第6話「竜王ランキング戦6組・第1回戦 その2」
記録係を務める奨励会員によって、上座である小西川四段の振り歩先での振り駒が行われた。両手で歩を5枚包み、軽く振ってから床に落とす。
「歩が1枚、と金が4枚。よって、白鳥四段の先手でお願いします」
そうして雪姫のデビュー戦となる小西川四段との対局は、他の対局と同じく予定通り午前10時に幕を開けた。ペットボトルのお茶を湯呑に注ぎ、一口飲んで小さく息を吐いてから角道を空ける7六歩を指す。
パシャパシャパシャ――!
その瞬間、将棋盤を囲んでいた記者が構えていたカメラのシャッターを一斉に切った。記者の手元から発せられているのも併せて拍手を贈られているかのような心地であり、ただ歩を動かしただけでそのような反応を返されることに雪姫は若干の居心地の悪さを覚えた。
後手の小西川がその直後に飛車先の歩を突く8四歩を指したにも拘わらず、記者からのシャッター音が明らかに疎らだったことが、雪姫の居心地の悪さに拍車を掛けた。その後も雪姫が指す度に写真が撮られ、小西川が指してもスルーされる現象は続き、戦型が角換わりに絞られた辺りで連盟職員に促される形で記者達がぞろぞろと退室していった。
「……随分と、君は期待されているんだね」
「…………」
そしてそのタイミングで、小西川がぽつりとそんな言葉を呟いた。まるで独り言のような声量に、雪姫はどう反応したものか迷う素振りを見せ、そして結局返事をせずに次の一手を指すに留めた。
早々に角の交換を済ませた雪姫は、右側の銀を3七に上げた。角換わりの中でも“早繰り銀”と呼ばれる戦型に、小西川も銀を上げて同じく早繰り銀を選択する。雪姫の脳内にて、三段リーグ最終日の翌日にクラスメイトの前で対局したときの光景が蘇る。
だからなのか、今回も雪姫は自身の玉を2段目に上げた。それを見て端の歩を突く小西川に、流れるような手つきで3五歩と指していく。ここまでで雪姫の消費時間は僅かに5分、一方小西川は慎重に読みを入れているため徐々に消費時間の差が生まれていく。
そうして対局開始から1時間ほど経った頃、小西川が9筋の歩を伸ばしてきた。序盤に交換した角の打ち込みを視野に入れた手で、雪姫に揺さぶりを掛けようという意図が見える。
それを見た雪姫が2筋の飛車を一旦引いたことで、小西川は自陣の2筋に歩を打って守りを固める。結果的に仕切り直すような形となり、雪姫は6筋の歩を突いて6七のマスを空ける。6八を経由してそこに銀を置くことで立て直しを図るためである。
「…………」
しかしここで、小西川の手がふと止まった。手に持つ扇子を弄りながら、ジッと盤面を見据えて考え込んでいる。
チラリ、と雪姫の視線が自分の持って来た時計に向けられる。中継で対局を観戦していたときの知識から、そろそろ連盟職員が昼食を尋ねに来る頃だと推察する。
と、丁度そのタイミングで女性の職員が幾つかメニュー表を持って入室してきた。昔は休憩時間中に外食することもできたのだが、今は将棋ソフトによるカンニングを防ぐ意味を込めて、近隣店からの出前のみとなっている。
「……カツカレー」
上座に座る職員が小西川に声を掛けてメニュー表を手渡すと、彼はほとんど間を置かずに料理名だけ口にし、財布を取り出して千円札を職員に渡すと再び思考の世界へと飛び込んでいった。その一連の淀み無い動作から、最初から決めていたのだろうことが窺える。
そうしてやって来た職員からメニュー表を受け取りながら、雪姫は目の前の将棋とは別に頭を働かせ始める。
傍目にはただ座っているだけに見える将棋の対局だが、次の一手を考えるために頭をフル回転させるというのは存外カロリーを消費する。特に今日のような長時間の対局ともなると終わる頃には数キロ痩せていることも珍しくなく、故に対局中の食事というのは棋士にとって非常に大事なものとなる。
――その点、小西川四段の注文は好手だな……。
カロリーが高くエネルギー補給には最適であり、ルーが潤滑油となりスルスルと食べ進めることができる。おまけにカツがプラスされていることで験担ぎにもなっているという、肉体的にも精神的にも素晴らしい一品と言えるだろう。
とはいえ、雪姫もカツカレーを注文するわけにはいかない。別に相手と同じメニューを注文してはいけないなんてルールは無く、単純に後から相手に被せるのが気になるというだけの話である。
