第5話「竜王ランキング戦6組・第1回戦 その1」
12月24日。
今日は何の日だと問われれば、おそらくほとんどの人が“クリスマス・イブ”と答えるであろう日。もはや海外の宗教行事が起源であることなど関係無いほどに日本で定着したイベントとなって久しく、家族や恋人といった大切な人と一緒に過ごす予定を組む人々が大勢いることだろう。
しかし雪姫、あるいは彼女と近しい間柄の人間の場合、この日はもう1つ重要な意味を持つ。
今から14年前の今日、雪の降りしきるクリスマス・イブに彼女はこの世に生を受けた。この時期に生まれた子供は誕生日とクリスマスを一緒くたにされる傾向にあるが、白鳥家では24日に彼女の誕生日パーティー、25日にクリスマスパーティーときっちり分けて行われ、プレゼントもそれに合わせて別々に用意されるのが恒例となっている。
さて、そうして3人家族として迎えるこの日としては通算15回目となる本日、
白鳥家のリビングは、今までにない緊張感に包まれていた。
「飲み物とおやつは用意した?」
「ちゃんと持ってるよ」
「ハンカチとティッシュは?」
「うん、あるって」
「手を拭く用のウェットティッシュとかも、持っておいた方が良いんじゃない?」
「大丈夫だって」
「あと他に必要なのは――」
12月24日。
今日は何の日だと問われれば、おそらくほとんどの人が“クリスマス・イブ”と答えるであろう日。もはや海外の宗教行事が起源であることなど関係無いほどに日本で定着したイベントとなって久しく、家族や恋人といった大切な人と一緒に過ごす予定を組む人々が大勢いることだろう。
しかし雪姫、あるいは彼女と近しい間柄の人間の場合、この日はもう1つ重要な意味を持つ。
今から14年前の今日、雪の降りしきるクリスマス・イブに彼女はこの世に生を受けた。この時期に生まれた子供は誕生日とクリスマスを一緒くたにされる傾向にあるが、白鳥家では24日に彼女の誕生日パーティー、25日にクリスマスパーティーときっちり分けて行われ、プレゼントもそれに合わせて別々に用意されるのが恒例となっている。
さて、そうして3人家族として迎えるこの日としては通算15回目となる本日、
白鳥家のリビングは、今までにない緊張感に包まれていた。
「飲み物とおやつは用意した?」
「ちゃんと持ってるよ」
「ハンカチとティッシュは?」
「うん、あるって」
「手を拭く用のウェットティッシュとかも、持っておいた方が良いんじゃない?」
「大丈夫だって」
「あと他に必要なのは――」
普段の平日と同じ時間に朝ご飯を食べ終え、制服姿に着替えて身支度を整える雪姫に対し、そわそわと落ち着かない様子で見守りつつアレコレと口を出す両親。
そんな2人の姿に、雪姫は呆れを多分に含んだ笑みを漏らした。
「なんで2人がそんなに緊張してるの? 三段リーグの最終日とか、全然そんな感じじゃなかったじゃん」
「だって、あのときとはまた別でしょ。今日の相手は立派なプロの人なのよ」
「そうだぞ。向こうだって生活が懸かってる以上本気で挑んでくるってことだし、もう今から心配で心配で……」
12月24日。
世間ではクリスマス・イブで、白鳥家にとっては一人娘の誕生日。学生目線では今日が年末最後の登校日である場合も多く、雪姫の通う学校も今日に終業式が行われ明日から冬休みに突入する。
しかし学校の制服を身に纏う雪姫がこれから向かうのは、自分の通う学校ではなく、もはや自身にとって“職場”とも呼ぶべき場所となった将棋会館。
雪姫は今日そこで、プロ棋士として初めてとなる公式対局を行うこととなっている。
「大丈夫だって。別に今日負けたからって、何がどうなるわけでもないんだし」
「でも――」
「じゃあ、そろそろ出るね。対局時間が長いから、夕飯はいらないからね」
両親は何か言いたげだったが、雪姫はわざと言葉を被せてそれを遮った。荷物を纏めたリュックを背中に提げ、そのまま玄関へと歩いていく。
彼女の行動で色々と察したのか、2人は未だ不安の残る表情ではあるが言葉を呑み込み、最後に残った一言だけを口に出した。
「――――頑張って」
