室に割り当てられた部屋へと入ってくるが、昼食のときと違って優勢がハッキリと示されるものも多くなってきたためか、表情だけでなく歩いているときの雰囲気でさえ文字通り明暗分かれている場合が多い印象を受ける。
「本当にうな重じゃなくて良かったのかな?」
「はい。昼間に充分堪能させてもらったので……」
「そうかい? 最近の子は食が細くなったのかな……?」
そんな中、昼食と同じように顔を突き合わせて食事をしているのが、黒羽と山本九段だった。金色で松の絵が描かれた漆器に詰められたうな重をバクバクと勢いよく食べ進める山本九段に対し、黒羽の夕食はきつねうどんという実に対照的ともいえるメニューだ。
――昼も夜もうな重を食ってるアンタの方が変なんだっての……!
頭の中でそんなことを考える黒羽だったが、間違ってもそれを口に出すことはしない。目の前のきつねうどんも山本九段に奢ってもらっているのだから猶更である。
それにしても、と黒羽は山本九段に視線を向ける。73歳という年齢を抜きにしても実にエネルギッシュな大ベテランの姿は、確かにこれから数十年と棋士人生を歩むことになる彼にとっても学ぶべきところはあるのかもしれない。
あるいは、案外自分も同じ年齢の頃にはこうなっていたりして、と考えた辺りでふいに山本九段が声を掛けてきた。
「対局が再開したら投了するから、感想戦は宜しく頼むよ」
「…………えっ?」
あまりにもあっさりと言ってのけたせいで、黒羽はその言葉を一瞬理解できなかった。
それを察したのか、山本九段が言葉を続ける。
「正直、結構前の時点で敗勢になっていたのは分かってたからね。打開も検討してみたけど、どうにも無理なように思えたから」
「……それじゃ、なんで夕食前に投了しなかったんですか?」
「そうすると、その後の感想戦やら記者からのインタビューで時間を取られるだろう? いつ夕食を食べられるか分からないからね、事前に腹ごしらえは済ませておこうと思って」
「…………、成程」
色々と言葉を探ってみたが、結局黒羽の口から出てきたのはその一言だけだった。先程とは別の意味で居心地の悪さを覚えた彼は、視線をさ迷わせるようにキョロキョロと辺りを見渡し始める。
と、自分達から少し離れたテーブルに、山本九段が食べているのと同じ漆器が置かれているのに気付いた。今日の対局は自分達を除けば中堅からベテラン勢が多く、夕食にうな重を食べるような人物はそれほど多くないように思われる(目の前の大ベテランは見ないことにする)。
何となく黒羽がそれをジッと見つめていると、他の棋士から少し遅れて部屋に入ってくる者がいた。動いているものに釣られて彼がそちらに視線を向けると、その正体は感情の読み取れない無表情の雪姫だった。
彼女はこちらに一切目を向けずにまっすぐ部屋の奥へと歩いていき、そして先程彼が見ていた漆器の前の座布団へと腰を下ろした。
「えっ」
黒羽が思わず困惑の声をあげる中、雪姫は割り箸を割って「いただきます」と呟くと、漆器の蓋を開けてそれを食べ始めた。タレと炭の良い香りを辺りに漂わせながら大口でバクバクと食べ進めていく彼女の姿は、普段の大人しい優等生然とした印象から大分ギャップのある光景だ。
だからなのか、黒羽以外にもそんな彼女を驚きの目でチラチラと盗み見る者が何人かいた。
「ほう、良い食べっぷりだ」
山本九段もそんな者達の1人であり、独り言を漏らすようにそんな感想を口にした。冗談などではなく、本気で感心しているような声色だった。
「対局中の食事というのは面白いものでね、案外その人の性格や今の状況というのが読み取れるものなんだ。今の彼女からは、夜の対局に向けて並々ならぬ戦意が見えてくるよ」
「それじゃ、山本九段が普段からうな重を好んで食べているのも――」
「いや、私は単純にうな重が好きだから食べてるだけなんだが」
「…………」
色々と言葉を探ってみたが結局黒羽の口から出てくる言葉は無く、力無くうどんを啜るのみだった。