「えっと、豚の生姜焼き弁当で」
そうして悩んだ末に雪姫が選んだのは、昔から人気で他の棋士もよく注文する、謂わば昔からよく使われる“定跡”だった。
チラリ、と視線を相手に向ける。小西川はこちらのことなど気にも掛けていない様子で思考に没頭している。
こうして彼女のプロ初となる昼食注文は、ほんの少しの敗北感と共に幕を閉じたのであった。
将棋会館での対局では、昼食休憩は12時から12時40分と定められている。12時を回った瞬間に、それまで対局していた棋士が続々と対局室を後にし、食事が用意された別室へと移動していく。
結局あの後小西川は次の一手を指すことなく、そのまま昼食休憩へと突入した。休憩直前に指して惑わせてくるかと若干警戒していた雪姫だったが、昼食休憩も考える時間に充てる作戦だったのだろう。ちなみに食事休憩中は持ち時間が消費されることは無いが、次の一手を考えられるのは相手も同じであるため雪姫としては特に不公平感は覚えない。
なおその小西川は、昼食休憩となるや即座に立ち上がり早々と部屋を出ていった。まるで雪姫から一刻も早く離れたがってるかのような動きだが、休憩中だろうと真剣勝負の相手であることに変わりはないため特段おかしくはない。移動中や別室にて談笑する棋士も中にはいるが、そのほとんどが対局とは関係無い組み合わせである。
「黒羽四段は、実家がここから近いのかな?」
「えっと、はい……。電車1本で行けます……」
「それは良い。やっぱり勝手知ったる場所の方が落ち着けるからね。僕も関西で対局することはよくあるけど、向こうでもうな重を注文できると知ったのは最近だったよ」
「はぁ、そうですか……」
だというのに、対局中とまったく同じ構図で向かい合い共に昼食を摂る山本九段と黒羽の姿に、雪姫は思わず部屋の入口で足を止めてポカンと口を開けてしまった。談笑というよりは山本九段が一方的に話し掛け、そして黒羽がそれに仕方なく返事しているといった感じではあるが、対局者同士で一緒に食事しているというだけでも彼女にとっては結構な衝撃だ。
と、雪姫が視線を彼らのテーブルへと落とした瞬間、更に大きな衝撃が彼女に襲い掛かった。
――2人共、うな重食べてる……!
「ねぇ、羨ましいやん」
「へっ? ――――えっ!?」
突然後ろから声を掛けられ無意識に振り返った雪姫は、狐のように目を細めてにんまりと笑う長身の高校生・塩見楽の姿に三度目を見開いた。
「塩見さん? どうしてここに?」
「なんや雪姫ちゃん、知らへんかったん? 僕だって雪姫ちゃんと同じ、竜王戦の出場者やで。――まぁ僕は“奨励会員枠”なんやけど」
奨励会員枠として竜王戦に参加できる条件は、直前の三段リーグで次点を獲得していること。つまり今回は雪姫・歩に次ぐ3位の成績を修めた塩見が該当するというわけだ。とはいえ同じ日に対局が行われるのは完全に偶然なので、彼女が驚くのも無理はない。
ちなみにだが、仮に塩見がランキング戦を優勝した場合、次点が1つ付与されることになる。そうなると前期の次点と合わせて2つ獲得したことになり、現在の三段リーグで降段点(18局中4勝以下)を取らない限りフリークラスでのプロ棋士編入が認められることとなる。
「まぁ仮にそうなったかて、その頃には今のリーグ戦は終わってるけどな。どうせそこでプロ入りを決めるつもりやし、あまり考えても意味あらへん」
彼の言葉に、雪姫も納得の表情を見せた。確かに現在8局終了時点で唯一の全勝者としてリーグトップをひた走る彼ならば、普通にリーグを突破して順位戦に参加できる方が良いと思うのが普通だろう。
「って、今は黒羽くんの話や。僕も偶々2人と同じ部屋におったさかい知ってるんやけど、山本九段、黒羽くんのこと孫のように可愛がっとってな、昼食も山本九段の奢りらしいで」
「えぇ、良いなぁ……」
思わず本音を漏らす雪姫に、塩見も微笑ましげにクスリと笑みを零す。
「まぁ、うな重食べてご機嫌な黒羽くんは放っといて、僕らは僕らで仲良う一緒に食べよ」
「ですね。あっ、私、お茶持ってきますね」
「ほんま? おおきに」