「うん、行ってきます」
雪姫のデビュー戦でもある今日の対局は、竜王ランキング戦と呼ばれるトーナメントの第1回戦となっている。
竜王戦は賞金額が全棋戦の中でも最も高額であり、プロ棋士だけでなく女流棋士、奨励会員、更にはアマチュアにも参加の門戸が開かれている。参加者は竜王戦独自のルールで1組から6組までに割り振られ、それぞれの組でトーナメントを行い成績に応じて本戦トーナメントへの出場者を決定する。
いくら中学生プロ棋士とはいえ新人である雪姫の場合、最も下のランクである6組からの出場となる。1~5組の棋士以外の全棋士と前述の女流棋士なども集まった大所帯のトーナメントとなっており、そこを勝ち上がった1人だけが本戦トーナメント出場を許される非常に厳しい戦いだ。
つまりそれだけ多くの対局を、それも限られた期間内に消化する必要がある。なので下位のランキング戦は基本的に複数の対局を同じ日に纏めて行うこととなり、今日も将棋会館では雪姫以外に複数の対局が組まれ、広いとはいえ同じ部屋の中で幾つもの対局が同時進行していく予定だ。
「あっ」
「……げっ」
なので自宅の最寄り駅のホームにて同じく制服姿である黒羽とばったり出会ったとしても、何ら不思議なことは無いのである。にも拘わらず、黒羽は雪姫の顔を見た途端、面倒臭いとでも言いたげに表情を歪ませた。
「……なんでこんな時間に出るんだよ。まだ余裕あるだろ」
「いや、初めての公式戦だし、念の為に早めに出た方が良いかなって思って」
「マジかよ……。だからって、電車まで被る必要は無いだろうが……」
ブツブツと文句を呟く黒羽に、さすがの雪姫もムッと頬を膨らませた。そのまま文句の1つでも言おうかと口を開きかけたが、丁度そのタイミングで電車が到着し、2人揃って電車に乗り込む動作を挟んだために何となく機会を失ってしまった。
通勤・通学ラッシュの時間帯であるため、ホームも電車の中もそれなりに人が多い。雪姫も黒羽も制服を着ていることもあって、傍目には周りにいる学生と何ら変わりない。将棋に興味があって普段からニュースをチェックしていない限り、2人は“通学”ではなく“通勤”しているのだと思う者はまずいないだろう。
「……歩の今日の相手って、山本九段だっけ」
「……あぁ。現役最高齢だってよ、よく知らんけど。そっちは誰だっけ?」
「小西川四段だよ。フリークラスの」
流れで聞いただけで大して興味が無いのか、雪姫の答えにも黒羽は「そうか……」と薄い反応を見せるのみだ。そのまま無言で電車に揺られる時間が続くが、今更会話の無い状態が気まずい間柄でもないので雪姫も特に気にしない。
やがて将棋会館の最寄り駅である千駄ヶ谷駅へと到着し、2人が揃ってホームへと降りていく。その際に周りのサラリーマンが2人を見てハッと目を見開く仕草を見せていたが、結局すぐに電車のドアが閉じられたため声を掛けられることは無かった。
そうして2人は、改札口へと繋がるエスカレーターへと歩みを進め――
「……じゃ、俺はコンビニ寄ってくから」
「えっ?」
るかと思いきや、黒羽がふいにそんなことを言って踵を返し、雪姫とは逆方向へと歩き始めた。
「どうしたの? 何か買い忘れ?」
「……いや、別にそういうわけじゃねぇけど」
「だったら一緒に行こうよ。目的地一緒なんだから」
「えっ、嫌に決まってんだろ」
「嫌なの!? なんで!?」
あまりにも露骨に嫌そうな表情でそう言い切った黒羽に、さすがの雪姫も目を丸くして彼に詰め寄った。
しかしそんな彼女に対し、黒羽はむしろそんな事も分からないのかと言いたげに大きな溜息を吐き、目を逸らしながら投げやりな口調でこう答えた。
「俺ら今日がデビュー戦だから、絶対に会館の前に記者が集まってんだろ。そんな中で2人一緒にやって来てみろ、絶対に変なこと書かれるぞ」
「…………、確かに」
ほんの少しだけ間を空けて雪姫は首肯し、黒羽に詰め寄った分だけ後ろに下がった。
「分かったらさっさと行け、俺は少し遅れて行くから」
「う、うん、分かった……。えっと、お互い頑張ろうね」
「……当たり前だろ」