連盟職員が用意したポットから雪姫がお茶を注いでいる間、塩見が2人の弁当を持って奥の席を確保しておく。そうして昼食の用意が整うと2人は互いに向かい合って座り、同時に手を合わせて「いただきます」と挨拶して食事を始めた。
ちなみに塩見の昼食は、豚キムチ炒めがメインの弁当だった。雪姫がそれを選んだ理由を尋ねてみるが、偶々目に入ったから、という何とも味気ない答えが返ってきた。
「ところで、塩見さんの今日の対局相手ってどなたですか?」
「ん? あぁ、あそこにおる岩城田六段やわ」
塩見が顔だけを動かして指し示した方を見ると、30代後半くらいの若干頭髪の薄い男性が同世代の棋士相手に談笑していた。ちなみに相手の棋士は彼の話す内容にとても興味があるらしく、箸を握る手を止めてまでそれに聞き入ってる様子だ。
「確か、今はC級2組に所属してましたよね」
「うん、そうやな。――C級2組の下ぁの方で、ダラダラと何の気概も無う指してる奴や」
「ちょ――!」
突然の暴言に、雪姫は目を丸くして思わず岩城田の方へバッと顔を向けた。幸いにも話し声は届いていないようで、彼の様子は先程までと変わりない。
それでも他の棋士から彼に伝わるかもしれない、と周りに熱心に気を配る彼女に対し、塩見はおかしそうにクスクスと笑みを漏らした。
「心配しいひんでも、周りには聞こえてへんで。ちゃんと小声で喋ってるさかいな」
「聞こえてなければ良いって話じゃないでしょ。というか、なんでそんなこと――」
「事実やん? 既に降級点を1つ貰うとって、今期も7局までやって全部負けてる。なのにまるで気にする様子も無く、フリクラに落ちようと構わへんってばかりにヘラヘラ笑うてるような奴や」
「……そんなの、傍目にはそう見えてるってだけで実際には分からないじゃないですか」
「いいや、すぐ分かるわ。――実際に顔を突き合わして対局してる僕ならな」
一段低くなった声でそう答える塩見に、雪姫は息を呑んで口を閉ざした。
「午前中の時点で僕にも分かるほど形勢がこっちに傾いてるってのに、向こうはまるで気にした様子も無うヘラヘラしてるんや。奨励会員相手に負けられへんって突っ掛かってくるんが普通やろ、本気出してへんだけやって負けたときの言い訳でもする気かって思うくらいやわ」
「そ、それは……」
「知ってるやろ? 岩城田六段、最近資産運用だか何だかで結構儲かってるって話。そやさかい、本人としてはこのまま引退しても全然問題無いんとちゃうん? やったら今すぐ引退しても構わへんねんけどねぇ」
「…………」
どんどんヒートアップしていく塩見に、雪姫は何と声を掛ければ良いのか分からず黙り込んでしまった。
そうして視線を落としていく彼女の姿に、塩見がハッと我に返ってバツの悪そうな表情を浮かべる。
「……えーっと、ゴメンな。つい感情抑えきれへんくなって」
「いえ、私は構いませんけど。珍しいですね、塩見さんがそこまで感情を表に出すの」
「いや、ホンマにゴメン。そっちだって対局してるっちゅうのに無頓着やった。――言い訳にもならへんけど、雪姫ちゃんが羨ましかってん」
「えっ、私が?」
首を傾げる雪姫に、塩見がチラリと視線を向ける。
部屋の奥で黙々とカツカレーを口に流し込んでいる、小西川四段へと。
「雪姫ちゃんの対局相手、あら相当気合い入ってると見たわ。今日で何もかも変えたる、って意気込みを感じんで」
「……そう、なんですか?」
「そや。どうせプロと対局するんなら、あないな気合いの入った人とやりたかったわ。そやさかい雪姫ちゃんも、油断せんと頑張ってな。釈迦に説法やろうけど」
そう会話を締め括ると、塩見はそのまま弁当を食べる作業へと戻っていった。
彼の言葉が気になる雪姫だったが訊き返して食事の邪魔をするわけにもいかず、かといって小西川の方へと視線を向ける勇気も無かった。もし相手と視線が合ってしまったとき、動揺しないでいられる自信が無かった。
――まぁ、結局目の前の対局を頑張るだけだよね。
結局雪姫はそうして自分を納得させ、弁当を食べ進めていくのであった。
昼食休憩が明ける頃、対局者が続々と自分達の盤へと戻っていった。雪姫もその集団に紛れて対局室へと戻り、既に上座の座布団に腰を据えていた小西川の正面へと正座する。
そうして記録係により対局再開が宣言されると、1分ほどの間を空けて小西川が昼食休憩も費やして考え抜いた一手を指した。
――5四角……!
雪姫はその瞬間、目に見えるほどの反応になりそうなのをグッと堪えた。
昼食の最中に候補手は幾つか考えていたが、5四角は彼女の候補の中には無かった。しかし指されてみると、確かに長考するに足る力強い一手と言える。昼食前に狙っていた6八銀に対して7六角で牽制できるし、その他にも考えるべき手の組み合わせが一気に増えた。
若干前のめりに体を傾けながら、雪姫はジッと盤面を見据えて長考の構えに入った。そうして考えること1時間、彼女は昼食前に指そうとしていた左銀ではなく右銀を引く選択を採った。それに対し、小西川はさほど時間を掛けず7筋の歩を進める。
それならば、と雪姫は6筋の歩を進めて角を誘い出した。小西川はそれに乗って角で歩を取ると、彼女は先程の右銀を前に突き出した。そして次の一手で、右の桂馬を跳ねる。銀と桂馬を中央に向かわせ、金と銀が離れている後手陣を中央突破しようとする考えだ。
結果的にいえば、この桂馬が良くなかったのだろう。
「…………」
雪姫の桂馬を見て、小西川も桂馬を跳ねさせた。雪姫の作戦を見抜き、その上で牽制としての一手であることは明白だ。
そしてこの一手により、彼女の脳裏に或る“結末”が過ぎる。
「…………」
チラリ、と小西川の表情を窺う。盤面に視線を落とし、意図的に表情を動かさないようにしているといった印象だ。
20分近く時間を消費し、結局当初の予定通り5六銀と指して銀を中央に寄せる。昼食前は消費時間で雪姫の方に大分アドバンテージがあったが、今はそれもほとんど無くなっている。
一方小西川はそれを想定していたように、先程誘い出された角を元の5四へと戻した。このままでは3六歩で桂馬を狙われたときを考えて4五銀、つまり先程動かした銀をもう一度元の位置に戻す必要がある。
――これ、やっぱり“千日手”だよなぁ……。
将棋の公式戦における千日手とは『両対局者の駒の配置や持ち駒の状態、手番が全く同じ局面が4回現れる』ことを指す。仮に千日手が成立すれば、持ち時間をそのままに先手後手を入れ替えて対局をやり直すことになる。
ちなみに千日手を回避したい場合、その役目は基本的に先手側が担うことになる。将棋は先手が若干有利とされており、後手側に千日手を回避する理由が無いためだ。
「…………」
正座から脚を崩し、腿に手を突いて体重を掛けながら考え込む。いつの間にか消費時間も逆転し、今も1秒また1秒と時間が消費されていく。
雪姫は小さく息を吐き、銀を4五の位置へと戻した。
それを受けて小西川が角を動かし、雪姫がまた銀を動かす。
それを受けて小西川が角を動かし、雪姫がまた銀を動かす。
それを受けて小西川が角を動かし、雪姫がまた銀を動かす。
それを受けて――
「千日手、ですか」
同一局面が4回となったタイミングで、雪姫が独り言のように宣言した。
その瞬間、記者が入口から雪崩れ込んできて、対局開始のときと同じように一斉に写真を撮り始めた。同じ部屋では未だに他の対局が行われている最中なのだが、記者にそれを気遣う様子は無く、また対局者側もチラリと視線を遣るだけで特に動揺は無さそうだ。
消費時間は、雪姫が2時間6分、小西川が2時間1分。
千日手の規定に従って、今から30分後に先手後手を入れ替えた対局が行われる。
「…………」
カメラのシャッター音が響く中、小西川が盤面に視線を落としながらほんの少しだけ口角を上げた。