吐き捨てるようにそう言い残し、黒羽は足早にこの場を去っていった。同年代と比べても低めの身長をしているためか、彼の背中はすぐに人混みに紛れて見えなくなった。
ほんの少しだけ眉尻を下げ、ほんの少しだけ口角を上げ、雪姫はクルリと後ろを向き、最初に目指していたエスカレーターへと歩き出した。
* * *
全国に4ヶ所存在する将棋会館では公式の対局がほぼ毎日のように行われているが、全ての対局が生中継されているわけではない。特に竜王ランキング戦の場合、他棋戦のタイトルホルダーや優勝候補と目される実力者が多く出場する1組や2組などはまだしも、最も下位のランクである6組において動画サイトなどで生中継される場合など数えるほどしかないだろう。
しかしそれは逆に言えば、注目を集めるに足る理由があれば6組だろうと生中継する場合も存在するというわけだ。特に中学生プロ棋士のデビュー戦ともなれば、熱心な将棋ファンならば仕事を休んででも観戦したいと考えても不思議じゃない。
なので今回将棋連盟は異例の措置として、雪姫と黒羽の対局に関しては対局者が入室する時間から動画サイトで生配信することを決めた。当然将棋ファンからは歓迎の声があがり、それぞれの動画配信には多くの視聴者が詰め掛け、思い思いにコメントを書きながら対局を待ち望んでいる。
『いよいよデビュー戦か。四段昇段の日から待ちわびたぞ』
『この前の竜王戦でサプライズ的に絡んだことはあったけど、結局ゲスト扱いだったからな』
『いきなり竜王取れるとは思わないけど、どこまで行けるのかは見物だよな』
と、そんな他愛もない会話をしていると、ふいに中継映像に動きが見られた。
カメラの邪魔にならない範囲で将棋盤を囲んでいた記者が、急に慌ただしく動き出してカメラを構え始めた。フラッシュこそ焚いていないもののシャッター音がけたたましく鳴り響く中、対局者の1人である黒羽が映像内に姿を現した。大勢の記者達にも臆する様子は無く、顔を上げて堂々とした足取りで進んでいき、下座にどっかりと腰を下ろす。
『さすが奨励会時代から注目されてた天才少年、記者に囲まれてもビビってる様子は無いな』
『幼馴染で同期の白鳥ちゃんとデビュー戦の日を合わせるなんて、連盟も粋なことをしてくれるよな』
『着てるのは学校の制服かな? こうして見ると年相応って感じだな』
『むしろ同世代の中では背が低めだから、むしろ年齢より幼く見えるという』
『見た目だけだったら、サッカーとかの方が似合いそうだもんな』
当然ながら、動画のコメントを対局者本人が見ることはできない。それを良いことに視聴者は好き勝手に色々と言っているが、当の本人はリュックから取り出したアナログの時計やらペットボトルのお茶やらを座布団の周りに並べていき、これから始まる対局に向けて場を整えていく。
そうして一通り準備を終えると、黒羽は正座したまま背筋を伸ばして静かに目を閉じた。時折記者がカメラのシャッターを切るが、先程までと同じく彼に動揺は見られない。
そうしていること5分、周りの記者が部屋の入口へと向き直ってカメラを構え始めた。先程黒羽がやって来たときよりは落ち着いたシャッター音に迎えられ、彼のプロデビュー戦の相手である棋士が姿を現した。深い皺の刻まれたその顔はニコニコと笑みを浮かべ、綺麗に切り揃えられた髪は眩しいくらいに真っ白だ。
『やって来たな。黒羽四段のデビュー戦の相手』
『現役最高齢の73歳、山本九段。勤続50年を突破して尚も順位戦を戦い抜くレジェンドだぞ』
『名人こそ取れなかったけど、A級にだって10年くらい居たもんな』
『何というか、歴史的瞬間に立ち会ってるって感じがするな』
と、視聴者がそんなコメントを書き連ねていると、上座に向かって歩いていた山本九段が、下座に座る黒羽の横を通りがてら彼の頭を突然わしゃわしゃと撫で回してきた。
まるでペットの犬にでもやっているかのような手つきに、黒羽は目を丸くして思わず彼の手を払い除けてしまう。
「な、えっ、ちょ――!」
「あぁ、すまないねぇ。孫と同じくらいの年齢だったから、つい頭を撫でたくなってしまって」
『こwwwれwwwはwww』
『黒羽くんよ、これがプロの盤外戦術というものだ』
『絶対違うwww』
『そりゃ山本九段にとっちゃ孫みたいなもんで可愛いだろうけどさぁwww』
やられた歩は堪ったものではないだろうが、それを見ていた記者達も微笑ましさの方が勝ったようで一様に顔を綻ばせていた。
緊張感に包まれることの多い対局室が、映像越しでも分かるほどにほっこりした雰囲気に包まれた瞬間であった。
一方、別の対局室を映した中継映像では、黒羽よりも少し前に対局室に姿を現した雪姫が下座に腰を下ろして準備を整え終えたところだった。彼女の場合は黒羽とは違い、入室から座布団に腰を下ろして準備を整えている間、ずっと周りを囲む大勢の記者が気になって落ち着かない様子だった。
『うーん、初々しい』
『緊張している若手棋士からしか得られない栄養がある』
『凄いよな。この記者、みんな彼女を撮るためにやって来たんだから』
『これから名人への道を突き進もうって棋士のデビュー戦だからな、記者生命に懸けてでも絶対に撮り逃したくはないだろ』
『おまけに彼女の場合、女性初のプロ棋士って称号もついてくる』
『まさか最初からいきなり中学生がなるとはな、このリハクの目を持ってしても読めなかった』
動画のコメントは、彼女に対する好感と期待に満ちた内容がほとんどだった。男性ばかりだったプロ棋士の世界に突如飛び込んできた女性プロ棋士(しかも中学生)という状況が、彼女を将棋界に新しい風を呼び起こす象徴的な存在に思わせるのかもしれない。
『14歳の誕生日おめでと~』
『そういや今日が丁度誕生日だっけ。プロ初勝利で誕生日を飾れれば良いけど』
『さすがに今日は大丈夫じゃない? だって相手が相手だし』
『それはさすがに相手に失礼じゃないか?』
『そういや白鳥四段ばかり気にしてて対局相手のこと調べてなかったな。誰だっけ?』
と、視聴者のコメントが対局相手に言及し始めたそのタイミングで、雪姫の様子を眺めていた記者達がふいに入口へと顔を向けてカメラを構えた。しかしシャッターを切ったのは1人平均1回か2回程度と、雪姫が対局室にやって来たときとは雲泥の差である。
そうして中継映像に姿を現したのは、見た目としては特徴に乏しい30代前半の男性であった。スーツは使い古されていて若干くたびれており、俯き加減で影の差すその顔も相まってどうにも覇気の無い印象を受ける。
『小西川四段。33歳でフリークラス』
『うーん、黒羽四段の相手と比べるとなぁ……』
『せっかくのデビュー戦なんだから、連盟ももうちょっと良い相手を用意しろよ』
『小西川はなぁ……。そろそろ結果出さないと厳しいんじゃないか?』
フリークラスに所属する棋士は順位戦に参加することができず、編入後10年以内もしくは60歳の誕生日を迎える年度が終了するまでに一定の成績を修めなければ強制的に引退となる。
小西川四段は三段リーグの年齢制限ギリギリとなる25歳のときに、リーグ成績3位に与えられる次点を2つ獲得したことによりフリークラス編入でのプロ入りを果たした。しかしその後、順位戦以外の棋戦に出場しながらも一定の成績を修めることができず、編入から9年目となる現在もフリークラスからの脱出が叶っていない。
『次点2つとはいえ三段リーグを抜けたんだから、それなりに実力はあると思うんだがなぁ』
『プロ入りしてから最初の何年か、特に酷かったよな。三段リーグで燃え尽きたんじゃねぇの?』
『竜王戦でも、最近は1回戦を突破するのがやっとって感じだもんな』
『まぁ、白鳥四段がどんな華々しい勝利を飾るかに期待だな』
小西川が現れてから、動画のコメント欄は彼に対する辛辣な言葉が目立つようになってきた。そこまで露骨ではないものの、周りの記者も小西川に対してカメラを構える者はほとんどおらず、皆が雪姫にばかり興味を向けているのは明白だった。
「…………」
そんな空気の中、小西川は表情を一切動かさず、ジッと盤上を見つめていた。
「それでは定刻となりましたので、只今より竜王ランキング戦6組、第1回戦を開始致します」
こうして将棋盤ごとに様々な空気を孕みながら、対局の火蓋が切られた。